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第十一章
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洗い物を終えて、静香はダイニングテーブルでパソコンを開いた。仕事をしながらも、頭の中を占めるのはいつも同じだ。
(このままじゃ……ダメ)
これでは本当に史哉の気持ちを利用しているようなものではないか。私立の学費を払ってもらい、生活費を出してもらい、子育てにまで協力してもらっている。
助かる……というのが本音だし、史哉と過ごせるのは嬉しい。静香だって同じ気持ちなのだから。でも。
(史哉の手を拒絶できるほど……私は強くない……)
ふとした時のスキンシップはあっても、彼から身体を求められたことはない。一緒に寝ていても、幸太を真ん中にしてただ眠るだけだ。
──それが、寂しい……なんて。
そんな権利は静香にはないのに。
ふと顔を上げて時計を見ると、すでに昼近かった。二人で食事を済ませると、幸太は途端にソワソワと落ち着かなくなる。よほど遊びに行きたいのだろう。
「いいよ、遊びに行っておいで。あ、ちゃんと携帯持っていきなさい」
「わかった! 行ってきます!」
リビングから駆け出す幸太にやれやれと肩を竦めるが、テーブルの上にキッズ携帯が置いてあることに気づいた。言ったそばから携帯電話を忘れている。
「こーら、携帯! ちゃんと持っていって。あ、ママちょっと買い物と、マンションにお手紙取りに行ってくるから鍵もね」
玄関に走っていく幸太を追いかけて、家の鍵をキッズ携帯のストラップに一緒に付けておいた。
「あ、忘れてた」
「車に気をつけるのよ」
「わかってる!」
本当にわかっているのかと心配は尽きないが、小学生になると途端に親の手から離れてしまう。公園に行くのも、友達と遊ぶのも、同じ学区であればほとんど一人で行動できるのだ。
静香は時計を見て、自分も出かける準備を始めた。
買い物も行かなければならないから、今出てもギリギリかもしれない。だが幸太はおそらく夕方にチャイムが鳴るまでは帰ってこないし、困ったことがあれば電話をするだろう。
(史哉、携帯持たせた方がいいって言ってたけど……ほんと便利ね)
考え方が古いのか、静香は小学生で携帯電話なんでまだ早いと思っていた。が、一人で行動させるのに持たせているのといないのでは親の安心感がまるで違う。失くしたりしない限りは、だいたいの場所も把握できるのだ。
(すごいわ……令和って感じ)
静香が住んでいたマンションの鍵はいまだに返してはもらえない。ブレーカーやガスの元栓は締めたと史哉が言っていたし心配はないのだが、玄関脇に置いてある圭の写真や、二人で買った調理器具、それに家具……そういった思い出までもがこのまま廃れていってしまうのではないかと怖くなる。
もしかしたら、鍵をかけて閉じ込めることで自分が圭を忘れようとしているのではないかとすら思えてくるのだ。
(違う……私は、許されちゃいけない……)
幸せになんてなってはいけない。あの日、静香が死ねばよかったのだ。圭ではなく。
すべての元凶は自分だ。
静香が史哉を好きにならなければ。ほかに好きな人がいるのに、圭と結婚していなければ、彼は死ぬことはなかったのだから。そう自分に言い聞かせることしかできない。
マンションに着きポストから手紙やチラシを回収していると、一台の車がマンションの前に停まったのが見えた。この辺りでは見ない黒塗りの高級車に嫌な予感がした。
運転席を見ないようにそっとマンションから出ると、誰かが車から降りてきた。静香が顔を上げると、ここしばらく見ていなかった圭の母親の姿がある。
「ご無沙汰しております」
静香が頭を下げると、圭の母親は封筒のようなものを手にしてカツカツとヒールを響かせながら歩み寄ってきた。
「……っ」
バシン──ッ、と鋭い音が頭の中に響く。
書類が入っているのかそれなりに分厚い封筒で、思い切り頭を殴られたのだと気づいた。痛みはそれほどでもなかったが、彼女の暴力的な面など今まで見たことがなかったためあまりに驚いて言葉が出ない。
「よくも……っ、よくも騙してくれたわねっ‼︎」
騙して──?
