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1巻
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けれど、幼い志穂にとって、果穂に比べて自分は劣っているのだと胸に刻まれるには十分だった。
それに、あれから九年近く経ち、自分の中で惣のことが過去になっても、果穂とは距離ができてしまったままだ。一度作ってしまった壁を壊すのは簡単ではなく、なにもなかったように接するのは難しい。
『一日くらい帰ってこられないの?』
「果穂が家にいるんだから、いいじゃない」
『果穂は果穂よ』
母にきっぱりと言い切られて苦笑が漏れた。
「ごめん、予定があるから。そのうち休みに顔を出すよ」
『わかったわよ。でも、ちょっとでも時間があるならこっちに来るのよ』
「今忙しいの、悪いけどもう切るね」
志穂はおざなりに返事をして電話を切り、待ち合わせ場所のホテルへと急いだ。
惣と待ち合わせているラグジュアリーホテルは、駅の南口から直結しており、利便性のいい立地に建っている。
客室からは周囲に聳え立つ高層ビル群を一望でき、さらに世界水準のサービスを受けられるとあって、外国人観光客やビジネス客の利用も多く、結婚式場としての人気も非常に高い。
まさか高級ホテルに呼び出されるとは思ってもみなかった志穂は、自分の格好に目を走らせて、ため息を漏らす。
白のブラウスに長めのプリーツスカート。その上から、ムートンジャケットを羽織っている。仕事着としてはおかしくないが、レストランフロアでの場違い感に落ち着かない。
志穂はジャケットを脱ぎ、腕にかけると惣の到着を待った。
「待たせたな」
惣が来たのは、志穂が着いてから十分後だった。
電話のあと、すぐに向かってくれたのかもしれない。
「いえ、私こそすみません。お忙しいのに、電話を……」
「その話し方慣れないんだよな」
ため息まじりに言われて、下げかけていた頭を上げた。
「え?」
「とりあえず入るぞ」
腕を引かれて、店に足を踏み入れた。
店内は和の雰囲気が漂い、大きなガラス窓から眼下に広がる日本庭園を見下ろせる造りになっている。中央には大きな鉄板とカウンター席があり、景色を見ながらシェフが銘柄牛や海鮮を目の前で焼いてくれるようだ。
惣はカウンターではなく半個室席を選んだ。席に着き、メニューを見ることもなくスタッフを呼ぶと、おすすめコースを頼んだ。
「たしか肉は好きだったよな? 飲み物はどうする?」
「はい……えっと、ウーロン茶で」
待ち合わせ場所に飲食店前を指定された時点で予測はできていたが、まさか本格的なコース料理の店とは思ってもみなかった。
「じゃあ、ボトルシャンパンとウーロン茶。グラスは二つで」
しかも頼んだのはボトル。食事が終わるまでに二時間はかかるはずだ。自分のためにわざわざそんなに時間を取る必要はなかったのに。
「かしこまりました」
店員が一礼して背を向ける。
黙ったまま飲み物が運ばれてくるのを待っていると、惣がこちらを見て小さく笑った。
「困った顔をしてるな」
「それは……だって、取締役があんなことを言うなんて、思ってなかったので」
志穂の言葉に、向かいに座った惣が眉を上げて嘆息した。
「なぁ、それ、やめないか? 無理強いはしないが、もう少し砕けてくれ。昔は、惣って呼んでただろう?」
にっこりと微笑まれ、顔が引き攣った。
冗談を言っている様子はない。昔のよしみで無礼講でいい、という意味だろうか。
「今さら、呼べるわけないですよ」
「それは残念」
さして残念そうでもなく彼は言った。
こんな話をしに来たわけではないのだ。なぜ彼がうそをついてまで自分を庇ってくれたのかはわからないが、上司を面倒事に巻き込むわけにはいかない。
「あの、私……」
「辞めるなよ? マナビゼミナールのプロジェクトメンバーから、デザイナーの主力であるお前を外すことはできない。今後のチームについては配慮する。だから……簡単に諦めるな」
退職する、と口に出すのを遮るように惣が言った。
懐かしいセリフに驚いた。出会った頃、サークルの空気が肌に合わず辞めようとしていた志穂に、彼は今と同じように「辞めるな」と言ったのだ。
