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第六章

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第六章
 人が身動いだような気配に静香が目を開けると、見覚えのない天井の模様が見える。
 カーテンで仕切られたベッドに寝かされていて、どうして自分が病院にいるのかと頭を巡らせていると、真横から懐かしい声が聞こえた。
「大丈夫か?」
 あまりに驚いて声が出なかった。どうしてここに、と。静香の顔が物語っていたのだろう。彼、真嶋史哉は五年前からさらに精悍になった顔に笑みを浮かべて口を開いた。
「お前、道で倒れたんだ。仕事でたまたま通りかかってよかったよ。医者は栄養失調だって言ってたが、なにかあったのか?」
「ふ、みや……?」
「ん?」
 泣いてしまいそうだった。
 泣いて、縋って彼に助けを求めたかった。
(そんなの……出来るはずない)
 静香はうっすらと浮かんだ涙を目を擦るフリをして袖で拭うと、なんとか気丈に振る舞って口元を緩める。
「仕事、忙しかったから……食べるの、忘れちゃって……」
「いや、お前……仕事が忙しかったからって、水分も取らないんじゃマズいだろ。脱水症状も起こしてるって言ってたぞ。目が覚めたら帰ってもいいらしいが、誰か頼れる人はいるのか? そういえば子どもがいるよな? 俺が連絡してこようか?」
「あ、いいの! 大丈夫、ちょっと知人に預かってもらってるから……」
「大丈夫って顔じゃないから心配してるんだ。預かってもらうったってずっとじゃないだろ。帰って仕事して、家事も育児もはすぐには無理だ」
 ここ何日も寝ていない。静香の顔色はきっと相当ひどいのだろう。
(寝ても食べてもいないじゃ……倒れるのは仕方ないわよね……)
 なんとか幸太に会わないととそればかり考えていたが、自分が倒れてしまっては、それこそ母親として至らないと圭の両親につけ込む隙を与えてしまいかねない。
(しっかり、しないと)
「もう退院してもいいのよね? 迷惑かけてごめんなさい。私、行かなきゃ……」
「お前、なにをそんなに焦ってる? まさか借金でもあんのか?」
 ベッドから起き上がろうとすると、強引な手つきでふたたびベッドに戻されてしまう。体力のない身体はふらふらと簡単にシーツに倒れ込んでしまった。
「ちが……っ、焦ってなんか……仕事、忙しくて……」
「奈津子から聞いてる。翻訳の仕事してるって。寝る暇も食べる暇もないなんて言ってなかったぞ」
「今は……たまたま」
「お前の仕事はパソコンさえあればどこでも出来るよな? じゃあ、体力回復するまで家に来い。子どもと一緒でいい。今は時期的に春休み中だろう?」
「いい! 大丈夫だから、放っておいて!」
 幸せな家庭を見るのは嫌だった。史哉が愛する誰か、その人を羨んでしまうから。
 それに、愛し合っている二人を目の当たりにすれば、より自分の罪が重くなる気がしてどうしたって受け止められない。
 静香が必死に言い募るほど、史哉も頑なになる。
「そんな青い顔してなにを言ってんだ! また倒れたらどうする。子どもがいるんだろうが。自己管理が出来ないなら少しは友人を頼れ。俺たちは同期だろ?」
 同期じゃん、そう言った昔となんら変わっていない史哉に、胸が熱くなる。何年会ってなくとも、まだ友人だと言ってくれる。
「……私は、もう仕事辞めたのよ」
「じゃあ、元同期でいい。今俺がこの場にいるのもなにかの巡り合わせだと思って頼れ。お前が無理してたら、声をかけることくらいは出来るんだから」
 ポンと頭を撫でられて、髪をくしゃくしゃに乱される。
 もうどうしようもなく彼が好きで、神様を恨みたくなってしまう。どうして、ふたたび彼と巡り合わせたのかと。
 たかがこんな数分のやり取りで簡単に気持ちは再燃した。まるであの日の夜に戻ったかのように。
 けれど、静香をギリギリのところで踏み留まらせているのは、圭への贖罪もあるが、掛け替えのない大切な存在がいるからだ。彼にとっての大切な家族を傷つけるような真似は絶対にできない。
「家族がいる人に迷惑はかけられない」
 きっぱりと告げると、史哉は首を傾げて目を瞬かせた。
「俺はずっと一人だが? さすがに以前のワンルームは引っ越したけど、お前と違って家族はまだいないよ」
「え……だって」
「ああ、見合いの話、奈津子から聞いたのか? 本店勤務になってから上司の娘とか取引先の娘とかな……度々見合いは打診されるけどな。断ってる。結婚願望がないわけじゃないが、誰かに決められたくないし。でもなんなんだろうな。家庭を持ってこそ一人前みたいな風潮」
 そういえば史哉はこういう人だった。出世コースに乗っているくせに、本人はまったく出世意欲がない。一般職である静香にも分け隔てなく同期として接してくれた。その割には仕事が出来てしまうから、どこに支店に行っても手放せないのだと聞いた。
(でも、結婚してない……? どういうこと?)
