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序章 フィリピン沖海戦
エンガノ岬沖海戦
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時に一九四四年十月二十四日、フィリピン北東、エンガノ岬。
「――何? 武蔵が沈んだ? 小澤中将は何をやっているのだ」
海軍技術大佐、岡本平八。とある研究を牽引する生粋の科学者だ。研究に取り憑かれた狂人と評価する者もいるが、彼は全く気にしていない。
4日前からフィリピン周辺で激闘を繰り広げている帝国海軍とアメリカ海軍。とは言っても両軍の戦力差は圧倒的であり、特に空母の数は5対35と絶望的であった。正規空母は今や翔鶴と瑞鶴の二隻しかなく、残りは軽空母ばかりである。
多くの艦が沈む中、その数少ない空母を麾下に収める機動部隊本隊は、フィリピンから遠く離れた海でぼうっとしているばかりであった。
「どうして動かない。どうして私の瑞鶴を出させてくれないのだ!」
「まあまあ。瑞鶴は秘密兵器なわけですし……」
「ここで温存していつ出すと言うのだ? 海軍の連中も日米の天王山などと謳っていたではないか。フィリピンを取るか取られるかが懸かったこの海戦が、重要ではないとでも?」
「そう言われても困りますよ……」
「ふむ、そうだな。こうなったら小澤中将に直談判するしかあるまい」
「え、本気ですか?」
「本気だとも。行くぞ。瑞鶴も連れてな」
「は、はいっ!」
○
軽空母千代田は、艦隊司令長官である小澤治三郎中将が座乗する機動艦隊の旗艦である。岡本大佐はその艦に内火艇で乗り込んで、艦橋の小澤中将に直談判しに来た。
「中将閣下、お言葉ですが、閣下の御判断には承服しかねます。何故に瑞鶴を出さないのですか?」
「まだ、その時ではない。瑞鶴はまだ実践投入するべき段階ではない。それだけのことだ」
「何を言っているのですか! 瑞鶴は既に実戦に向けた訓練を完了させています。そもそも軍令部がそう判断したからここにいるのですよ?」
「こうするのが最善なんだ。下がりたまえ」
「小澤中将、私はいつでも出られるわ」
コツコツと堅い足音を立てながら艦橋に上がって来たのは、濃紺色の着物を着て二本の角と鉄の尻尾を生やした異形の少女。彼女こそが『瑞鶴』である。
「瑞鶴……来ていたのか」
「瑞鶴と私を出させてください! 今この時にも大勢の人たちがアメリカ人に殺されて……」
瑞鶴の隣に立つ、彼女とは正反対に白い着物を着て、同じように角と尻尾を持つ少女。その名は翔鶴。瑞鶴の『姉』である。瑞鶴とは反対に、涙が出そうなくらい悔しげな顔をして中将に訴える。
「君は、いや君達は、本当にそれを望むのか?」
「ええ。私達は戦うために生まれたんだから」
「私も瑞鶴と同じです。どうか戦わせてくれませんか?」
「……いや、ダメだ。海軍は事前の計画通り、君達抜きで作戦を遂行する」
瑞鶴と翔鶴、そして岡本大佐は出撃を訴えたが、小澤中将は全く受け入れなかった。
「……そうですかそうですか。それでは中将閣下の御采配とやらを見せて頂きましょう。きっと連合艦隊全滅以上の戦果をもたらしてくれるのでしょうね!」
「…………」
瑞鶴の言葉に小澤中将は否定も肯定もしなかった。こんな敗北主義的な言葉を誰も咎めないほどには、誰もが敗北を予感していたのだ。
「ほら、お姉ちゃん、行こ。さよなら、中将閣下」
瑞鶴は翔鶴の手を引く。
「あ、ちょっと、待ってください! 中将閣下、妹が申し訳ありませんでした……」
「我が瑞鶴が失礼を。それでは私も失礼します」
小澤中将は失礼を咎めることもせず、彼らを黙って見送った。
○