楽しいことを、俺がたくさん教えてやるから──そう言って、志穂をいろいろなところに連れ出してくれた。
(ほんと、変わってないな)
志穂がなにを言うのかわかっていたのか、そんな風に先手を打たれてしまうと「これ以上迷惑をかけたくないから辞める」とは言いにくい。
「……相変わらずですね」
昔話をするつもりはなかったのに、気づくとそう口にしていた。
学生時代となんら変わっていない。お人好しなところも、困っている人を放っておけないところも、人たらしなところも。彼は人付き合いのできない志穂に、遊ぶ楽しさを教え、恋愛の素晴らしさを教えた人だ。
「そうそう性格なんて変わらないだろ。お前だって昔と変わってない」
惣は懐かしそうに目を細めた。
「……私のこと、覚えてたんですね」
会社で初めて顔を合わせたときから今まで、過去について話題に上ったことは一度もない。だからさっき、学生時代の話を持ち出されて心底驚いた。写真までまだ持っているなんて思ってもみなかった。
「当たり前だろ。たとえ一ヶ月でも、恋人だった女の顔くらい覚えてるさ」
惣はさも当然だとばかりに頷いた。
覚えていたならどうしてなにも言わなかったのだろうと思わなくもないが、言わなかったのは志穂も同じだ。でも志穂も、惣を忘れたことはなかった。恋する気持ちが形を変えても、自分に恋愛を教えてくれた人のことを忘れはしない。
けれど、あれはもう過去だ。今から惣となにかが始まるわけもないのだから、言う必要はないと思っていた。
「そうでしたか」
「俺も、忘れられてると思ってた。お前こそ、覚えてたんだな」
忘れるわけがない、そう言おうとして志穂は口を噤んだ。
過去であっても、それを口に出すのはなんだか悔しかった。
志穂が別れのメッセージを送り連絡を絶ったあと、彼とは一度も顔を合わせていない。志穂の家を彼は知っていたし、連絡を取ろうと思えば取れたはずだ。
それでも、惣からはなんの連絡もなかった。一方的に別れを告げたのは自分だが、やはり彼にとって自分は賭けの対象でしかなかったのだと思い知らされた。
「覚えてますよ。記憶力はいい方ですから。あの、さっきはありがとうございました。ストーカーと思われるのは心外でしたから、助けてくれたことには感謝しています。でも、これ以上取締役に迷惑をかけるつもりはありません」
「迷惑だなんて思ってない。やりたくてやったことだ」
惣はあっさりとそう言った。志穂の恋人に思われるなんて、彼にとっては迷惑だろうに。
(私を庇うために、恋人だってうそをつかせるなんて。そんなことさせるくらいなら、退職した方がマシだよ)
志穂が退職すれば万事解決するのだ。
隆史のストーカーと思われたところで、社員と顔を合わせなければ痛くも痒くもない。それに、志穂がストーカーでないことを知っている隆史が、警察に行くことは絶対にない。
退職日までは針のむしろだろうし、引き継ぎで迷惑をかけてしまうかもしれないが、自分のほかにもデザイナーはいる。それに、同じプロジェクトを担当しているメンバーが三角関係になっているより、はるかにいいはずだ。
「私事に取締役を巻き込むつもりはありません。私が仕事を辞めればそれで済みます」
「さっきも言っただろ。自分が悪くないのに辞めるな。それとも、お前は本当にストーカーをしてたのか?」
「まさかっ!」
「だろうな。お前と井出は付き合ってた、でいいんだよな。まず、そこからちゃんと説明しろ」
だが、説明したら巻き込んでしまう。けれど、黙っていることもできず、志穂は渋々頷いた。
「……はい」
「お待たせいたしました」
そのとき、タイミングを計ったようにグラスを持った店員が来た。
シャンパングラスに酒を注がれるのを見ながら、どこから話そうかと頭の中を整理する。
「飲めなかったら、グラスは置いておけばいい」
「大丈夫です……飲めます。いただきます」
グラスを持ち上げて、口をつける。爽やかな香りが鼻から広がり、甘さはあるがすっきりとした口当たりで飲みやすい。銘柄はわからないが、肉料理にも合いそうだ。
ドリンクを運んだスタッフとは別のスタッフがすぐにやってきて、綺麗に盛りつけられた前菜が目の前に置かれた。志穂はナイフとフォークを手にしながら、口を開いた。
