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第四章
①
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第四章
圭と結婚して二年目の冬。
静香は駅近くにあるビルの二階から、ぼんやりと横断歩道を歩く人々を見つめた。
コートの襟をきっちりと留めて、マフラーや手袋で防寒して歩く姿が寒々しい。それもそのはずで、今日は朝からパラパラと雪が降っていた。積もる予報ではなかったはずなのに、人のいない場所にはもう一センチほどの雪が積もり始めていた。
(電車が止まることはないだろうし……あまりにひどくなったら帰ればいいか)
静香は窓から都会の雪景色を眺めながら、すっかり冷めたコーヒーを口に含んだ。
時間にはまだ早い。パソコンを立ち上げて、しばらくのあいだ考え事をしながら翻訳の仕事を進める。依頼があって初めて成り立つこの仕事は、とても高収入とは言いがたい。銀行で働いていた時の方がよほど安定していた。
史哉の子、幸太《こうた》はもうすぐ二歳になる。年々彼の面影を宿す幸太を見ていると胸が切なく苦しくなるのは、圭にも言えない。彼はただただ幸太を可愛がり愛してくれるから。
銀行でなくとも、得意な英語力を活かしてどこかで働こうと思っていたけれど、圭もまた総合職として異動の多い仕事に就いている。パソコン一台あればどこででも出来る仕事を選んだのはそのためだ。
青葉銀行本店からも程近い場所にあるこのカフェは、一面はめ殺しの窓になっている。幸太を保育園に送り、もう常連ともなったこの場所で仕事を始めながら、静香は何時間も人知れず胸を高鳴らせている。
恋はまるで依存だ。
結婚という縛りすら難なく飛び越える。罪悪感なんて最初だけ。見ているだけなのだからいいじゃない、と自分の行動を肯定さえしてしまう。
結婚すれば圭を愛せるかもしれない、そう思っていた。
しかし、静香にとって恋は一生に一度だけなのだと思い知った。結婚しても、子どもを産んでも、どれだけ愛情を与えられても、静香の恋はたった一人の方だけを向いている。
表面上は圭と上手くいっていると思う。ただ、同期なのに史哉の名前すら出さない、出せないのはどこか歪だ。どちらかが史哉について触れれば、この幸せが壊れてしまうような危うい場所にいるのだと気づかされる。
(あ……来た……)
横断歩道を歩くビジネスマンの中に、彼の姿を見つけた。
自慢にならないが、誰よりも早く史哉を見つける自信がある。彼が一際目を惹く容貌をしているという理由だけではなく、吸い寄せられるように目が彼を追ってしまうのだ。
道路を挟んで向かい側のカフェ。いつも史哉が座るのはテラスだったり、店の前だったり。
(寒そう……中に入ればいいのに)
昼休憩の後のコーヒータイムといったところだろうか。彼が立ち寄るのは長くても十分だ。静香が偶然入ったこのカフェで彼を見かけたのは数ヶ月前のこと。
バカみたいだとわかっているが、偶然がまたありはしないかとつい通ってしまっていた。彼は週に一、二度あの店に来る。たまに目が合ったかもと思うことはあるが、静香の願望が見せる妄想だろう。
(会いたい……)
不貞ではないが胸は苦しい。その正体は罪悪感だ。
史哉はここに静香がいるなどと夢にも思っていないだろう。ただ、遠くから想っているだけだ。
(だからって、許されない……)
静香はそっと窓に触れた。通じるはずもないだろうが、風邪をひきませんように、彼の仕事がうまくいきますように、と祈るのが習慣になってしまった。
スマートフォンに圭からメールの通知が来た。
今日は雪が降っているから保育園に幸太を迎えにいく。静香のことも迎えに行くから、近くの駅で待っているように、と。
胸が痛むのは、圭のこういう優しさに触れた時だ。
家にずっといると集中力が途切れるからと、静香がいつも外で仕事をしているのは彼も知ってのこと。
雪の中、静香が保育園の迎えに行かなくていいように、道中で拾うから一緒に帰ろうと言ってくれているのだろう。
(でも、車で……大丈夫かな……?)
