寄るな。触るな。近付くな。

きっせつ

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忘れないで

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とてもとても寒い日の事だった。

小さな押入れのような部屋で僕の母の命が消えようとしていた。

「おっかぁ。おっかぁ。一人にせんでッ!! 」

僕には母しかいなかった。
僕の全ては母で病弱な母の為に生きていた。

母の為に僕を乱暴に扱う使用人どもにも媚び、何度殴られようとも厨房から食料を盗み、母の命を繋いだ。


母はこの屋敷の使用人だった。
だが、その容姿から領主様であるこの屋敷の当主様から見初められ、愛人として僕を産んだ。しかし産後の肥立ちが悪く。母は病気になり、当主様の相手が出来ない身体になった。

そして母はこの部屋に押し込められ、僕は無きものとして扱われた。

虚ろになった母の瞳に涙が浮かぶ。焦点が合わなかった瞳が一瞬だけ僕を写した。

「当主様? やっと…来てくださったの…ですね。私を…私を見て。」

それが母の最期の言葉だった。
最期に僕を映した瞳には僕が映っていた筈なのにその瞳の中には僕はいなかった。

ー 僕は…おっかぁの何? 

ただの肉の塊となった母の前で呆然と立ち尽くした。あんなに愛し、生きて欲しいと思っていた人なのに涙すら出なかった。



母だったものの腐敗が始まった頃、やっとあの男は来た。

その臭いに顔を顰めながらただ「片付けろ。」とだけ、使用人達に声を掛けた。

その男は母だったものを置いて早々に部屋を出ようとしたが、片隅にいた僕を見つけた。

その男は卑しい目で僕を見て、乱暴に僕の顎を掴んで引き寄せた。

「ほぉ、あの女にそっくりだ。まだ幼いが飼うには丁度いい。」

男は顎をするりと猫を扱うように撫で僕の身体をまさぐった。逃げようとしたが僕の耳に息を掛けるように男は囁いた。

「ちゃんといい子にするなら愛してあげるよ。いっぱいいっぱい愛してあげる。愛しい愛しい『仔猫ちゃん』。」

初めて愛しいと言われた。
初めて愛してあげると言われた。

その瞳には僕がきちんと映ってて、僕だけがそこにいる。



何度それから身体を重ねただろう。何度愛が欲しくて我が君の為に身体を開いただろう。

それがただのお遊びだと本当は分かっていて。本当の意味で愛される事はないと分かっていて。それでも偽りの愛に縋った。

一番になりたいと美容にもこだわり、身なりにも今まで教わってこなかった勉強も独学で頑張った。

それでも心の本当の奥底は満たされない。満たされる事はなかった。



それは精通して新たな快楽を身体に教え込まれて、果てていた夜遅く。

部屋の窓の外には何時ものようにシンシンと雪が降っていた。

上手く動かせない身体を引き摺り何の感慨もなくただ外を眺めた。

ふわりふわりと降る雪の中、一人の少年
が雪の積もる屋敷の屋根を駆けていた。

何事かと目を凝らすと一瞬雪降る雲の合間から月明かりが漏れる。その月明かりに照らされてねずみの顔を模したおかしなお面を付けた少年が、映し出された。

一見珍妙な姿だが、羽根のように軽く駆ける姿はとても美しく見えた。それはまるで鳥のように何処までも自由に飛んでいきそうでその光景に思わず見入った。

『大泥棒ネズミ』

界隈を賑わせるお尋ね者。
折角盗んだ金銀財宝を民にばら撒く酔狂な泥棒。

屋敷のものから言わせればゴミ溜めに住む粗大ゴミ。とても美しいといえる分類じゃない。

ー そんなゴミが僕より美しい訳ない。

身体に付いた情事の跡を布団で覆い。そう自身に言い聞かせた。

あんな泥棒を美しいと思うなんて。羨ましいと思うなんてそんな事ある筈がない。

ー あの仮面を剥がしてやろう。きっと醜いに決まっている。