「たか……井出さんとは、二年前から付き合っていました。彼がメッセージより電話が好きだと言っていたので、証拠になるようなものはないですが……私の勘違いではありません。上園さんと井出さんが付き合っていたなんて、今日まで知りませんでした」
家に行く、という隆史からの電話を、いつも待つばかりだった。冷静に考えれば、本命とは思われていないと気づけたはずなのに。
「勘違いなんて初めから思ってねぇよ」
「私たちが付き合ってたことに、気づいてましたか?」
「あぁ、なんとなくな。だから井出から結婚の報告を受けたとき、気になった」
やはり案じてくれていたのだと知り、志穂は小さく礼を言った。
「ひどいことをするな」
隆史と奈々の結婚報告は、ただただショックだった。
しかし、彼に対する好意が失せた今は、無力感が大きい。大切にされていないと気づきながらも、楽だからと見て見ぬふりをして、隆史の本質に気づけなかった。
「二人を祝えないにしても、心変わりは仕方ないから納得しようとしたんです。でも、ストーカーなんて話を聞いたあとじゃ、一緒に仕事をすることはできません。井出さんも上園さんも、私が退職すればいいと思ってるんです。その通りにするのは癪ですが、それが一番いいと思っています」
「そうやってまた、俺のときみたいに逃げるのか?」
冷ややかな口調で言われた言葉に、志穂は胸の内を見透かされたような思いでびくりと肩を震わせた。メッセージ一つで別れを告げたときのことを揶揄されたのだと、気づかないわけがなかった。
「それ、は……」
志穂が告白をOKするか友人と賭けていたと果穂から聞いたから。そんな理由は言い訳にもならない。本当はあれから何度も後悔した。あのときどうして直接確かめなかったのかと。
それができなかったのは、惣が自分を選んでくれるとは思えなかったからだ。彼の口から、果穂との交際を聞かされたくなかった。だから、自分から別れを告げて、惣を諦めた。
あのときの自分の気持ちをわかってもらえるとは思えず、志穂は口ごもった。視線を落としてテーブルを見つめていると、向かいからため息が聞こえてくる。
「果穂からなにか言われたんだろ?」
「どうして、それを」
まさか惣が知っていたとは思わず、驚いて顔を上げた。
「俺もいろいろ吹き込まれたからな。その件で志穂と話そうと思っていた矢先に、お前から別れのメッセージが届いたんだ。そのあとはブロックされたしな」
果穂ならばそれくらいやりそうだ、と妙に納得してしまった。
九年も前のことだが、今さら自分の行動の愚かさを突きつけられた気分だった。
「果穂は……なにを?」
「身体の相性が悪いから別れたい、志穂がそう言っていたと聞かされた」
「そんなことあるわけないっ!」
志穂は頬を真っ赤に染めながら必死に首を横に振った。
たった一度だけ惣と身体を重ねた日を思い出す。志穂はあのとき初めてだったし、それで身体の相性などわかるはずもない。
(あのとき、別れ話をする前に惣に確認していれば……)
惣は自分を信じてくれていたのに、彼を信じられなかった。自分が恥ずかしくてならない。
「果穂は……あなたが私と付き合うことを、友人との賭けの対象にしていたと言いました」
惣は、志穂の言葉に呆れたように肩を竦めた。
「それこそまさかだな。あのとき俺は、間違いなくお前が好きだった。好きだと言ったのはうそじゃないし、賭けなんてするわけがない」
「そうだったんですね」
笑おうとしても、上手く笑えなかった。
今さら過去の誤解が解けたところで、時間は元には戻らない。彼の手を離してしまった自己嫌悪が残るくらいだ。
「それで、やっぱり逃げるのか?」
「……はい、辞めます」
志穂がきっぱり言うと、向かいからふたたび嘆息が聞こえる。
「お前は、そうやって自分ばかりが泥を被ろうとするのをいい加減にやめろ。俺を利用してあいつらを見返してやるくらいの気概を持て。もっと強かになれよ。見ているこっちがもどかしくなる」
惣は眉を顰め、苛立った口調で言った。
「見返す……?」
思ってもみなかったことを言われて、志穂は目を見開いた。見返すために惣を利用するなんてできるわけがない。
惣は苦笑しながら腕を伸ばし、戸惑う志穂の頭の上にぽんと手を置き、呆れた顔をした。
