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俺とヨスガとリグレット
其ノ九
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昔は家の中庭にも花や木が植えられていて風情があったらしい。だが、今は誰も手をつけないから、コンクリートで埋められてしまって、植物は一本たりともありはしない。
「ばあちゃん、本当にいいんだな」
「ええ、構わないよ」
目の前に立つばあちゃんは死に対して抵抗がないのか落ち着いた様子。むしろ、我が子を見つめる母親の様相で蘇芳を見つめていた。目を合わせていると、また目頭が熱くなってくる。
でも、ここで涙を流すわけにはいかない。泣いたらばあちゃんに心配かけるだけだ。
もう十分涙は流しただろう? もう涙腺は枯れているはずだ。そう自分に言い聞かせた。
「ばあちゃん、今までありがとな」
ばあちゃんに会えるのは、これで最後だ。本当の本当に、ここで終わるんだ。数分後にはもう、この世にはいない。
今思うと、ラッキーだったのかもしれない。こうして、ちゃんと別れを告げられるんだから。唐突に他界されるよりも、いくらかましだ。
最後に感謝の言葉を告げて、終わりにしよう。それだけ伝えられれば、もう後悔はない。
蘇芳は呼吸を整えた。
ばあちゃんに引き取られた日のことを思い出す。
「今まで育ててくれて、ありがとう。おかげでここまで大きくなれた」
ここでの生活の日々を思い出す。
「今まで見守ってくれてありがとう。おかげで自分の頭でよく考えられた」
悪ふざけをして、怒らせた日のことを思い出す。
「たまに叱ってくれてありがとう。おかげでねじ曲がらずに済んだ」
ばあちゃんの手伝いを始めたころのことを思い出す。
「今まで家事させてくれてありがとう。おかげでこの先一人でも苦労しねぇ」
数多の冗談を思い出す。
「今までからかってくれて、冗談言ってくれてありがとう。おかげで退屈せずに済んだ」
溢れてくる思い出は全てがまぶしくて。それでいて、蘇芳自身を輝かせてもくれる。これまで過ごしてきた中で授けてもらったばあちゃんの教えが、確かに自分の中に根付いている。
「ばあちゃん。もう俺のことは心配すんな。ばあちゃんのおかげで割と俺も大人になれたと思うんだ。そりゃ、ばあちゃんからしたらまだまだ子供かもしれねぇけど、でもばあちゃんがいなくなっても、何とか一人でやっていけそうだ。だから、安心して向こうに行っててくれ。俺も後からそっちに行くから」
「分かったよ。蘇芳がそういうなら、おばあちゃんはもう何も言うことはないよ」
これで満足だった。蘇芳にも、言い残したことはもうない。あとは……。
「……」
隣のヨスガは、いつもの陽気な姿からは一変して、一言も発する様子はなかった。ばあちゃんもばあちゃんで、蘇芳には話しかけるものの、ヨスガには一瞥もくれやしない。
「ばあちゃん。なんかヨスガと話してやってくれよ」
「一体、何のことだろうね」
この期に及んでも、飽くまで白を切るつもりらしい。
「ヨスガ。お前もなんか言うことねぇのか。もう最後なんだぞ」
「わたしはいいよ」
何か一言、謝罪の言葉を告げてしまえばそれで解決することなのに、そんな簡単なことがこの二人にはほど遠い。ばあちゃんは相変わらず意地を張っているし、ヨスガはヨスガで、どうしてその一言が出ないのだろう。
「ほんとに何もねぇのかよ。喧嘩してたんだろ。このまま別れていいのかよ。何かあるだろ」
こんな中途半端な形で終わらせたくなかった。目の前でこんな気まずそうにされたら、放って置けるわけがない。だけど。
「おい、ヨスガ――」
彼女たちのしょうもない意思は、想像以上に固いらしい。カランカランと軽い音を立てて、鞘に収まった刀が地面に転がった。早くしろという意思表示だろうか。
「蘇芳」