いったいなんのことだろう。地面に落ちた封筒を拾い上げると、どこかの研究所の名前が印刷されている。
「あの子は……っ、圭の子じゃないわよねっ⁉︎ どこまで圭をバカにすれば気が済むのっ⁉︎ 死んでまで、どうしてそんなひどいことをっ!」
ああ、これはDNA鑑定の書類なのか。おそらく、幸太と圭の父親との鑑定でもしたのだろう。
愕然としながらも、静香の胸には不思議と安堵感が広がっていた。やっと罰せられる日が来たのだと。
きっと圭の母親は、静香を許さない。それでいい。静香は許されてはならないのだから。
そう、圭の人生を狂わせた自分なんか。
「許さないわよ……っ、絶対に。あなたも、あの子もっ‼︎」
だが、彼女の言葉に我に返る。幸太を巻き込むなんて決してあってはならない。
「あの子は……幸太は関係ありませんっ!」
「関係ないはずないじゃない! あなたが、圭がいながら不貞を働いた証拠じゃない! バレる前に堕ろしていればいいものをっ。ほかの男の子どもを圭に育てさせるなんて! どこまでもバカにして! あなたがいなければ、あなたと結婚なんかしてなければ、圭は死ななかった‼︎」
「……その通りです。私が……彼の人生を狂わせてしまった」
「開き直るつもり?」
「いえ……私にできる償いならなんでもします。でも……圭は、幸太が血が繋がっていないと知りながら、実の子どものように大事にしてくれていたんです。だから、あの子は巻き込まないでやってください」
「どこまでも都合がいいわねっ」
「私はあなたに許されたいとは思っていません。圭を殺しておいて……自分だけが幸せになろうなんて……思っていない」
「圭が……知っていて、あなたと結婚したと言うのっ? 信じられるはずないじゃない」
信じられなくて当たり前だ。もし静香が圭の母親の立場だったら嘘だと思うだろう。
「圭がいない今、それを証明する手立てはありません……」
「責任は取ってもらうわよ……あなたに種を植えつけた男もね、こちらで調べればわかることです。その男を社会的に抹殺するくらい戸澤の力を持ってすればわけないわ」
「やめてっ! やめてください! その人は、幸太が自分の子だとは知らないんです!」
やはり恐れていたことになってしまった。
圭が納得して静香と史哉の子を育てていたなどと、信じるはずがないのだ。
(史哉に……迷惑かけちゃう……どうしよう)
カタカタと全身が小刻みに震える。誰かに助けてほしいと思っても、すべて自業自得。自分の招いた種だ。
(そうね……ちゃんと、責任、取らなきゃいけないわよね……)
頬から涙がこぼれ落ちる。悲しさはあまりない。もし静香がいなくとも、きっと史哉なら幸太を悪いようにはしないだろう。しかるべき手続きをしてくれるはずだ。
最初からそうすればよかったんだ。許されるべきではないのに、いつまでも圭の優しさに甘えて、史哉に助けられて。
(私が……幸せになる権利なんてないのにね)
「お義母さん」
「そんな風に呼ばないでちょうだいっ‼︎」
「私が……いなくなれば。私の命と引き換えに……彼と、幸太は許してはもらえませんか……私があなたたちの前から姿を消せば……」
「はっ、命と引き換えって、どうせどこかへ逃げるつもりでしょう? 許さないわよ。本当に死んでなかったら地の底まで追いかけてやるわ! 恥知らずも甚だしいっ‼︎」
静香は頭を下げると、マンションの中へと戻った。ポストを通りすぎ管理人室へと向かう。
鑑定書も一緒に持ってきてしまったが構わないだろう。どうせコピーは取っているはずだ。
(史哉にだけは……迷惑をかけたくない……幸太、ごめんね)
おそらく静香がいなくなれば、多少なりとも彼女の怒りは収まるはずだ。その矛先が史哉に向かうことはないだろう。
祖母としても優しい人だった。おそらく幸太への情は多少なりともあるはずだ。いくら圭と血が繋がっていなくとも、子どもを不幸にするような真似はきっとしない。
「すみません……戸澤ですが」
管理人室に声をかけると、顔見知りの男性が窓口から出てきた。
「ああっ、ここ最近姿を見かけなかったから、旅行にでも行っているのかと思っていたんだよ。幸太くんは元気かい?」
「ええ。ちょっと……出先で鍵をなくしてしまいまして」