 圭は史哉が結婚するのだと言っていた。彼の勘違いだろうか。見合いはしたが、上手くはいかなかった?
 そこまで考えて、無駄なことだと静香は口元を緩めた。
 終わった話だ。圭に聞きたくとももう本人はこの世にいない。
(そう……終わってるのよ……全部)
 今更、史哉が結婚していなかったとしても、あの頃に戻れるわけではないのだから。
「奈津子とはたまに話するの?」
「ああ。静香の話がけっこう多いな。俺も、圭が亡くなってからどうしてるのかって気にかかってたし。奈津子はお前に会うたびに俺に連絡よこすからな」
「そうなんだ」
 そういえば奈津子も同じことを言っていた。
「じゃあ行くぞ。退院手続きはやっておくから」
「いや、だから……」
「家族もいない。一人暮らし。部屋はそこそこ広い。なんの遠慮もいらないよな?」
 家族がいる人に迷惑はかけられない、そう言ったのは静香だ。
 強い口調でそう返されてしまっては、静香もそれ以上のことは言えなかった。


 史哉の家は青葉銀行の本店から、そう遠くない場所にあるマンションだった。
 以前に奈津子たちと遊びに行ったことがある部屋よりも何倍も広い。あれからもう七年も経ったのだと、否応にも年月を感じさせる。
「もう少し横になっていた方がいいな。お粥作ってくるから、それまで寝ておけ」
 ほら、と開けられたドアの先は寝室だ。大きいベッドが中央に鎮座していて、客用ではなく史哉の寝室であると窺えた。
「そういえば、史哉……仕事は?」
「ああ、ちょっと急病人を拾ったからって、早退した」
 迷惑はかけられないと言いながら、すでに迷惑ばかりじゃないか。
「私、やっぱり……むっ」
 帰る、と言おうとする唇が史哉の指で塞がれる。ふにっと上下の唇を抓まれて、アヒル口にされた。なにするのと睨んでも、ぐいぐいと背中を押されて寝室に追いやられてしまってはどうすることもできない。
「そういえば、お前の息子……名前なんつった?」
「幸太、幸せに太いで……幸太よ」
「その幸太は今どこにいる?」
「知人に預かってもらってるって言ったでしょ?」
「こんな時間までか?」
 時計を見ればもう夕方六時を過ぎていた。圭の実家へ迎えに行ったところで、どうせ幸太と会わせてはもらえない。しかし、最初に知人にと言ってしまったのが失敗だった。
 まさか史哉のマンションに来ることになるとは思っていなかったし、咄嗟についた嘘だったのだ。彼は、子どもを夜まで他人に預かってもらうことに違和感を覚えたのだろう。
「きょ、今日は泊めてもらうことになってるから」
「なぁ、本当はなにがあった? おかしいだろう。仕事が忙しいと言いながら、お前はパソコン一つ持っていない。具合が悪いから幸太を誰かに預かってもらったならわかる。けど、そんなに衰弱した状態で、お前はどうして外をフラフラしていたんだ?」
「それは……あの、私だってたまには子どもから離れて、外に行きたいことだってあるし」
「静香、言ってることが支離滅裂だ。お前がそう慌てていないということは、幸太は安全な場所にいるんだろう。でも、お前の状態をみると、それは本意ではない、違うか? たとえば……圭の実家に連れていかれた、とか」
 あまりに的確な推理に静香は垂れていた頭を上げてしまう。目が合って、彼は自分の言葉が間違っていないと確信したのだろう。
 しかし、どうして史哉が圭の実家のことを知っているのか。
(圭が、話したのかしら……?)