「辞める決意をするのは、恋人として俺を利用してからにしろ。悪いようにはしない」
「どうしてそこまで……」
昔付き合っていたとはいえ、たった一ヶ月。それにいい別れ方をしたとは言えないのに。
「お前ほど、俺は諦めがよくないもんでな」
諦め、の意味はわからないが、もしかしたら彼は、上司として気にかけてくれているのかもしれない。
「ご厚意はありがたいですし、心配してくださるのも、嬉しいです。でも、恋人のふりをしても取締役にはなんのメリットもありません。それに、あなたの恋人に迷惑がかかります」
「俺に恋人はいない。志穂の恋人になるのになんの障害もないぞ。喜んで利用されてやるよ」
彼の言葉に益々戸惑ってしまう。
惣がどうして自分にここまでしてくれるのかはわからないが、守ろうとしてくれているのだけは伝わってきた。
(そういえば……昔から、困ってる人を放っておけない人だったもんね)
『周りにいいように使われてるなよ』
かつて、サークルの集まりのバーベキューで、一人ぽつんと料理の下拵えをしていた志穂を見かねたのか、惣がそう言って声をかけてきた。
『辞めるなよ。また来い。楽しいことを、俺がたくさん教えてやるから』
まったくもって上からなセリフだったが、不思議と苛立ちはしなかった。社交辞令だと思ったのに、その後も、度々彼に話しかけられるようになるとは夢にも思わなかった。
(昔も今も……変わらないな)
辞めるな、喜んで利用されてやる、なんて、本心なはずがないのに。昔みたいに流されるまま彼の優しさに甘えてしまいたくなる。
「ストーカーなんて話がなくなれば、お前も仕事がやりやすくなるだろう。俺は優秀な社員を失わずに済む。いいことずくめだ」
その言葉で、ようやく腑に落ちる。やはり彼は上司としてチームの心配をしているだけなのだ。このまま志穂が退職すれば、プロジェクトの進行にも影響があるかもしれない。
「そのために、私の恋人になると?」
いくら困っている人を放っておけないとしても、自己犠牲がすぎる。彼がそこまでするメリットなんてなにもない。
「あぁ。過去の誤解は解けたし、俺は今フリーだし、お前は女として魅力的だからな。なんの問題もない」
惣は色気を含んだ目をして志穂を見つめた。
「女としてって……」
暗に身体の関係を求められているのがわかり、志穂は思わず口に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。
元恋人ならば一線を超えるのはたやすい。彼はきっと、噂が落ち着くまで、身体の関係を含めた大人の付き合いをしようと言っているのだ。恋人というより、セフレのようなものかもしれない。
「本気ですか?」
「本気に決まってる。それとも、俺と付き合うのはいやか?」
「……そういうわけじゃ」
「じゃあ、いいな」
惣は断られるとは思ってもいないのか、自信ありげに言う。
彼の提案は、状況を打開するにはベストに思えた。冷静に考えれば、志穂にとってメリットしかない。仕事を辞めずに済み、ストーカー疑惑も解消される。
「惣は、それでいいの?」
気づくと、口調が昔に戻っていた。出会った頃を思い出したからだろうか。
久しぶりに惣と呼んだのに、まるで空白の期間などないように感じた。彼の口調や態度が付き合っていた頃を彷彿とさせるからかもしれない。
「いいよ。あいつらに見せつけてやればいい」
惣は、口の端を得意げに上げて笑った。
いつだって前向きで自信家で、志穂はそういう彼が好きだった。自分にないものを持っている惣が眩しく映った。あんなことがあっても、自分の中で彼の存在は特別なのだと改めて思う。
「……まぁそのうち、あの男なんて目に入らなくさせる予定だしな」
「え?」
意味がわからず聞き返すと、なんでもないと首を振られた。
「で、どうする?」
たとえ身体だけの恋人関係を求められているにしても、彼は自分を救ってくれた。隆史の裏切りはどうしたって許せない。惣が諦めるなと言ってくれるのなら、その手を取ろう。
「わかった……よろしくお願いします」
「よろしくな」
差し出された彼の手を握った。
メインの料理もデザートも食べ終えると、あっという間に二時間が経っていた。そういえば、昔もそうだったなと頬が緩む。