無意識に握られた蘇芳の手を、ばあちゃんが取っていた。
白い封筒を差し出してくる。
「これって……」
「おばあちゃんが向こうに行ってから開くんだよ」
渡されたのは二通の手紙。ばあちゃんが知り合いたちに向けて出した手紙より少しだけ分厚い紙質の封筒だった。上側の封筒には『蘇芳へ』と達筆に筆書きされていた。
「……」
手紙を受け取り呆けた蘇芳をばあちゃんは叱咤する。
「早く刀を取りな」
急かすようなもの言い。カっと見開かれた眼光に、発破をかけられているような気分。
それから表情は徐々に柔和になった。ただし、蘇芳から目線だけは逸らさない。
「最後にあんたが縁切りをしている姿。おばあちゃんに見せとくれ」
そう懇願されてしまっては、ばあちゃんに懇願されてしまっては、断ろうにも断れない。
蘇芳は刀を手に取ると、鞘から静かに抜き出した。
ああ、これで本当に終わるんだ。ばあちゃんの八十二年の人生に、蘇芳が幕を下ろすんだ。そう考えると、蘇芳には恐れ多い。
結局、ばあちゃんとヨスガは言葉を交わさずに終わってしまった。それだけが心残りで。今からでも何かしてやれないかとも考えるけど、それをしても微動だにしてくれなさそうな二人の未来がありありと見えてしまう。それが本人たちの意志なら、もうそれでもいいのかもしれない。
刀を構える。
直前になって、急に躊躇いが顔を覗かせる。もしここで、蘇芳がバックレたら、どうなるのだろう。想像してみる。そんなことをしたら、それこそ心配かけちまって、ばあちゃんも気が気じゃないだろう。そんな不甲斐ない姿、見せられるはずもない。
蘇芳は気を取り直す。ここからはもう、無心だった。
ばあちゃんの肩を掴む。刀を大きく振り上げた。
――じゃあな
見つめる瞳が穏やかに笑った。
そして、
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「おーい。そこの少女。おーい。おーいってばぁ」
境内に生える木の幹に背を倒して、うたた寝をしていると、誰かが声をかけてきた。鮮やかな金色が存在感を放っている。長い髪をした着物姿の少女。はっきり言って見覚えはない。
「あんた誰」
「わたしはヨスガ。縁切りの精霊だよ。あなたが次の縁切り主なんだって?」
「縁切りの精霊? まさか本当にいたとはね。でも、わたしは縁切り主になるつもりはないから。あんまり馴れ馴れしくしないで」
「まあまあ、そんなカリカリしないで。それについては謝るから。もうちょっと大人の付き合いをしようよ。これから何十年も一緒に仕事をするんだから。ねっ。ちなみにあなた、名前は何ていうの?」
妙に距離感が近くて、めんどくさそうな女だ。精霊っていうのは、もっと威厳あるものかと思っていたが、案外そうでもないらしい。
「藤原菊。それがわたしの名前」
「ふーん。菊ちゃんって言うんだ。よろしくね菊ちゃん」
「わたしは名前を聞かれたから答えただけ。別に仲良くする気なんてないから。分かったらさっさと向こう行ってくれない」
「言われなくても分かってるって。じゃっ、これからよろしくね」
「っておい。話聞いてたか」
思わず声を上げた時には、精霊はすでにいなかった。
人の縁を切るなんて趣味の悪いこと、引き受けるつもりは微塵もなかった。まあ、いざとなったら適当にあしらって巻いてしまえばいい。そう思っていた。
けれど、見過ごせない事件が起きて、精霊に縁切りを促されて。そんなことが何度か続くうちに、縁切りも悪くないものだなと思え始めて、なんだかんだ縁切り主になっていた。
「今日も大変だったねぇ。じゃっ、わたしは戻るから、また縁切りするときは本殿まで来てね」
精霊は縁切りが終わるといつも神棚の前へと帰っていく。表目にはいつも明るく振る舞っているけれど、彼女は決まって一人だ。縁切りの時以外はずっと社の中に一人でいるんだ。陽気な一人ぼっち。その相反する要素が何となく気になった。