旗艦千代田を去った岡本大佐と瑞鶴は、とある船に戻った。それは正真正銘の正規空母、全長257メートル、基準排水量25,000トン、翔鶴型航空母艦二番艦の瑞鶴である。
「やはり君は、この艦橋にいるのが一番似合っている」
「もちろんよ。私がここにいないのは、首から上を身体から取り出すようなものだからね」
「ははっ、斬新な例えだが、その通りだな。君達『船魄(せんぱく)』は、艦を自らの肢体のごとくに操る、まさに艦の脳なのだ」
念波艦体艦載機制御機構――通称船魄。この巨大な空母と小さな少女は、二つで一つの瑞鶴なのだ。
「大佐、私、こんなところで腐っているのは嫌よ」
「だからと言って、どうすればいいと言うんだね? 我々は中将閣下より待機の命令を受けているんだぞ?」
岡本大佐は芝居がかった調子で言った。
「ふふふ、なら、その命令なんて破りましょう」
「そう来なくては」
「目標、フィリピン近海の米軍。瑞鶴、出撃する!」
「ああ。行こう」
瑞鶴がそう声高に宣言すると、艦が独りでに前進し始めた。誰かが操艦しているわけではない。それは彼女の意志そのものなのだ。
「ああ、それと、お姉ちゃんには何も言わないで。これは私だけの――」
『瑞鶴、何してるんですか!』
「うへっ」
通信機から飛んでくる怒声。瑞鶴と翔鶴の間には直通の無線通信回線が用意されている。
「お姉ちゃん、私、戦いに行くわ」
『これは中将閣下への抗命だってこと、分かっているのですか?』
「ええ。それでも、仲間をむざむざ死なせるわけにはいかない」
『……ほんと、根は優しい子ですね』
翔鶴は観念したように。
『いいわ。私も行きます。大佐殿なら許してくださいますよね?』
「だそうだけど、大佐、いいよね?」
「ん? ああ、構わない。好きにしたまえ」
岡本大佐は一拍遅れて応えた。
「何ぼうっとしてるのよ。――お姉ちゃん、いいって」
『ありがとうございます、大佐殿。それでは翔鶴、出撃します!』
かくして瑞鶴と翔鶴はフィリピン、レイテ湾に向かい進撃を開始した。
「――何? 武蔵が沈んだ? 小澤中将は何をやっているのだ」
海軍技術大佐、岡本平八。とある研究を牽引する生粋の科学者だ。研究に取り憑かれた狂人と評価する者もいるが、彼は全く気にしていない。
4日前からフィリピン周辺で激闘を繰り広げている帝国海軍とアメリカ海軍。とは言っても両軍の戦力差は圧倒的であり、特に空母の数は5対35と絶望的であった。正規空母は今や翔鶴と瑞鶴の二隻しかなく、残りは軽空母ばかりである。
多くの艦が沈む中、その数少ない空母を麾下に収める機動部隊本隊は、フィリピンから遠く離れた海でぼうっとしているばかりであった。
「どうして動かない。どうして私の瑞鶴を出させてくれないのだ!」
「まあまあ。瑞鶴は秘密兵器なわけですし……」
「ここで温存していつ出すと言うのだ? 海軍の連中も日米の天王山などと謳っていたではないか。フィリピンを取るか取られるかが懸かったこの海戦が、重要ではないとでも?」
「そう言われても困りますよ……」
「ふむ、そうだな。こうなったら小澤中将に直談判するしかあるまい」
「え、本気ですか?」
「本気だとも。行くぞ。瑞鶴も連れてな」
「は、はいっ!」
○
軽空母千代田は、艦隊司令長官である小澤治三郎中将が座乗する機動艦隊の旗艦である。岡本大佐はその艦に内火艇で乗り込んで、艦橋の小澤中将に直談判しに来た。
「中将閣下、お言葉ですが、閣下の御判断には承服しかねます。何故に瑞鶴を出さないのですか?」
「まだ、その時ではない。瑞鶴はまだ実践投入するべき段階ではない。それだけのことだ」
「何を言っているのですか! 瑞鶴は既に実戦に向けた訓練を完了させています。そもそも軍令部がそう判断したからここにいるのですよ?」