「そうだったのか。今スペアキーを用意するね。ちょっと手続きが面倒なんだがね……時間があるときに書いてくれればいいから」
管理人はそう言って奥へと入っていった。しばらくするとスペアキーを手に戻ってくる。
「もし鍵を新しいのに付けかえるなら、業者の手配もしておくが……」
「いえ……たぶん、知人の家のどこかにはあるかと思うので。また探してみます」
管理人に礼を言ってエレベーターで上がる。ドアを開けると、さすがに長く開けていた部屋は埃が積もり匂いがこもっている。
玄関脇に置かれた圭と撮った家族写真を手に取って、埃の積もったフローリングに足を踏み入れた。
写真立てをハンカチで拭うと、笑みを浮かべた自分たちの姿がある。これはまだ幸太が生まれる前のものだ。
圭と結婚することに躊躇いがあったはずなのに、写真の中の静香は幸せそうだった。圭は言葉以上に静香を大事にしてくれていた。史哉を好きなままでいいと言う圭に、静香は甘え切っていたのだ。
(あれ……どこにしまったかな……薬箱……)
圭が亡くなってしばらくは罪悪感で眠れない夜を過ごした。幸太がいたから必死で生活をしていたが、毎晩処方された精神薬と睡眠薬に頼らなければ眠れなかったのだ。
その時の薬が大量に残っていたはずだ。使用期限はとっくに切れているだろうが、どうせ死ぬのだからどうでもいい。
静香はスマートフォンを手に取ると史哉へ最期の連絡をすることにした。遺書に見えるものはダメだ。幸太をよろしくなんて書けば、勘のいい彼はすぐに異変に気づくだろう。そんなことを冷静に考えている自分が笑えてくる。
「一度も……好きって、言えなかったのよね……バカみたい」
でも……最期くらい素直になってもいいかもしれない。だって、もう二度と彼に告げることはできないのだから。
結婚してしまうと知ったらいてもたってもいられなかった。一度だけでいいから抱いてほしかった。それで幸太を授かることができたのは、静香の人生において一番の幸福だったかもしれない。
好きで好きで、どうしようもなくて。最期まで迷惑をかけてしまう。それだけが心苦しくて。お願いだから、どうか、静香のことなど早く忘れて、誰かと幸せな家庭を築いてほしい。
(幸太……ごめんね。大きくなるまで一緒にいられなくて、ごめん)
願わくば、幸太に幸せが訪れますように。
メールを送信し終えて、コップに水を注いだ。
(このままじゃ……ダメ)
これでは本当に史哉の気持ちを利用しているようなものではないか。私立の学費を払ってもらい、生活費を出してもらい、子育てにまで協力してもらっている。
助かる……というのが本音だし、史哉と過ごせるのは嬉しい。静香だって同じ気持ちなのだから。でも。
(史哉の手を拒絶できるほど……私は強くない……)
ふとした時のスキンシップはあっても、彼から身体を求められたことはない。一緒に寝ていても、幸太を真ん中にしてただ眠るだけだ。
──それが、寂しい……なんて。
そんな権利は静香にはないのに。
ふと顔を上げて時計を見ると、すでに昼近かった。二人で食事を済ませると、幸太は途端にソワソワと落ち着かなくなる。よほど遊びに行きたいのだろう。
「いいよ、遊びに行っておいで。あ、ちゃんと携帯持っていきなさい」
「わかった! 行ってきます!」
リビングから駆け出す幸太にやれやれと肩を竦めるが、テーブルの上にキッズ携帯が置いてあることに気づいた。言ったそばから携帯電話を忘れている。
「こーら、携帯! ちゃんと持っていって。あ、ママちょっと買い物と、マンションにお手紙取りに行ってくるから鍵もね」
玄関に走っていく幸太を追いかけて、家の鍵をキッズ携帯のストラップに一緒に付けておいた。
「あ、忘れてた」
「車に気をつけるのよ」
「わかってる!」
本当にわかっているのかと心配は尽きないが、小学生になると途端に親の手から離れてしまう。公園に行くのも、友達と遊ぶのも、同じ学区であればほとんど一人で行動できるのだ。
静香は時計を見て、自分も出かける準備を始めた。
買い物も行かなければならないから、今出てもギリギリかもしれない。だが幸太はおそらく夕方にチャイムが鳴るまでは帰ってこないし、困ったことがあれば電話をするだろう。
(史哉、携帯持たせた方がいいって言ってたけど……ほんと便利ね)