「あんたさ、いつも本殿にいるわけ?」
「そうだけど、どうかした?」
「いつも一人みたいだけど、寂しくないの?」
「わたしは人間とは違ってそういう感情を持ち合わせてないからね。一人だからってどうとも思わないけど」
そう言い張る彼女に親近感を抱いてしまったのは、おそらく自分も似たような境遇だったからだろう。
だから、興味が沸いた。自分とは違う精霊という存在にこんなにも共感できるなんて思ってもいなかったから。
「ねぇ、あんた。わたしがそこから連れ出してあげようか」
「えっ?」
「だから、一緒にいてやるって言ってんだよ。ほら、共に縁切りしてる以上、もう少しお互いのこと知ってた方がいいと思うし。縁切りの時だけの関係ってのも、なんか気持ち悪いでしょ」
「へぇ。そんなにわたしと一緒にいたいの? もぉ、寂しがり屋さんだなぁ」
少しでもこちらが下手に出ると、すぐに調子に乗りやがる。けれどそれはまあ、嫌悪し遠ざけるほどのものでもない。
「うるさい。それでどうすんの。乗るのか乗らないのか」
「うん。いいよ。一緒にいてあげる」
妙に上から目線で傲慢なやつだ。でも、わたしにそんな接し方をするやつなんていないから、逆におもしろそうだ。そう思えた。
「おい、菊。お前、どうしてその御刀を持ち出してるんだ。それがどれだけ罰当たりなことか分かってるのか」
「こらっ、菊。また御刀を持ち出して。縁切り主を継いだからって、御刀を使うことなんてないでしょ。使わないのであれば、本殿に戻しておきなさい。それがどれだけ神聖なものか分かってるの?」
大人たちはわたしがヨスガと一緒にいることに、いやにうるさかった。まあ、どうでもいいけれど。
「これだけ大人たちに怒られてるのに、それでもわたしを持ち出すなんて、菊ちゃんはよっぽどわたしのことが気に入ってるんだね」
「別にそんなんじゃないから。それに、ヨスガだっていつも乗り気じゃんかよ」
「まぁね」
「それと、わたしにはあの大人たちの考えがよく分かんない。ヨスガのことをあれだけ崇めているくせに、ヨスガが存在している事実とか、縁切りのこととか、能力のこととかにはいまいち理解がない。信じるのか信じねぇのかはっきりしろってんだ。そんな適当なことだから、ヨスガは何百年も――」
そう言いながらヨスガへと視線を向けると、彼女はニマニマと笑っていた。何となく腹が立つ。
「なに?」
「別に」
彼女はそうやって、すぐにわたしをからかった。わたしは人からからかわれることなんて少なかったから、どういう反応していいのか分からない。それが返ってツボだったのだろう。彼女のからかいは、度を増すばかり。
こちらとしては、おもしろくない。やられっ放しじゃ藤原菊の名が廃る。仕返しをしてやらないと。
持ち出したのは、日本刀のレプリカ。ヨスガに似て柄の部分は木製だ。これを手に入れるのには結構苦労した。
「ヨスガ行くよ。あんた、ちょっと短くなったんじゃないの。まあいいけど。今日も元気に縁切りしますか」
わたしがレプリカを大事そうに抱えていると、ヨスガは心配そうに付きまとってきた。
「ちょっと。
そっちはわたしじゃないんですけど。
ねぇ。
ちょっと。
ねぇってば!」
散々焦らしたところでニヤッと歯を見せてやると、ヨスガは『もぉぉぉぉぉ』と悔しそうに地団太を踏んでいた。こんな安っぽい演技にも引っかかるのか。からかうのは得意でも、からかわれるのには弱いらしい。
いつも余裕顔の彼女に、一発入れてやれたのがうれしくて、その後もわたしは彼女を度々からかい続けた。
こちらが仕掛けると、向こうもすぐに返してくる。負けじと次を模索していると、彼女は二発三発入れてくる。本当に腹立たしいやつだ。だけど、そんな関係が絶妙に心地よかった。
時の流れは、日に日に速まっているように感じられた。縁切りをしてからかわれて、からかい返してまたからかわれて。そうこうしているうちに、いつのまにか寿命が迫っていたらしい。
