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逃亡
第四十九話 思い出は雨とトマトの味
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それから狷の介抱して、随分時間が経った。もうすっかり夜も更けて、時計の針は一時を指している。狷はなおも目を覚さない。琴子の顔にも疲労の色が見えて、日和は眉を下げた。
「琴子さん、私狷ちゃんのこと見てますから、休んでください」
「大丈夫よ。……って言いたいところだけど、そうね……少し休ませてもらおうかしら」
琴子は申し訳なさそうに笑うと、重そうに腰を上げて膝に手をついた。
「あいたたた……。日和ちゃんも疲れたら休みなさいね。そうだ、布団持ってこないとね」
「私できますよ、どこにありますか?」
「じゃあ……こっちよ」
琴子の後について押し入れへ布団を取りに行く。そのまま琴子は日和に声をかけて寝室に向かっていった。客間には狷と日和だけが残る。時計の秒針が進む音と、夜の夏虫が鳴っている。狷は寝息も立てずに眠り、寂しくはない静寂が客間に漂う。狷は明日の朝まで目を覚さないだろうか。このままずっと彼を看ているのも限界がある。日和自身も疲労を感じ始めていた。
「……狷ちゃん……」
赤い瞳はまだ覗かない。名前を呼べば、いつもなら冷たい視線を向けてくるのに、それもない。
「……早く目を覚まして……」
意識が深くから浮上する。重い瞼を押し上げると、見慣れた天井が視界に入って、助かったのだと悟った。そして、彼等を探す為に体を起こそうとして全身に痛みが走る。小さな呻き声が漏れるが、それも気にせず無理やり起き上がった。見慣れた部屋。視線を落とすと、横で寝息を立てる彼女を見つける。日和は用意された布団には入っておらず、畳の上で小さくなって眠っていた。すうすうと寝息を立てる彼女の手が、自分の寝ていた布団の端を摘んでいる。看病してくれていた、のだろうか。辺りを見回してみても布団は二人分しかない。そこで気付く。——転移は失敗したらしい。いると想定していたはずの鳳凰と正影が見当たらない。やってしまった。二人を探す手間ができてしまった。
ぼうっと日和を見下ろしていると、襖の開く音がして、顔を上げる。廊下からこちらを見つめる琴子はきょとんとした後、安心したような笑顔を咲かせた。
「狷ちゃん、起きたのね。よかった……」
「……いつもいきなり来てすまないな」
「いいのよ。そんなこと言うなんて珍しいわねえ、気を遣わなくてもいいのに」
琴子は客間に足を踏み入れて日和を見ると穏やかな表情を見せる。
「狷ちゃんのことずっと見ててくれたのよ。この子もうちの前に倒れててね……狷ちゃんの友達だなんて、奇遇ね」
それには返さず、狷は目を伏せる。琴子は日和に掛け布団をかけて、顔にかかった彼女の髪をそっと指で戻してやった。
琴子は無駄な詮索はしない。それが琴子と交わした約束だからだ。出会ったのは雨の日だった。腹が減って倒れそうになっていたところで、偶然に見つけたこの家。無心で庭になっていた野菜を盗み食いした。懐かしい記憶が蘇ってくる——。
「……何をしているの?」
ざあざあと雨が地面を叩く音に混ざって声が聞こえた。赤々としたトマトから視線を上げると、女性が呆気にとられたような顔をしてこちらを見つめていた。目と目が合う。これは怒鳴られるだろうと構えたのを見た彼女は、こう口にした。
「風邪を引いちゃうわ、こっちに来て。いいから」
拍子抜けした。まさか怒られないとは。警戒しながらも言う通りにすると、彼女はタオルを持ってきてずぶ濡れになった髪をわしゃわしゃと拭いてくれた。手を引かれて廊下を歩いた。彼女の背中は小さかった。
彼女は一人で住んでいるから、着替えは女物しかないと言う。出してくれたシャツは少し大きかったのを覚えている。
居間に通されて、毛布を被せられ、冷えないようにとあたたかいお茶を出された。風呂に入るようにも言われたが、そこまで世話になる気はなかったので断った。落ち着いた頃に彼女は色々と聞いてきた。どうしてここにいたのか、どこに住んでいるのか、とにかく根掘り葉掘り聞かれた。どれもうやむやに返すと、彼女は不審がっていた。
「家がないの? ご両親は?」
言う必要がない、と言った。彼女はその言葉に黙り込んでいた。そうしてしばらくしていたところ、彼女は口を開いた。