(惣と会ってると、いつも時間が経つのが早かった。共通の話題なんて全然ないのに、いろいろ話してたらあっという間で、びっくりしたんだよね)
いつの間にかグラスを空けていて、アルコールで気分がふわふわする。
会計の伝票がテーブルに置かれ、ちらりと見えた支払額に仰天する。さすがに五万円を超えるとは思っておらず、持ち合わせがなかった。
「あの、カードで払ってもいい?」
「お前に払わせるわけないだろ。この店を指定したのは俺なんだから」
大学時代の食事代は割り勘だった。彼は上司で役員で、給料だって当然志穂とは雲泥の差があるだろう。けれど、たった三歳しか離れていないのに、追いつけない距離を感じると悔しくもあった。
「そんなに払いたきゃ、出世しろ」
こつんと軽く頭を叩かれて、彼はさっさと支払いを済ませてしまう。複雑な胸の内を見透かされて頬に朱が走った。
(なんで惣にはわかっちゃうの……)
感情が表情に出にくい志穂の気持ちを、彼はいとも簡単に当ててしまう。志穂はわかりやすいと言って。
「ごちそうさまでした。いろいろとありがとう。それで、私はどうすればいい?」
志穂は肩にかけたショルダーバッグの紐をぎゅっと掴み、決戦に立ち向かうような心地で口に出す。彼に返せるものなどなにもないかもしれないが、なるべく惣の希望に添えるように振る舞うべきだろう。
「そうだな。一つだけ」
「うん、なに?」
エレベーターホールに向かう途中で足を止めた彼が、志穂を振り返る。
ふいに惣の顔が近づいてくる。避けようもないくらいに自然な動作で、久しぶりに嗅ぐ惣の匂いが鼻を掠めた。
「せっかく恋人になったんだし。まずは今夜、身体の相性を確かめようか」
耳の近くで声を潜めて言われ、かっと頬に熱が走る。冗談を言わないで、と返そうとするが、すぐ近くにある彼の顔が思いのほか真剣で、志穂はこくりと唾を飲んだ。
「あい、しょうって……」
「わかるだろう? 学生のときとは違うんだし、大人の付き合いをしよう、志穂。それに……俺も昔ほど悠長には待ってやれない」
まさかそんなにすぐ身体の関係を求められるとは思っていなかった。だが迷ったのは一瞬で、仕事のためとはいえ、自分を助けてくれた彼の求めに応じることに抵抗はない。
「惣は……したいの?」
多少の照れくささから目を合わせないまま聞き返すと、はっきりとした口調で返される。
「したい」
(大人の付き合いか……そういう割り切った関係の方が、私には合ってるかもね……)
たしかに学生のときとは違うなと、志穂は胸の内で苦笑する。あの頃は、惣と手を繋ぐだけで緊張していたのに、そういったことにも慣れたのだなと感慨深く思う。
志穂が黙っていると、なぜか昔から志穂の感情を言い当てるのが得意な男は、その気持ちを見透かしたように腰に腕を回す。
「俺は志穂を抱きたい。志穂は?」
強引に顎を持ち上げられ目と目が合う。しっかりと顎を掴まれていて、目を逸らすことは敵わない。頬を撫でられると、身体の奥が甘く痺れるような感覚が走った。
惣と一緒に仕事をしていても、過去を思い出さずにいられたのは、彼に女性に対する欲をまったく感じなかったからだ。
けれど今は違う。志穂を見る彼の目はたしかな劣情を孕んでおり、頬を撫でる手はまるで女性の身体を開いているときのように淫らだ。
「俺に抱かれたいって言って」
率直すぎる物言いに、ますます身体の芯が火照っていく。惣に求められていることが嬉しかった。恋人の裏切りにより乾ききった心に彼の言葉が沁みわたる。惣の言葉に焚き付けられたかのように、志穂はすでに彼に抱かれることを期待してしまっている。
一度身体の関係を持った男女が一線を超えるのは、これほどにたやすいものなのか。志穂は縋りつくように腕を伸ばしてしまう。
「……抱かれたい」
「じゃあ行こう」
惣はフロントを通り越して、志穂の腕を引きエレベーターホールへ向かった。上へ向かうボタンを押すのを見て、準備がよすぎやしないかと惣を睨むと、苦笑が返された。
「来るときに部屋を取ってきた」
「女性を誘うとき、いつもそうしてるの?」