「そっか、閻魔様と……。確かに菊も、もういい歳だしね」
同じような日常が、永遠に続くような錯覚をしていたんだと思う。だから、足りなかった。永遠に比べると、自分が彼女と過ごしてきた日々は、あまりにも短かったのだから。
「そこでわたしも考えたんだけどねぇ、死んだ後も成仏しなければいいんじゃないかって思っているわ。そうすれば、幽体として何年でもあなたと一緒にいられる。蘇芳のことも見守っていられる。だからわたしは、こっちに留まろうと思う」
きっと賛同してくれるだろう。時を同じくしてきたヨスガなら、きっと同じ気持ちだろう。そう思っていた。けれど。
「それはダメ」
猛烈に反対された。
「人は輪廻転生を繰り返すものなの。それが正しい流れ。流れに逆らってこの世に居続けるのは、絶対に苦しい未来が待っている。成仏した方が幸せになれるものだって、わたしを生んでくれた神様は言ってたよ。わたしは菊に不幸になって欲しくない。だから、この世に留まるのは止めて欲しい」
だから、喧嘩をした。どうして分かってくれないんだ、と想いをぶつけた。
今までの時間に幸福を感じていたのは自分だけだったのかと、そんなの受け入れられないって。非常にやるせなくて、感情でヨスガを殴りつけた。
でもヨスガは最後まで、わたしが期待したような回答はしなかった。彼女は徹底して、彼岸へ行くことを促してきた。
「なら、勝手にすればいいじゃん。わたしはもう止めてあげないから」
言い残してヨスガは、去っていく。
一方的なヨスガの態度に、大人気なくも腹が立った。
でも、本当は気がついていた。何を言っても、彼女が意見を変えることがないことに。ヨスガが本心から自分のことを思ってくれていることに。
こちらから適当に頭を下げれば、またすぐに元の日常に戻れるのだろう。それがいつものことだったから。
それでも、顔すら合わせようとしなかったのは、意地やプライドなんかではなくて、単純に確かめたかっただけだ。本当は持っているだろう彼女の情ってやつを。わたしへの本心を。
「ばあちゃん、本当にいいんだな」
「ええ、構わないよ」
目の前に立つばあちゃんは死に対して抵抗がないのか落ち着いた様子。むしろ、我が子を見つめる母親の様相で蘇芳を見つめていた。目を合わせていると、また目頭が熱くなってくる。
でも、ここで涙を流すわけにはいかない。泣いたらばあちゃんに心配かけるだけだ。
もう十分涙は流しただろう? もう涙腺は枯れているはずだ。そう自分に言い聞かせた。
「ばあちゃん、今までありがとな」
ばあちゃんに会えるのは、これで最後だ。本当の本当に、ここで終わるんだ。数分後にはもう、この世にはいない。
今思うと、ラッキーだったのかもしれない。こうして、ちゃんと別れを告げられるんだから。唐突に他界されるよりも、いくらかましだ。
最後に感謝の言葉を告げて、終わりにしよう。それだけ伝えられれば、もう後悔はない。
蘇芳は呼吸を整えた。
ばあちゃんに引き取られた日のことを思い出す。
「今まで育ててくれて、ありがとう。おかげでここまで大きくなれた」
ここでの生活の日々を思い出す。
「今まで見守ってくれてありがとう。おかげで自分の頭でよく考えられた」
悪ふざけをして、怒らせた日のことを思い出す。
「たまに叱ってくれてありがとう。おかげでねじ曲がらずに済んだ」
ばあちゃんの手伝いを始めたころのことを思い出す。
「今まで家事させてくれてありがとう。おかげでこの先一人でも苦労しねぇ」
数多の冗談を思い出す。
「今までからかってくれて、冗談言ってくれてありがとう。おかげで退屈せずに済んだ」
溢れてくる思い出は全てがまぶしくて。それでいて、蘇芳自身を輝かせてもくれる。これまで過ごしてきた中で授けてもらったばあちゃんの教えが、確かに自分の中に根付いている。