圭は車で通勤している。
あまり雪が降ることはないから、タイヤもまだ変えていない。まだ路面は凍結していないだろうが、このまま気温が下がり続ければ車の運転は危ないだろう。
今日は自転車で迎えにいくのも危ないし、歩いて保育園に迎えにいこうと思っていたのだ。
歩いて帰ってきた方がいいのではとメールを入れると、気をつけるから大丈夫とだけ返ってきた。
向かいの店に視線を送ると、もうすでに史哉の姿はなかった。
休憩を終えて、仕事に戻ったのだろう。静香は滞っていた仕事に集中することにした。
数時間後、ふと顔を上げて窓の外を見ると、目の前は銀世界だった。
(すごい雪……)
早く帰らないと、これでは電車も止まってしまうかもしれない。
静香は急いでパソコンを鞄の中に入れると、トレイを片付け店を後にする。
外へ出ると吹きつける雪が身体を芯まで冷やしていく。史哉はこの吹雪の中よく外にいたものだ。よほど店内が混んでいたのだろうか。
駅へと向かうと、やや電車に遅れはあり混雑していたものの、数十分で自宅近くの駅へと着いた。
今日は寒いから鍋にしようと、駅直結のスーパーで夕飯の買い物を済ませた。
明日はもしかしたら雪で外に出られないかもしれない。圭が迎えに来てくれるしと、三日分くらいの食材を買ったため少しだけビニール袋を持つ手が痺れる。
寒さを凌げる駅の中で待っているが、まだ圭からの連絡はない。
時計を見ると、五時半を回っていた。いつも静香が保育園に迎えに行くのは六時だから、そろそろ銀行を出る頃だろう。
先に保育園に迎えにいくはずだが、外の景色はまるで雪国のようだ。走る車の屋根や、バス停の屋根。それにガードレールにも三センチほどの雪が積もっていた。
(圭……本当に大丈夫かな……)
今からでも遅くはない。やはり車を置いて電車で帰ってと伝えよう。そう考えて静香はスマートフォンを手に取った。
しかし何コール鳴らしても圭は出ない。もしかしたら、早めに仕事を終わらせて帰ることになったのかもしれない。
(もう帰ったのかな、運転中……? お願い、出て……)
これほど不安になるのはどうしてだろう。足元からぶるりと底冷えする悪寒のようなものがせり上がってくる。
結局十数コール鳴らしても、圭は電話に出なかった。待っているしかないかと、スマートフォンを握りしめる。
「ふぇっ、くしっ」
あまりの寒さにスマートフォンをチェックすると、圭に電話してから三十分経っていた。そろそろ来るだろうか、と辺りを見回す。もしかしたら道路も帰路に着く車で混雑しているのかもしれない。
しかしさらに十分待っても圭の車はどこにも見えない。
さすがに遅すぎる。保育園に確認した方がいいかもしれないとふたたびスマートフォンを持ったタイミングで、手のひらの中でマナーモードにしているスマートフォンが着信を知らせた。
きっと圭からだ、と安堵の思いで画面を見るが、着信相手として表示されていたのは幸太が通う保育園だった。
(なんで……?)
「は、い……」
『ひまわり保育園ですが……あの、戸澤さんのお電話でしょうか?』
「そうです。いつもお世話になっております」
戸惑っているような相手の声色に、静香の心臓が早鐘を打つ。
『あの、今日は延長保育の申請はされていないと思うのですが……お迎えはまだ時間かかりそうですか?』
「え、夫は……まだそちらに着いていないですか?」
圭はどうしたのだろう。約束を破るような人ではないし、仕事で都合がつかなくなったのなら、必ず連絡があるはずだ。連絡もできない状況にあるということだろうか。ただ渋滞にはまっただけならば、一旦車を停めて連絡をするはず。
『あ、今日のお迎えはお父さんだったんですね! でも、まだいらっしゃってません……あの申し訳ないのですが、今日は雪がひどいので延長保育はなるべくお断りしているんです。もしお父さん時間かかりそうなら、お母さまにお迎えに来ていただきたいのですが』
「ええ……わかりました……すぐ向かいます」
嫌な予感が現実味を帯びてすぐ後ろまで迫っていた。
頭に浮かぶのは最悪の想像ばかりだ。
(なにかあったの……?)