昔から感じていたが、大人になりさらに女性の扱いがスマートになっているようだ。過去の恋心のせいか、なんとなくそれがおもしろくなくて、気づくと責めるような口調になっていた。
「嫉妬してくれてるのか?」
「ちが……っ」
到着したエレベーターに乗り込むと、ぐっと腰を引き寄せられて、彼の胸に頭が埋まる。
「してくれないのか、残念」
エレベーターを降りて廊下を歩く間も、腰に回された腕は離れていかなかった。カードキーでドアの鍵が開けられ、室内へ促される。
リビングとベッドルームが分かれているのか、都会の街並みが一面に広がる大きな窓とソファー、ダイニングテーブルが目に入る。彼に手を引かれてソファーに腰かけると、膝を突き合わせるように彼も座った。両手が彼の手に包まれる。
「……俺は、志穂と再会したあと、散々嫉妬させられたのにな」
惣はなにかを思い出すように目を細めて、ため息まじりに言った。
「嫉妬って、誰に?」
「井出に決まってるだろ」
隆史に嫉妬する理由などないのに、どうしてだろう。
「ずっと、お前を抱きたくて、たまらなかったよ」
後頭部を引き寄せられると、胸がぎゅっと苦しくなる。
「あんな男のことなんて、俺が忘れさせてやる」
惣に抱かれて、辛い記憶もなにもかも消してしまえたらいい。これでは本当に彼を利用しているみたいだ。
それでも、そう望んでしまうのを止められなかった。
「忘れさせて」
惣の腕の中で彼を見上げる。キスの予感に目を瞑ると、彼の息が唇に触れた。
自分とは違う彼の体温が唇を通して伝わってくる。啄むような優しい口づけの心地好さにうっとりしていると、キスの合間に彼の笑うような息遣いが聞こえた。
「どうして、笑うの?」
「いや、変わってないなと思って」
それに、あれから九年近く経ち、自分の中で惣のことが過去になっても、果穂とは距離ができてしまったままだ。一度作ってしまった壁を壊すのは簡単ではなく、なにもなかったように接するのは難しい。
『一日くらい帰ってこられないの?』
「果穂が家にいるんだから、いいじゃない」
『果穂は果穂よ』
母にきっぱりと言い切られて苦笑が漏れた。
「ごめん、予定があるから。そのうち休みに顔を出すよ」
『わかったわよ。でも、ちょっとでも時間があるならこっちに来るのよ』
「今忙しいの、悪いけどもう切るね」
志穂はおざなりに返事をして電話を切り、待ち合わせ場所のホテルへと急いだ。
惣と待ち合わせているラグジュアリーホテルは、駅の南口から直結しており、利便性のいい立地に建っている。
客室からは周囲に聳え立つ高層ビル群を一望でき、さらに世界水準のサービスを受けられるとあって、外国人観光客やビジネス客の利用も多く、結婚式場としての人気も非常に高い。
まさか高級ホテルに呼び出されるとは思ってもみなかった志穂は、自分の格好に目を走らせて、ため息を漏らす。
白のブラウスに長めのプリーツスカート。その上から、ムートンジャケットを羽織っている。仕事着としてはおかしくないが、レストランフロアでの場違い感に落ち着かない。
志穂はジャケットを脱ぎ、腕にかけると惣の到着を待った。
「待たせたな」
惣が来たのは、志穂が着いてから十分後だった。
電話のあと、すぐに向かってくれたのかもしれない。
「いえ、私こそすみません。お忙しいのに、電話を……」
「その話し方慣れないんだよな」
ため息まじりに言われて、下げかけていた頭を上げた。
「え?」
「とりあえず入るぞ」
腕を引かれて、店に足を踏み入れた。
店内は和の雰囲気が漂い、大きなガラス窓から眼下に広がる日本庭園を見下ろせる造りになっている。中央には大きな鉄板とカウンター席があり、景色を見ながらシェフが銘柄牛や海鮮を目の前で焼いてくれるようだ。
惣はカウンターではなく半個室席を選んだ。席に着き、メニューを見ることもなくスタッフを呼ぶと、おすすめコースを頼んだ。
「たしか肉は好きだったよな? 飲み物はどうする?」
「はい……えっと、ウーロン茶で」
待ち合わせ場所に飲食店前を指定された時点で予測はできていたが、まさか本格的なコース料理の店とは思ってもみなかった。
「じゃあ、ボトルシャンパンとウーロン茶。グラスは二つで」
しかも頼んだのはボトル。食事が終わるまでに二時間はかかるはずだ。自分のためにわざわざそんなに時間を取る必要はなかったのに。