 その可能性はある。家で史哉の話題は一切出なかったが、奈津子も史哉とは時々話をすると言っていたし、圭もそうだったはずだ。
「昔な、お前らが結婚する時、式は挙げないのかって聞いたんだよ。いくら静香が妊娠してるとはいえ今は妊婦でも着られるドレスだってあるだろ。どうしてかって。そうしたらあいつ、自分の家の事情だっつってたからな」
 静香の疑問に答えるように、史哉が口を開いた。二人の間でそんなやりとりがあったことすら静香は知らなかった。
 もう白々しい嘘は通用しない。静香はポツポツと事情を話し始めた。
「私が、初めて圭の両親に会ったのは、彼のお葬式だった。家族はいないと思っていい、って言われてたから……あんまり話したくなさそうで私も聞けなかった。知らなかったの、圭の祖父が戸澤ホテルの会長だなんて」
「政財界にも顔が利く超大物だからな。銀行に知られれば間違いなく利用されただろうし、圭は周囲に知られるのを嫌がって、実家とは縁を切っていたはずだ。お前を巻き込みたくないってのも多いにあったとは思うが」
「うん、たぶん、そうだったんだろうね」
 圭の母親と話してみてわかった。もし圭が両親に静香を紹介していたら、確実に反対されたであろうと。
「それで? 幸太を跡継ぎに据えるとでも言ってきたか? でも、それなら五年前に言ってくるよな」
「うん。だから幸太がそうしたいって言うならって伝えてた。でも、幸太を公立の学校に通わせることに納得できなかったみたい。三日前、無断で幸太を連れ出した……電話にも出してもらえないし」
「警察には? いくら圭の両親だからって、彼らのしていることは誘拐だろう?」
「警察なんて……っ。幸太にとっては、いいおばあちゃんなの。私は圭の両親だって思ってても好きにはなれないけど、幸太にとっては違うから。それに、今までこんな無理やり幸太を連れだすなんて、したことなかった」
「学校って圭が通ってた名門私立だろう。高い学力が必要だが悪いとこじゃないぞ。けど、どうするつもりだ?」
「会わせてもらえるまで行くしかない」
「門前払いがいいところだろ」
 こんな話をするはずではなかった。史哉にはもう二度と会うつもりもなかったのに、どうしてだか巻き込んでしまっている。
(彼に、迷惑までかけて……)
 やはり帰ろう、これからもう一度圭の実家へ行って、会ってもらえるまで前で待っていればいい。静香が寝室を出ようとするのが気配でわかったのか、それを遮るようにドアの前に史哉が立ちはだかる。
「俺は休めって言ったよな?」
「史哉には関係ないでしょ! 私のことは放っておいて……っ」
「関係ない? そんなわけあるかっ!」
 腕を引っ張られて、気づけば史哉の胸の中に顔を埋めていた。
「な、にを……」
「昔、一度だけこうしたな。覚えているか?」
「お、覚えてないっ!」
 逃げだそうにも、彼の腕にがっちりとホールドされていて身動きさえ取れなかった。
 それに、まさか史哉があの一夜のことを今更持ち出すとは夢にも思っていなかった。もうとっくに忘れているか。若かりし頃の遊びとして思い出になっているかだと思っていたのだ。
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