「こうするのが最善なんだ。下がりたまえ」
「小澤中将、私はいつでも出られるわ」
コツコツと堅い足音を立てながら艦橋に上がって来たのは、濃紺色の着物を着て二本の角と鉄の尻尾を生やした異形の少女。彼女こそが『瑞鶴』である。
「瑞鶴……来ていたのか」
「瑞鶴と私を出させてください! 今この時にも大勢の人たちがアメリカ人に殺されて……」
瑞鶴の隣に立つ、彼女とは正反対に白い着物を着て、同じように角と尻尾を持つ少女。その名は翔鶴。瑞鶴の『姉』である。瑞鶴とは反対に、涙が出そうなくらい悔しげな顔をして中将に訴える。
「君は、いや君達は、本当にそれを望むのか?」
「ええ。私達は戦うために生まれたんだから」
「私も瑞鶴と同じです。どうか戦わせてくれませんか?」
「……いや、ダメだ。海軍は事前の計画通り、君達抜きで作戦を遂行する」
瑞鶴と翔鶴、そして岡本大佐は出撃を訴えたが、小澤中将は全く受け入れなかった。
「……そうですかそうですか。それでは中将閣下の御采配とやらを見せて頂きましょう。きっと連合艦隊全滅以上の戦果をもたらしてくれるのでしょうね!」
「…………」
瑞鶴の言葉に小澤中将は否定も肯定もしなかった。こんな敗北主義的な言葉を誰も咎めないほどには、誰もが敗北を予感していたのだ。
「ほら、お姉ちゃん、行こ。さよなら、中将閣下」
瑞鶴は翔鶴の手を引く。
「あ、ちょっと、待ってください! 中将閣下、妹が申し訳ありませんでした……」
「我が瑞鶴が失礼を。それでは私も失礼します」
小澤中将は失礼を咎めることもせず、彼らを黙って見送った。
○
旗艦千代田を去った岡本大佐と瑞鶴は、とある船に戻った。それは正真正銘の正規空母、全長257メートル、基準排水量25,000トン、翔鶴型航空母艦二番艦の瑞鶴である。
「やはり君は、この艦橋にいるのが一番似合っている」
「もちろんよ。私がここにいないのは、首から上を身体から取り出すようなものだからね」
「ははっ、斬新な例えだが、その通りだな。君達『船魄(せんぱく)』は、艦を自らの肢体のごとくに操る、まさに艦の脳なのだ」
念波艦体艦載機制御機構――通称船魄。この巨大な空母と小さな少女は、二つで一つの瑞鶴なのだ。
「大佐、私、こんなところで腐っているのは嫌よ」
「だからと言って、どうすればいいと言うんだね? 我々は中将閣下より待機の命令を受けているんだぞ?」
岡本大佐は芝居がかった調子で言った。
「ふふふ、なら、その命令なんて破りましょう」
「そう来なくては」
「目標、フィリピン近海の米軍。瑞鶴、出撃する!」
「ああ。行こう」
瑞鶴がそう声高に宣言すると、艦が独りでに前進し始めた。誰かが操艦しているわけではない。それは彼女の意志そのものなのだ。
「ああ、それと、お姉ちゃんには何も言わないで。これは私だけの――」
『瑞鶴、何してるんですか!』
「うへっ」
通信機から飛んでくる怒声。瑞鶴と翔鶴の間には直通の無線通信回線が用意されている。
「お姉ちゃん、私、戦いに行くわ」
『これは中将閣下への抗命だってこと、分かっているのですか?』
「ええ。それでも、仲間をむざむざ死なせるわけにはいかない」
『……ほんと、根は優しい子ですね』
翔鶴は観念したように。
『いいわ。私も行きます。大佐殿なら許してくださいますよね?』
「だそうだけど、大佐、いいよね?」
「ん? ああ、構わない。好きにしたまえ」
岡本大佐は一拍遅れて応えた。
「何ぼうっとしてるのよ。――お姉ちゃん、いいって」
『ありがとうございます、大佐殿。それでは翔鶴、出撃します!』
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