「かしこまりました」
店員が一礼して背を向ける。
黙ったまま飲み物が運ばれてくるのを待っていると、惣がこちらを見て小さく笑った。
「困った顔をしてるな」
「それは……だって、取締役があんなことを言うなんて、思ってなかったので」
志穂の言葉に、向かいに座った惣が眉を上げて嘆息した。
「なぁ、それ、やめないか? 無理強いはしないが、もう少し砕けてくれ。昔は、惣って呼んでただろう?」
にっこりと微笑まれ、顔が引き攣った。
冗談を言っている様子はない。昔のよしみで無礼講でいい、という意味だろうか。
「今さら、呼べるわけないですよ」
「それは残念」
さして残念そうでもなく彼は言った。
こんな話をしに来たわけではないのだ。なぜ彼がうそをついてまで自分を庇ってくれたのかはわからないが、上司を面倒事に巻き込むわけにはいかない。
「あの、私……」
「辞めるなよ? マナビゼミナールのプロジェクトメンバーから、デザイナーの主力であるお前を外すことはできない。今後のチームについては配慮する。だから……簡単に諦めるな」
退職する、と口に出すのを遮るように惣が言った。
懐かしいセリフに驚いた。出会った頃、サークルの空気が肌に合わず辞めようとしていた志穂に、彼は今と同じように「辞めるな」と言ったのだ。
楽しいことを、俺がたくさん教えてやるから──そう言って、志穂をいろいろなところに連れ出してくれた。
(ほんと、変わってないな)
志穂がなにを言うのかわかっていたのか、そんな風に先手を打たれてしまうと「これ以上迷惑をかけたくないから辞める」とは言いにくい。
「……相変わらずですね」
昔話をするつもりはなかったのに、気づくとそう口にしていた。
学生時代となんら変わっていない。お人好しなところも、困っている人を放っておけないところも、人たらしなところも。彼は人付き合いのできない志穂に、遊ぶ楽しさを教え、恋愛の素晴らしさを教えた人だ。
「そうそう性格なんて変わらないだろ。お前だって昔と変わってない」
惣は懐かしそうに目を細めた。
「……私のこと、覚えてたんですね」
会社で初めて顔を合わせたときから今まで、過去について話題に上ったことは一度もない。だからさっき、学生時代の話を持ち出されて心底驚いた。写真までまだ持っているなんて思ってもみなかった。
「当たり前だろ。たとえ一ヶ月でも、恋人だった女の顔くらい覚えてるさ」
惣はさも当然だとばかりに頷いた。
覚えていたならどうしてなにも言わなかったのだろうと思わなくもないが、言わなかったのは志穂も同じだ。でも志穂も、惣を忘れたことはなかった。恋する気持ちが形を変えても、自分に恋愛を教えてくれた人のことを忘れはしない。
けれど、あれはもう過去だ。今から惣となにかが始まるわけもないのだから、言う必要はないと思っていた。
「そうでしたか」
「俺も、忘れられてると思ってた。お前こそ、覚えてたんだな」
忘れるわけがない、そう言おうとして志穂は口を噤んだ。
過去であっても、それを口に出すのはなんだか悔しかった。
志穂が別れのメッセージを送り連絡を絶ったあと、彼とは一度も顔を合わせていない。志穂の家を彼は知っていたし、連絡を取ろうと思えば取れたはずだ。
それでも、惣からはなんの連絡もなかった。一方的に別れを告げたのは自分だが、やはり彼にとって自分は賭けの対象でしかなかったのだと思い知らされた。
「覚えてますよ。記憶力はいい方ですから。あの、さっきはありがとうございました。ストーカーと思われるのは心外でしたから、助けてくれたことには感謝しています。でも、これ以上取締役に迷惑をかけるつもりはありません」
「迷惑だなんて思ってない。やりたくてやったことだ」
惣はあっさりとそう言った。志穂の恋人に思われるなんて、彼にとっては迷惑だろうに。
(私を庇うために、恋人だってうそをつかせるなんて。そんなことさせるくらいなら、退職した方がマシだよ)
志穂が退職すれば万事解決するのだ。
隆史のストーカーと思われたところで、社員と顔を合わせなければ痛くも痒くもない。それに、志穂がストーカーでないことを知っている隆史が、警察に行くことは絶対にない。