「ばあちゃん。もう俺のことは心配すんな。ばあちゃんのおかげで割と俺も大人になれたと思うんだ。そりゃ、ばあちゃんからしたらまだまだ子供かもしれねぇけど、でもばあちゃんがいなくなっても、何とか一人でやっていけそうだ。だから、安心して向こうに行っててくれ。俺も後からそっちに行くから」
「分かったよ。蘇芳がそういうなら、おばあちゃんはもう何も言うことはないよ」
これで満足だった。蘇芳にも、言い残したことはもうない。あとは……。
「……」
隣のヨスガは、いつもの陽気な姿からは一変して、一言も発する様子はなかった。ばあちゃんもばあちゃんで、蘇芳には話しかけるものの、ヨスガには一瞥もくれやしない。
「ばあちゃん。なんかヨスガと話してやってくれよ」
「一体、何のことだろうね」
この期に及んでも、飽くまで白を切るつもりらしい。
「ヨスガ。お前もなんか言うことねぇのか。もう最後なんだぞ」
「わたしはいいよ」
何か一言、謝罪の言葉を告げてしまえばそれで解決することなのに、そんな簡単なことがこの二人にはほど遠い。ばあちゃんは相変わらず意地を張っているし、ヨスガはヨスガで、どうしてその一言が出ないのだろう。
「ほんとに何もねぇのかよ。喧嘩してたんだろ。このまま別れていいのかよ。何かあるだろ」
こんな中途半端な形で終わらせたくなかった。目の前でこんな気まずそうにされたら、放って置けるわけがない。だけど。
「おい、ヨスガ――」
彼女たちのしょうもない意思は、想像以上に固いらしい。カランカランと軽い音を立てて、鞘に収まった刀が地面に転がった。早くしろという意思表示だろうか。
「蘇芳」
無意識に握られた蘇芳の手を、ばあちゃんが取っていた。
白い封筒を差し出してくる。
「これって……」
「おばあちゃんが向こうに行ってから開くんだよ」
渡されたのは二通の手紙。ばあちゃんが知り合いたちに向けて出した手紙より少しだけ分厚い紙質の封筒だった。上側の封筒には『蘇芳へ』と達筆に筆書きされていた。
「……」
手紙を受け取り呆けた蘇芳をばあちゃんは叱咤する。
「早く刀を取りな」
急かすようなもの言い。カっと見開かれた眼光に、発破をかけられているような気分。
それから表情は徐々に柔和になった。ただし、蘇芳から目線だけは逸らさない。
「最後にあんたが縁切りをしている姿。おばあちゃんに見せとくれ」
そう懇願されてしまっては、ばあちゃんに懇願されてしまっては、断ろうにも断れない。
蘇芳は刀を手に取ると、鞘から静かに抜き出した。
ああ、これで本当に終わるんだ。ばあちゃんの八十二年の人生に、蘇芳が幕を下ろすんだ。そう考えると、蘇芳には恐れ多い。
結局、ばあちゃんとヨスガは言葉を交わさずに終わってしまった。それだけが心残りで。今からでも何かしてやれないかとも考えるけど、それをしても微動だにしてくれなさそうな二人の未来がありありと見えてしまう。それが本人たちの意志なら、もうそれでもいいのかもしれない。
刀を構える。
直前になって、急に躊躇いが顔を覗かせる。もしここで、蘇芳がバックレたら、どうなるのだろう。想像してみる。そんなことをしたら、それこそ心配かけちまって、ばあちゃんも気が気じゃないだろう。そんな不甲斐ない姿、見せられるはずもない。
蘇芳は気を取り直す。ここからはもう、無心だった。
ばあちゃんの肩を掴む。刀を大きく振り上げた。
――じゃあな
見つめる瞳が穏やかに笑った。
そして、
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「おーい。そこの少女。おーい。おーいってばぁ」
境内に生える木の幹に背を倒して、うたた寝をしていると、誰かが声をかけてきた。鮮やかな金色が存在感を放っている。長い髪をした着物姿の少女。はっきり言って見覚えはない。
「あんた誰」
「わたしはヨスガ。縁切りの精霊だよ。あなたが次の縁切り主なんだって?」