「困ったらここへ来なさいな。いつでも面倒を見てあげるから」
どこまでお人好しなのかと呆れた。でも、彼女の顔は真剣そのものだった。そんな彼女に絆されてしまったのは自分だった。
「琴子さん、私狷ちゃんのこと見てますから、休んでください」
「大丈夫よ。……って言いたいところだけど、そうね……少し休ませてもらおうかしら」
琴子は申し訳なさそうに笑うと、重そうに腰を上げて膝に手をついた。
「あいたたた……。日和ちゃんも疲れたら休みなさいね。そうだ、布団持ってこないとね」
「私できますよ、どこにありますか?」
「じゃあ……こっちよ」
琴子の後について押し入れへ布団を取りに行く。そのまま琴子は日和に声をかけて寝室に向かっていった。客間には狷と日和だけが残る。時計の秒針が進む音と、夜の夏虫が鳴っている。狷は寝息も立てずに眠り、寂しくはない静寂が客間に漂う。狷は明日の朝まで目を覚さないだろうか。このままずっと彼を看ているのも限界がある。日和自身も疲労を感じ始めていた。
「……狷ちゃん……」
赤い瞳はまだ覗かない。名前を呼べば、いつもなら冷たい視線を向けてくるのに、それもない。
「……早く目を覚まして……」
意識が深くから浮上する。重い瞼を押し上げると、見慣れた天井が視界に入って、助かったのだと悟った。そして、彼等を探す為に体を起こそうとして全身に痛みが走る。小さな呻き声が漏れるが、それも気にせず無理やり起き上がった。見慣れた部屋。視線を落とすと、横で寝息を立てる彼女を見つける。日和は用意された布団には入っておらず、畳の上で小さくなって眠っていた。すうすうと寝息を立てる彼女の手が、自分の寝ていた布団の端を摘んでいる。看病してくれていた、のだろうか。辺りを見回してみても布団は二人分しかない。そこで気付く。——転移は失敗したらしい。いると想定していたはずの鳳凰と正影が見当たらない。やってしまった。二人を探す手間ができてしまった。
ぼうっと日和を見下ろしていると、襖の開く音がして、顔を上げる。廊下からこちらを見つめる琴子はきょとんとした後、安心したような笑顔を咲かせた。
「狷ちゃん、起きたのね。よかった……」
「……いつもいきなり来てすまないな」
「いいのよ。そんなこと言うなんて珍しいわねえ、気を遣わなくてもいいのに」
琴子は客間に足を踏み入れて日和を見ると穏やかな表情を見せる。
「狷ちゃんのことずっと見ててくれたのよ。この子もうちの前に倒れててね……狷ちゃんの友達だなんて、奇遇ね」
それには返さず、狷は目を伏せる。琴子は日和に掛け布団をかけて、顔にかかった彼女の髪をそっと指で戻してやった。
琴子は無駄な詮索はしない。それが琴子と交わした約束だからだ。出会ったのは雨の日だった。腹が減って倒れそうになっていたところで、偶然に見つけたこの家。無心で庭になっていた野菜を盗み食いした。懐かしい記憶が蘇ってくる——。
「……何をしているの?」
ざあざあと雨が地面を叩く音に混ざって声が聞こえた。赤々としたトマトから視線を上げると、女性が呆気にとられたような顔をしてこちらを見つめていた。目と目が合う。これは怒鳴られるだろうと構えたのを見た彼女は、こう口にした。
「風邪を引いちゃうわ、こっちに来て。いいから」
拍子抜けした。まさか怒られないとは。警戒しながらも言う通りにすると、彼女はタオルを持ってきてずぶ濡れになった髪をわしゃわしゃと拭いてくれた。手を引かれて廊下を歩いた。彼女の背中は小さかった。
彼女は一人で住んでいるから、着替えは女物しかないと言う。出してくれたシャツは少し大きかったのを覚えている。
居間に通されて、毛布を被せられ、冷えないようにとあたたかいお茶を出された。風呂に入るようにも言われたが、そこまで世話になる気はなかったので断った。落ち着いた頃に彼女は色々と聞いてきた。どうしてここにいたのか、どこに住んでいるのか、とにかく根掘り葉掘り聞かれた。どれもうやむやに返すと、彼女は不審がっていた。
「家がないの? ご両親は?」
言う必要がない、と言った。彼女はその言葉に黙り込んでいた。そうしてしばらくしていたところ、彼女は口を開いた。
「困ったらここへ来なさいな。いつでも面倒を見てあげるから」
どこまでお人好しなのかと呆れた。でも、彼女の顔は真剣そのものだった。そんな彼女に絆されてしまったのは自分だった。
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