いや、きっと仕事が終わらなかったとか、スマートフォンの充電が切れて連絡できなかったとか。理由はそんなものだろう。
圭と結婚して二年目の冬。
静香は駅近くにあるビルの二階から、ぼんやりと横断歩道を歩く人々を見つめた。
コートの襟をきっちりと留めて、マフラーや手袋で防寒して歩く姿が寒々しい。それもそのはずで、今日は朝からパラパラと雪が降っていた。積もる予報ではなかったはずなのに、人のいない場所にはもう一センチほどの雪が積もり始めていた。
(電車が止まることはないだろうし……あまりにひどくなったら帰ればいいか)
静香は窓から都会の雪景色を眺めながら、すっかり冷めたコーヒーを口に含んだ。
時間にはまだ早い。パソコンを立ち上げて、しばらくのあいだ考え事をしながら翻訳の仕事を進める。依頼があって初めて成り立つこの仕事は、とても高収入とは言いがたい。銀行で働いていた時の方がよほど安定していた。
史哉の子、幸太《こうた》はもうすぐ二歳になる。年々彼の面影を宿す幸太を見ていると胸が切なく苦しくなるのは、圭にも言えない。彼はただただ幸太を可愛がり愛してくれるから。
銀行でなくとも、得意な英語力を活かしてどこかで働こうと思っていたけれど、圭もまた総合職として異動の多い仕事に就いている。パソコン一台あればどこででも出来る仕事を選んだのはそのためだ。
青葉銀行本店からも程近い場所にあるこのカフェは、一面はめ殺しの窓になっている。幸太を保育園に送り、もう常連ともなったこの場所で仕事を始めながら、静香は何時間も人知れず胸を高鳴らせている。
恋はまるで依存だ。
結婚という縛りすら難なく飛び越える。罪悪感なんて最初だけ。見ているだけなのだからいいじゃない、と自分の行動を肯定さえしてしまう。
結婚すれば圭を愛せるかもしれない、そう思っていた。
しかし、静香にとって恋は一生に一度だけなのだと思い知った。結婚しても、子どもを産んでも、どれだけ愛情を与えられても、静香の恋はたった一人の方だけを向いている。
表面上は圭と上手くいっていると思う。ただ、同期なのに史哉の名前すら出さない、出せないのはどこか歪だ。どちらかが史哉について触れれば、この幸せが壊れてしまうような危うい場所にいるのだと気づかされる。
(あ……来た……)
横断歩道を歩くビジネスマンの中に、彼の姿を見つけた。
自慢にならないが、誰よりも早く史哉を見つける自信がある。彼が一際目を惹く容貌をしているという理由だけではなく、吸い寄せられるように目が彼を追ってしまうのだ。
道路を挟んで向かい側のカフェ。いつも史哉が座るのはテラスだったり、店の前だったり。
(寒そう……中に入ればいいのに)
昼休憩の後のコーヒータイムといったところだろうか。彼が立ち寄るのは長くても十分だ。静香が偶然入ったこのカフェで彼を見かけたのは数ヶ月前のこと。
バカみたいだとわかっているが、偶然がまたありはしないかとつい通ってしまっていた。彼は週に一、二度あの店に来る。たまに目が合ったかもと思うことはあるが、静香の願望が見せる妄想だろう。
(会いたい……)
不貞ではないが胸は苦しい。その正体は罪悪感だ。
史哉はここに静香がいるなどと夢にも思っていないだろう。ただ、遠くから想っているだけだ。
(だからって、許されない……)
静香はそっと窓に触れた。通じるはずもないだろうが、風邪をひきませんように、彼の仕事がうまくいきますように、と祈るのが習慣になってしまった。
スマートフォンに圭からメールの通知が来た。
今日は雪が降っているから保育園に幸太を迎えにいく。静香のことも迎えに行くから、近くの駅で待っているように、と。
胸が痛むのは、圭のこういう優しさに触れた時だ。
家にずっといると集中力が途切れるからと、静香がいつも外で仕事をしているのは彼も知ってのこと。
雪の中、静香が保育園の迎えに行かなくていいように、道中で拾うから一緒に帰ろうと言ってくれているのだろう。
(でも、車で……大丈夫かな……?)
