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第十三章

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第十三章
 ひどい頭痛がする。目を開けると蛍光灯の明かりの眩しさに、ここは天国じゃないという事実に打ちのめされた。
 ああ、死にきれなかったのかと後悔ばかりだ。
「目が、覚めたか……よかった」
「私……死ねなかった?」
 泣きそうな顔で手を握ってくるのは史哉だ。
 死ねなくて後悔しているのに、もう一度彼の顔が見られたことに喜んでしまう自分もいる。会いたかったと口に出してしまいそうで、カサついた唇を噛みしめる。
「お前を死なせてたまるかよっ! ふざけるな! お前の葬式にまで出るのは御免だ!」
「そうよね……ごめんなさい。幸太は?」
 おそらくメールに違和感を覚えた史哉が救急車を呼ぶなりしたのだろう。
「幸太はマンションの管理人に預かってもらってる。なにがあった? どうして、こんなことをした?」
「…………」
 彼に言えるはずがない。墓場まで持っていかなければならないのだ。
 圭の母親にはバレてしまったけれど、史哉とは付きあっていたわけではない。
 関係を持ったのはあの日のたった一回だけ。おそらく、史哉に辿り着くことはできないだろう。
 ただ、静香と幸太が史哉のマンションにいるのが知られれば、もしかしてと考えるのは必然だ。その前に、ケリをつけなければならなかったのに。
「俺は……お前に頼ってもらうこともできないのか? 好きになった相手は友人と結婚して、実の息子の存在すら知らされず……俺はいつだって蚊帳の外だ」
「じ、実の……息子って。違う! 幸太は、圭との子よ!」
 史哉が知っているはずはない。どこにもそんな証拠はないし、知っているのは静香と圭、それに奈津子だけだ。
「ほんと……なんでだよ、お前。最低だ」
 椅子に腰かけたまま項垂れる史哉は、呆れたように自身の前髪をグシャグシャとかき回した。彼が相当苛立っているのはわかる。勝手に子どもを産んで育てていたのだから。
「違う……違うから」
「お前が言ったんだ。俺と幸太が寝てる時、パパに似たんだね、そっくりって。俺ももしかしたらと思ってたよ。初めて幸太と会った時、昔の自分を見ているみたいだった。そっくりなんてもんじゃない。お前に聞くまでもなかった……幸太はあの時できた子だって、すぐに気づいた。でもお前が言わないから、俺に知られたくないんだと思ったんだ」
「そ、んな……」
 二人は寝ていると思っていた。叶うはずのなかった夢が叶って、浮かれていたのかもしれない。寝顔が瓜二つで、まるで幸せの象徴のようで。あまりに嬉しかったから。
「戸澤の家の人間は知らないんだろう? 知ってたら、幸太を邸宅に招き入れるはずがない。もしかして……血が繋がっていないことがバレでもしたのか? お前は、そんなことで俺の前からいなくなろうとしたのか?」
「そんなことなんかじゃないわっ!」
 静香がどれだけ悩んだか。もし圭の母親が史哉に行きついてなにかしてきたら。彼の仕事に影響が出るようなことになったら。
 静香がいるとみんな不幸になる。今度は史哉まで。そう思ったら、生きていることに疲れてしまった。
 そもそも自分などと関わりを持たなければ圭は死ななかった。圭の両親に責められても当然のことを静香はした。後悔したって圭が帰ってくるわけじゃない。
「わ、私のせいで……迷惑かけたくない! 私があなたを好きになんてならなければ、圭は死ななかった!」
「んなわけあるかっ! お前も圭も面倒なことをグルグルと! 圭は事故だ。それで、俺とお前は両想い。それだけだろ」
 圭も、とはいったいどういうことだろう。
 そんな簡単な問題ではないのに。静香が口を噤むと、史哉はポケットから白いなにかを取り出して、静香の手のひらに握らせてきた。
「読んでみろよ。圭からだ……幸太の宝箱の底に隠すみたいにして入ってた。いつか、お前に見つけてほしかったんじゃないか? 俺が先に読んだのは……許せよ」
 封筒を開くと、圭の角ばった字で便箋いっぱいに文字が連ねてある。ああ、懐かしい圭の字だ。と思いながら、その内容には衝撃を覚えざるを得なかった。
「お前は、圭から俺が結婚するって聞いたんだよな? 俺もだ。静香と結婚するって圭から聞いた。どうしても静香を奪られたくなかった、だから二人に嘘をついたって書いてあるだろ。俺とお前がうまくいかなかったのは、あいつのせいじゃないのにな。お前を抱いたあの日に、愛してるって俺が言えてればそれで済む話だったんだ。だから、圭が悔やむことなんてなにもないのに」
 それは、静香も同じだ。史哉が別の誰かと結婚するのは嫌だと言えていれば、自分を選んでと言えていれば済む話だった。