「縁切りの精霊? まさか本当にいたとはね。でも、わたしは縁切り主になるつもりはないから。あんまり馴れ馴れしくしないで」
「まあまあ、そんなカリカリしないで。それについては謝るから。もうちょっと大人の付き合いをしようよ。これから何十年も一緒に仕事をするんだから。ねっ。ちなみにあなた、名前は何ていうの?」
妙に距離感が近くて、めんどくさそうな女だ。精霊っていうのは、もっと威厳あるものかと思っていたが、案外そうでもないらしい。
「藤原菊。それがわたしの名前」
「ふーん。菊ちゃんって言うんだ。よろしくね菊ちゃん」
「わたしは名前を聞かれたから答えただけ。別に仲良くする気なんてないから。分かったらさっさと向こう行ってくれない」
「言われなくても分かってるって。じゃっ、これからよろしくね」
「っておい。話聞いてたか」
思わず声を上げた時には、精霊はすでにいなかった。
人の縁を切るなんて趣味の悪いこと、引き受けるつもりは微塵もなかった。まあ、いざとなったら適当にあしらって巻いてしまえばいい。そう思っていた。
けれど、見過ごせない事件が起きて、精霊に縁切りを促されて。そんなことが何度か続くうちに、縁切りも悪くないものだなと思え始めて、なんだかんだ縁切り主になっていた。
「今日も大変だったねぇ。じゃっ、わたしは戻るから、また縁切りするときは本殿まで来てね」
精霊は縁切りが終わるといつも神棚の前へと帰っていく。表目にはいつも明るく振る舞っているけれど、彼女は決まって一人だ。縁切りの時以外はずっと社の中に一人でいるんだ。陽気な一人ぼっち。その相反する要素が何となく気になった。
「あんたさ、いつも本殿にいるわけ?」
「そうだけど、どうかした?」
「いつも一人みたいだけど、寂しくないの?」
「わたしは人間とは違ってそういう感情を持ち合わせてないからね。一人だからってどうとも思わないけど」
そう言い張る彼女に親近感を抱いてしまったのは、おそらく自分も似たような境遇だったからだろう。
だから、興味が沸いた。自分とは違う精霊という存在にこんなにも共感できるなんて思ってもいなかったから。
「ねぇ、あんた。わたしがそこから連れ出してあげようか」
「えっ?」
「だから、一緒にいてやるって言ってんだよ。ほら、共に縁切りしてる以上、もう少しお互いのこと知ってた方がいいと思うし。縁切りの時だけの関係ってのも、なんか気持ち悪いでしょ」
「へぇ。そんなにわたしと一緒にいたいの? もぉ、寂しがり屋さんだなぁ」
少しでもこちらが下手に出ると、すぐに調子に乗りやがる。けれどそれはまあ、嫌悪し遠ざけるほどのものでもない。
「うるさい。それでどうすんの。乗るのか乗らないのか」
「うん。いいよ。一緒にいてあげる」
妙に上から目線で傲慢なやつだ。でも、わたしにそんな接し方をするやつなんていないから、逆におもしろそうだ。そう思えた。
「おい、菊。お前、どうしてその御刀を持ち出してるんだ。それがどれだけ罰当たりなことか分かってるのか」
「こらっ、菊。また御刀を持ち出して。縁切り主を継いだからって、御刀を使うことなんてないでしょ。使わないのであれば、本殿に戻しておきなさい。それがどれだけ神聖なものか分かってるの?」
大人たちはわたしがヨスガと一緒にいることに、いやにうるさかった。まあ、どうでもいいけれど。
「これだけ大人たちに怒られてるのに、それでもわたしを持ち出すなんて、菊ちゃんはよっぽどわたしのことが気に入ってるんだね」
「別にそんなんじゃないから。それに、ヨスガだっていつも乗り気じゃんかよ」
「まぁね」
「それと、わたしにはあの大人たちの考えがよく分かんない。ヨスガのことをあれだけ崇めているくせに、ヨスガが存在している事実とか、縁切りのこととか、能力のこととかにはいまいち理解がない。信じるのか信じねぇのかはっきりしろってんだ。そんな適当なことだから、ヨスガは何百年も――」