考え方が古いのか、静香は小学生で携帯電話なんでまだ早いと思っていた。が、一人で行動させるのに持たせているのといないのでは親の安心感がまるで違う。失くしたりしない限りは、だいたいの場所も把握できるのだ。
(すごいわ……令和って感じ)
静香が住んでいたマンションの鍵はいまだに返してはもらえない。ブレーカーやガスの元栓は締めたと史哉が言っていたし心配はないのだが、玄関脇に置いてある圭の写真や、二人で買った調理器具、それに家具……そういった思い出までもがこのまま廃れていってしまうのではないかと怖くなる。
もしかしたら、鍵をかけて閉じ込めることで自分が圭を忘れようとしているのではないかとすら思えてくるのだ。
(違う……私は、許されちゃいけない……)
幸せになんてなってはいけない。あの日、静香が死ねばよかったのだ。圭ではなく。
すべての元凶は自分だ。
静香が史哉を好きにならなければ。ほかに好きな人がいるのに、圭と結婚していなければ、彼は死ぬことはなかったのだから。そう自分に言い聞かせることしかできない。
マンションに着きポストから手紙やチラシを回収していると、一台の車がマンションの前に停まったのが見えた。この辺りでは見ない黒塗りの高級車に嫌な予感がした。
運転席を見ないようにそっとマンションから出ると、誰かが車から降りてきた。静香が顔を上げると、ここしばらく見ていなかった圭の母親の姿がある。
「ご無沙汰しております」
静香が頭を下げると、圭の母親は封筒のようなものを手にしてカツカツとヒールを響かせながら歩み寄ってきた。
「……っ」
バシン──ッ、と鋭い音が頭の中に響く。
書類が入っているのかそれなりに分厚い封筒で、思い切り頭を殴られたのだと気づいた。痛みはそれほどでもなかったが、彼女の暴力的な面など今まで見たことがなかったためあまりに驚いて言葉が出ない。
「よくも……っ、よくも騙してくれたわねっ‼︎」
騙して──?
いったいなんのことだろう。地面に落ちた封筒を拾い上げると、どこかの研究所の名前が印刷されている。
「あの子は……っ、圭の子じゃないわよねっ⁉︎ どこまで圭をバカにすれば気が済むのっ⁉︎ 死んでまで、どうしてそんなひどいことをっ!」
ああ、これはDNA鑑定の書類なのか。おそらく、幸太と圭の父親との鑑定でもしたのだろう。
愕然としながらも、静香の胸には不思議と安堵感が広がっていた。やっと罰せられる日が来たのだと。
きっと圭の母親は、静香を許さない。それでいい。静香は許されてはならないのだから。
そう、圭の人生を狂わせた自分なんか。
「許さないわよ……っ、絶対に。あなたも、あの子もっ‼︎」
だが、彼女の言葉に我に返る。幸太を巻き込むなんて決してあってはならない。
「あの子は……幸太は関係ありませんっ!」
「関係ないはずないじゃない! あなたが、圭がいながら不貞を働いた証拠じゃない! バレる前に堕ろしていればいいものをっ。ほかの男の子どもを圭に育てさせるなんて! どこまでもバカにして! あなたがいなければ、あなたと結婚なんかしてなければ、圭は死ななかった‼︎」
「……その通りです。私が……彼の人生を狂わせてしまった」
「開き直るつもり?」
「いえ……私にできる償いならなんでもします。でも……圭は、幸太が血が繋がっていないと知りながら、実の子どものように大事にしてくれていたんです。だから、あの子は巻き込まないでやってください」
「どこまでも都合がいいわねっ」
「私はあなたに許されたいとは思っていません。圭を殺しておいて……自分だけが幸せになろうなんて……思っていない」
「圭が……知っていて、あなたと結婚したと言うのっ? 信じられるはずないじゃない」
信じられなくて当たり前だ。もし静香が圭の母親の立場だったら嘘だと思うだろう。
「圭がいない今、それを証明する手立てはありません……」
「責任は取ってもらうわよ……あなたに種を植えつけた男もね、こちらで調べればわかることです。その男を社会的に抹殺するくらい戸澤の力を持ってすればわけないわ」
「やめてっ! やめてください! その人は、幸太が自分の子だとは知らないんです!」
やはり恐れていたことになってしまった。
圭が納得して静香と史哉の子を育てていたなどと、信じるはずがないのだ。
(史哉に……迷惑かけちゃう……どうしよう)