圭は車で通勤している。
あまり雪が降ることはないから、タイヤもまだ変えていない。まだ路面は凍結していないだろうが、このまま気温が下がり続ければ車の運転は危ないだろう。
今日は自転車で迎えにいくのも危ないし、歩いて保育園に迎えにいこうと思っていたのだ。
歩いて帰ってきた方がいいのではとメールを入れると、気をつけるから大丈夫とだけ返ってきた。
向かいの店に視線を送ると、もうすでに史哉の姿はなかった。
休憩を終えて、仕事に戻ったのだろう。静香は滞っていた仕事に集中することにした。
数時間後、ふと顔を上げて窓の外を見ると、目の前は銀世界だった。
(すごい雪……)
早く帰らないと、これでは電車も止まってしまうかもしれない。
静香は急いでパソコンを鞄の中に入れると、トレイを片付け店を後にする。
外へ出ると吹きつける雪が身体を芯まで冷やしていく。史哉はこの吹雪の中よく外にいたものだ。よほど店内が混んでいたのだろうか。
駅へと向かうと、やや電車に遅れはあり混雑していたものの、数十分で自宅近くの駅へと着いた。
今日は寒いから鍋にしようと、駅直結のスーパーで夕飯の買い物を済ませた。
明日はもしかしたら雪で外に出られないかもしれない。圭が迎えに来てくれるしと、三日分くらいの食材を買ったため少しだけビニール袋を持つ手が痺れる。
寒さを凌げる駅の中で待っているが、まだ圭からの連絡はない。
時計を見ると、五時半を回っていた。いつも静香が保育園に迎えに行くのは六時だから、そろそろ銀行を出る頃だろう。
先に保育園に迎えにいくはずだが、外の景色はまるで雪国のようだ。走る車の屋根や、バス停の屋根。それにガードレールにも三センチほどの雪が積もっていた。
(圭……本当に大丈夫かな……)
今からでも遅くはない。やはり車を置いて電車で帰ってと伝えよう。そう考えて静香はスマートフォンを手に取った。
しかし何コール鳴らしても圭は出ない。もしかしたら、早めに仕事を終わらせて帰ることになったのかもしれない。
(もう帰ったのかな、運転中……? お願い、出て……)
これほど不安になるのはどうしてだろう。足元からぶるりと底冷えする悪寒のようなものがせり上がってくる。
結局十数コール鳴らしても、圭は電話に出なかった。待っているしかないかと、スマートフォンを握りしめる。
「ふぇっ、くしっ」
あまりの寒さにスマートフォンをチェックすると、圭に電話してから三十分経っていた。そろそろ来るだろうか、と辺りを見回す。もしかしたら道路も帰路に着く車で混雑しているのかもしれない。
しかしさらに十分待っても圭の車はどこにも見えない。
さすがに遅すぎる。保育園に確認した方がいいかもしれないとふたたびスマートフォンを持ったタイミングで、手のひらの中でマナーモードにしているスマートフォンが着信を知らせた。
きっと圭からだ、と安堵の思いで画面を見るが、着信相手として表示されていたのは幸太が通う保育園だった。
(なんで……?)
「は、い……」
『ひまわり保育園ですが……あの、戸澤さんのお電話でしょうか?』
「そうです。いつもお世話になっております」
戸惑っているような相手の声色に、静香の心臓が早鐘を打つ。
『あの、今日は延長保育の申請はされていないと思うのですが……お迎えはまだ時間かかりそうですか?』
「え、夫は……まだそちらに着いていないですか?」
圭はどうしたのだろう。約束を破るような人ではないし、仕事で都合がつかなくなったのなら、必ず連絡があるはずだ。連絡もできない状況にあるということだろうか。ただ渋滞にはまっただけならば、一旦車を停めて連絡をするはず。
『あ、今日のお迎えはお父さんだったんですね! でも、まだいらっしゃってません……あの申し訳ないのですが、今日は雪がひどいので延長保育はなるべくお断りしているんです。もしお父さん時間かかりそうなら、お母さまにお迎えに来ていただきたいのですが』
「ええ……わかりました……すぐ向かいます」
嫌な予感が現実味を帯びてすぐ後ろまで迫っていた。
頭に浮かぶのは最悪の想像ばかりだ。
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