そう言いながらヨスガへと視線を向けると、彼女はニマニマと笑っていた。何となく腹が立つ。
「なに?」
「別に」
彼女はそうやって、すぐにわたしをからかった。わたしは人からからかわれることなんて少なかったから、どういう反応していいのか分からない。それが返ってツボだったのだろう。彼女のからかいは、度を増すばかり。
こちらとしては、おもしろくない。やられっ放しじゃ藤原菊の名が廃る。仕返しをしてやらないと。
持ち出したのは、日本刀のレプリカ。ヨスガに似て柄の部分は木製だ。これを手に入れるのには結構苦労した。
「ヨスガ行くよ。あんた、ちょっと短くなったんじゃないの。まあいいけど。今日も元気に縁切りしますか」
わたしがレプリカを大事そうに抱えていると、ヨスガは心配そうに付きまとってきた。
「ちょっと。
そっちはわたしじゃないんですけど。
ねぇ。
ちょっと。
ねぇってば!」
散々焦らしたところでニヤッと歯を見せてやると、ヨスガは『もぉぉぉぉぉ』と悔しそうに地団太を踏んでいた。こんな安っぽい演技にも引っかかるのか。からかうのは得意でも、からかわれるのには弱いらしい。
いつも余裕顔の彼女に、一発入れてやれたのがうれしくて、その後もわたしは彼女を度々からかい続けた。
こちらが仕掛けると、向こうもすぐに返してくる。負けじと次を模索していると、彼女は二発三発入れてくる。本当に腹立たしいやつだ。だけど、そんな関係が絶妙に心地よかった。
時の流れは、日に日に速まっているように感じられた。縁切りをしてからかわれて、からかい返してまたからかわれて。そうこうしているうちに、いつのまにか寿命が迫っていたらしい。
「そっか、閻魔様と……。確かに菊も、もういい歳だしね」
同じような日常が、永遠に続くような錯覚をしていたんだと思う。だから、足りなかった。永遠に比べると、自分が彼女と過ごしてきた日々は、あまりにも短かったのだから。
「そこでわたしも考えたんだけどねぇ、死んだ後も成仏しなければいいんじゃないかって思っているわ。そうすれば、幽体として何年でもあなたと一緒にいられる。蘇芳のことも見守っていられる。だからわたしは、こっちに留まろうと思う」
きっと賛同してくれるだろう。時を同じくしてきたヨスガなら、きっと同じ気持ちだろう。そう思っていた。けれど。
「それはダメ」
猛烈に反対された。
「人は輪廻転生を繰り返すものなの。それが正しい流れ。流れに逆らってこの世に居続けるのは、絶対に苦しい未来が待っている。成仏した方が幸せになれるものだって、わたしを生んでくれた神様は言ってたよ。わたしは菊に不幸になって欲しくない。だから、この世に留まるのは止めて欲しい」
だから、喧嘩をした。どうして分かってくれないんだ、と想いをぶつけた。
今までの時間に幸福を感じていたのは自分だけだったのかと、そんなの受け入れられないって。非常にやるせなくて、感情でヨスガを殴りつけた。
でもヨスガは最後まで、わたしが期待したような回答はしなかった。彼女は徹底して、彼岸へ行くことを促してきた。
「なら、勝手にすればいいじゃん。わたしはもう止めてあげないから」
言い残してヨスガは、去っていく。
一方的なヨスガの態度に、大人気なくも腹が立った。
でも、本当は気がついていた。何を言っても、彼女が意見を変えることがないことに。ヨスガが本心から自分のことを思ってくれていることに。
こちらから適当に頭を下げれば、またすぐに元の日常に戻れるのだろう。それがいつものことだったから。
それでも、顔すら合わせようとしなかったのは、意地やプライドなんかではなくて、単純に確かめたかっただけだ。本当は持っているだろう彼女の情ってやつを。わたしへの本心を。
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