何度も策を練り、我が君も手を焼くあの少年を捕まえる為に策を弄した。

あの少年は頭が切れ、策が上手くいくまでに五年掛かってしまったが、それでもあの少年いや、あの男からやっと仮面を引っぺがす事に成功した。


何処にでもいるような顔の男だった。その目蓋を開くまでは…。

仮面の中に隠されていた瞳。 
それは薄汚い泥棒の癖にその瞳はとても澄み切っていた。そしてそれを不覚にも美しいと思ってしまった。


ー 違う。違う。違う違う違う違う。

あんな奴が美しい訳ない。
ワシが一番なんだ。ワシが一番美しい。だから我が君も可愛がってくれる。だから……。


我が君が起こした婦女子殺害の罪を被せると物の見事に民達はネズミに怒りを向けた。ネズミが降らした金で命を繋いでいた者達までネズミを叫断した。

ー やはりゴミ溜めの住人は醜い。

しかしそんな中でもネズミは最後まで絶望の表情を浮かべなければ泣きも怒りもしなかった。

ただ受け入れていた。
その瞳が濁る事はなく、澄み切ったままで…。

「どうしたかのぉ、ドブネズミ。あまりの事に言葉もでないかのぉ。」

そうクツクツと嗤い本性を炙り出そうとした。しかし怒声が飛んでくる中ネズミは少し諦めたかのように笑った。

「叫べるって事は元気の証だねぇ。良かったよ。皆んなが元気でさぁ。」

そう言い残し、極刑の為に馬車に乗り込んだ。

ー 何故笑える?

ふつふつと怒りと身を焦がすようなメラメラとした感情が湧いてくる。

何故恨まない。何故穢れない。
何故その瞳は曇らない。

彼奴を嵌めたのはワシだ。
彼奴を破滅に追い込んだのはワシだ。

何故ワシを恨まない。
何故ワシに怒りを向けない。
何故だ……。

何故……。
ワシがこんな惨めな思いになるのだ。
何故……。何故。





曇りのない美しい瞳がこちらを見ている。何の感慨もなく、映すその瞳にはただが映っている。


「僕を見て。僕を……忘れ…ないで。」

その瞳に困惑の色が浮かぶ。
しかしやはり何処までも澄んでいてとても美しい。その瞳が僕だけを映している。

「忘れないよ。」

視界が霞んでいく。
何かが身体からなくなっていく。
最期の瞬間までその瞳を目に焼き付けた。



ずっと因縁の相手だった。
その因縁の相手が領主様の屋敷で殺されたあの痩せ細った女性のように胸から血を流して絶命していた。

ヤマネコが絶命するとボスを失ったヒヒ系達はカスターに怯え、呆気なく、一目散に逃げていった。

長い因縁にしてはとても呆気ない最期で思わず、命が尽きるその時までボケッとヤマネコを見てしまった。

ー 援護に行ってやんなきゃあ、いけないってぇのになぁ。

ヤマネコの瞳孔の開いた目を閉めて、合掌する。

毎回、ヤマネコはオイラにちょっかいを出してきたり、陥れたりする。しかしそれでも本気でオイラを殺して来ようとはコイツはしない。だから今まで本気で死合った事はなかった。

ー さっきから身体が痺れっけど、これは毒かねぇ。

ピリピリと手が痺れる。
どうやら麻痺毒のようだが、痺れるだけで痛みや苦しみはない。
捕らえるつもりだったらしい。

「ホント、やり辛いねぇ。お前さんは…。毎度こうだから恨むに恨めない。」

身体が痺れて膝をつくとカスターが駆け寄ってきて、オイラを守るように包む。

「何でい? 援護に行かんでいいの? 」

どうやらこの魔獣はご主人さん達の想いをよく汲み取っているようで、オイラをここに置いて行く気はないらしい。

ー まぁ、確かにこの状態でぇ、置いてかれちゃあ。他の魔獣に食われちまう。

「しょーじき、限界よぉ。病み上がりだしねぇ。リヒッちゃん人使い荒い。」

ゆっくり意識を手放すと獣の香りに包まれた。煩わしいと思っていた因縁が終わってしまうと何だか意外にも寂しくて思わず、温いその獣臭い毛に顔を埋めた。
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