「私が……史哉に会いにカフェに行ってるのも、知ってたんだ」
 静香の心にまだ史哉がいるのは知っている。
 何時間もカフェで窓の外を見ながら、史哉が来るのを待っていることも。俺は、出会うべくして出会った二人を引き離してしまった──そう圭の懺悔とも言える内容が手紙には綴られていた。
「俺も、お前を見かけてから……何度もあの店に通ってた。でも、声はかけられなかった。圭を裏切るような真似は、できなかった」
「圭は、私と幸太を大事にしてくれた……それなのに……愛せなかった」
 圭はどんな気持ちでこの手紙を書いたのだろう。自分の妻がほかの男に恋慕を向けているのを、どう思っていたのだろう。
 手紙には、もしまた二人が出会うことがあれば今度こそ応援したいと。それまでは幸太を実の息子として精一杯の愛情を向けて育てるから許してほしいと書かれていた。
「俺は……お前が圭を愛してなかったなんて思わない。圭にまったく気持ちがないのなら、お前は悩みもせず俺の手を取れたはずだ。でも……お前は、圭のことも愛してた。だから、自分が許せなかったんじゃないのか?」
 圭と幸太と三人で幸せになるのだと決意した。それでも、史哉を忘れることはできなかった。だが、圭と暮らした二年間は辛いだけではなかった。むしろ、楽しくて幸せな日々。互いに努力して思いやりながら、家族になっていったのだ。
(恋ではなかったかもしれないけど……私たちは、家族だった……)
 圭が大事だった。霊安室で彼の冷たい身体に触れた時、頭も心も空っぽになって息をするのすら苦しくなったほどに。
 たしかにその瞬間、史哉のことなど考えもしなかった。ただただ後悔ばかりだった。車で帰ることを止めていればよかったと。圭がもういないと考えただけで、眠れなくなるほどに。
「圭は、大事な人だったの。家族として、愛してた。なのに、私は、史哉も好きで……忘れられなくて。ダメってわかってるのに……」
 自分には泣く権利などない。それなのに、涙が溢れでて止まらなかった。
 やはり胸にあるのは後悔ばかりだ。いまさら、圭を愛していたと気づくなんて遅すぎる。
 二年もの間一緒に暮らしていても、彼に「愛している」と一度も言えなかった。彼は何度も静香に好きだと告げてくれていたのに。
「なんで、気づかなかったんだろう……」
「なぁ、どうして圭は手紙なんて残したんだと思う? あんな偶然でもなきゃ、俺たちは今でも会ってなかったはずだ。黙ってたってわからなかったのに」
「嘘をついたことを、後悔してたからでしょう?」
「いや……俺の勝手な想像だけど、圭は、静香の気持ちが自分に向いてきてるのがわかってたんじゃないか? だからいつかあの手紙を静香が見つけても、それでも自分を選んでくれるはずだって、そういう意味の手紙に思える」
「そう、かな……」
「そもそも騙してでも静香がほしいって貪欲な男が、そう簡単にお前を諦めるとは思えないんだよ。そしてまんまと静香の心の半分をあの世に持っていった。それはもう俺には取り戻せない。悔しいが……」
「そうかもしれないね……圭が亡くなってから、私の胸の中にはいつも彼がいた」
 忘れられるはずはない。
 圭と過ごした幸せな日々を。静香に家族を与えてくれたのは間違いなく圭だ。
「だから、あとの半分は全部俺でいっぱいにしたい。圭を愛してるお前ごと愛してやるから、もう死のうなんて考えるな」
 骨張った指で涙を拭われて、愛おしげに髪が撫でられる。史哉の手を取ってもいいのだろうか。圭は、そんな静香を許してくれるだろうか。
「でも……圭のご両親は、きっと許してはくれない。DNA鑑定までするくらいだし……史哉にまで迷惑はかけたくないの」
「そのことなら大丈夫だ。悪いようにはしない。だから、この手紙預からせてもらえないか?」
「それは……いいけど」
 史哉はどうするつもりだろう。もし静香だけではなく、幸太の父である史哉までもを恨むようになってしまったら。
 静香が気鬱げに目を潤ませると、心配するなとでも言うように史哉の唇が目尻に触れてくる。頬に滑り、最後は唇に触れた。下唇を食まれて、熱い舌が唇に沿うように動かされる。
「……っん」
「お前の気持ちが整うのを待つつもりだったが、もう遠慮はしない。何年も待たされたからな。逃げるなよ、ちゃんと家に帰ってこい」
 静香が頷くと、一度帰ってやることがあると言って史哉が席を立った。
 ちょうど見舞いの時間も終わりなのか、看護師たちが部屋の電気を消すために病室に入ってくる。
「ゆっくり寝ろよ。おやすみ」
 髪をくしゃりと撫でられて、久しぶりに感じる心地良さに目を瞑ると、ずっと喋っていたからかすぐに眠気がやってくる。
「おやすみなさい」
 病室の電気が消されると、静香は泥のような眠りに引き込まれていった。

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