カタカタと全身が小刻みに震える。誰かに助けてほしいと思っても、すべて自業自得。自分の招いた種だ。
(そうね……ちゃんと、責任、取らなきゃいけないわよね……)
頬から涙がこぼれ落ちる。悲しさはあまりない。もし静香がいなくとも、きっと史哉なら幸太を悪いようにはしないだろう。しかるべき手続きをしてくれるはずだ。
最初からそうすればよかったんだ。許されるべきではないのに、いつまでも圭の優しさに甘えて、史哉に助けられて。
(私が……幸せになる権利なんてないのにね)
「お義母さん」
「そんな風に呼ばないでちょうだいっ‼︎」
「私が……いなくなれば。私の命と引き換えに……彼と、幸太は許してはもらえませんか……私があなたたちの前から姿を消せば……」
「はっ、命と引き換えって、どうせどこかへ逃げるつもりでしょう? 許さないわよ。本当に死んでなかったら地の底まで追いかけてやるわ! 恥知らずも甚だしいっ‼︎」
静香は頭を下げると、マンションの中へと戻った。ポストを通りすぎ管理人室へと向かう。
鑑定書も一緒に持ってきてしまったが構わないだろう。どうせコピーは取っているはずだ。
(史哉にだけは……迷惑をかけたくない……幸太、ごめんね)
おそらく静香がいなくなれば、多少なりとも彼女の怒りは収まるはずだ。その矛先が史哉に向かうことはないだろう。
祖母としても優しい人だった。おそらく幸太への情は多少なりともあるはずだ。いくら圭と血が繋がっていなくとも、子どもを不幸にするような真似はきっとしない。
「すみません……戸澤ですが」
管理人室に声をかけると、顔見知りの男性が窓口から出てきた。
「ああっ、ここ最近姿を見かけなかったから、旅行にでも行っているのかと思っていたんだよ。幸太くんは元気かい?」
「ええ。ちょっと……出先で鍵をなくしてしまいまして」
「そうだったのか。今スペアキーを用意するね。ちょっと手続きが面倒なんだがね……時間があるときに書いてくれればいいから」
管理人はそう言って奥へと入っていった。しばらくするとスペアキーを手に戻ってくる。
「もし鍵を新しいのに付けかえるなら、業者の手配もしておくが……」
「いえ……たぶん、知人の家のどこかにはあるかと思うので。また探してみます」
管理人に礼を言ってエレベーターで上がる。ドアを開けると、さすがに長く開けていた部屋は埃が積もり匂いがこもっている。
玄関脇に置かれた圭と撮った家族写真を手に取って、埃の積もったフローリングに足を踏み入れた。
写真立てをハンカチで拭うと、笑みを浮かべた自分たちの姿がある。これはまだ幸太が生まれる前のものだ。
圭と結婚することに躊躇いがあったはずなのに、写真の中の静香は幸せそうだった。圭は言葉以上に静香を大事にしてくれていた。史哉を好きなままでいいと言う圭に、静香は甘え切っていたのだ。
(あれ……どこにしまったかな……薬箱……)
圭が亡くなってしばらくは罪悪感で眠れない夜を過ごした。幸太がいたから必死で生活をしていたが、毎晩処方された精神薬と睡眠薬に頼らなければ眠れなかったのだ。
その時の薬が大量に残っていたはずだ。使用期限はとっくに切れているだろうが、どうせ死ぬのだからどうでもいい。
静香はスマートフォンを手に取ると史哉へ最期の連絡をすることにした。遺書に見えるものはダメだ。幸太をよろしくなんて書けば、勘のいい彼はすぐに異変に気づくだろう。そんなことを冷静に考えている自分が笑えてくる。
「一度も……好きって、言えなかったのよね……バカみたい」
でも……最期くらい素直になってもいいかもしれない。だって、もう二度と彼に告げることはできないのだから。
結婚してしまうと知ったらいてもたってもいられなかった。一度だけでいいから抱いてほしかった。それで幸太を授かることができたのは、静香の人生において一番の幸福だったかもしれない。
好きで好きで、どうしようもなくて。最期まで迷惑をかけてしまう。それだけが心苦しくて。お願いだから、どうか、静香のことなど早く忘れて、誰かと幸せな家庭を築いてほしい。
(幸太……ごめんね。大きくなるまで一緒にいられなくて、ごめん)
願わくば、幸太に幸せが訪れますように。
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