退職日までは針のむしろだろうし、引き継ぎで迷惑をかけてしまうかもしれないが、自分のほかにもデザイナーはいる。それに、同じプロジェクトを担当しているメンバーが三角関係になっているより、はるかにいいはずだ。
「私事に取締役を巻き込むつもりはありません。私が仕事を辞めればそれで済みます」
「さっきも言っただろ。自分が悪くないのに辞めるな。それとも、お前は本当にストーカーをしてたのか?」
「まさかっ!」
「だろうな。お前と井出は付き合ってた、でいいんだよな。まず、そこからちゃんと説明しろ」
だが、説明したら巻き込んでしまう。けれど、黙っていることもできず、志穂は渋々頷いた。
「……はい」
「お待たせいたしました」
そのとき、タイミングを計ったようにグラスを持った店員が来た。
シャンパングラスに酒を注がれるのを見ながら、どこから話そうかと頭の中を整理する。
「飲めなかったら、グラスは置いておけばいい」
「大丈夫です……飲めます。いただきます」
グラスを持ち上げて、口をつける。爽やかな香りが鼻から広がり、甘さはあるがすっきりとした口当たりで飲みやすい。銘柄はわからないが、肉料理にも合いそうだ。
ドリンクを運んだスタッフとは別のスタッフがすぐにやってきて、綺麗に盛りつけられた前菜が目の前に置かれた。志穂はナイフとフォークを手にしながら、口を開いた。
「たか……井出さんとは、二年前から付き合っていました。彼がメッセージより電話が好きだと言っていたので、証拠になるようなものはないですが……私の勘違いではありません。上園さんと井出さんが付き合っていたなんて、今日まで知りませんでした」
家に行く、という隆史からの電話を、いつも待つばかりだった。冷静に考えれば、本命とは思われていないと気づけたはずなのに。
「勘違いなんて初めから思ってねぇよ」
「私たちが付き合ってたことに、気づいてましたか?」
「あぁ、なんとなくな。だから井出から結婚の報告を受けたとき、気になった」
やはり案じてくれていたのだと知り、志穂は小さく礼を言った。
「ひどいことをするな」
隆史と奈々の結婚報告は、ただただショックだった。
しかし、彼に対する好意が失せた今は、無力感が大きい。大切にされていないと気づきながらも、楽だからと見て見ぬふりをして、隆史の本質に気づけなかった。
「二人を祝えないにしても、心変わりは仕方ないから納得しようとしたんです。でも、ストーカーなんて話を聞いたあとじゃ、一緒に仕事をすることはできません。井出さんも上園さんも、私が退職すればいいと思ってるんです。その通りにするのは癪ですが、それが一番いいと思っています」
「そうやってまた、俺のときみたいに逃げるのか?」
冷ややかな口調で言われた言葉に、志穂は胸の内を見透かされたような思いでびくりと肩を震わせた。メッセージ一つで別れを告げたときのことを揶揄されたのだと、気づかないわけがなかった。
「それ、は……」
志穂が告白をOKするか友人と賭けていたと果穂から聞いたから。そんな理由は言い訳にもならない。本当はあれから何度も後悔した。あのときどうして直接確かめなかったのかと。
それができなかったのは、惣が自分を選んでくれるとは思えなかったからだ。彼の口から、果穂との交際を聞かされたくなかった。だから、自分から別れを告げて、惣を諦めた。
あのときの自分の気持ちをわかってもらえるとは思えず、志穂は口ごもった。視線を落としてテーブルを見つめていると、向かいからため息が聞こえてくる。
「果穂からなにか言われたんだろ?」
「どうして、それを」
まさか惣が知っていたとは思わず、驚いて顔を上げた。
「俺もいろいろ吹き込まれたからな。その件で志穂と話そうと思っていた矢先に、お前から別れのメッセージが届いたんだ。そのあとはブロックされたしな」
果穂ならばそれくらいやりそうだ、と妙に納得してしまった。
九年も前のことだが、今さら自分の行動の愚かさを突きつけられた気分だった。
「果穂は……なにを?」
「身体の相性が悪いから別れたい、志穂がそう言っていたと聞かされた」
「そんなことあるわけないっ!」
志穂は頬を真っ赤に染めながら必死に首を横に振った。
たった一度だけ惣と身体を重ねた日を思い出す。志穂はあのとき初めてだったし、それで身体の相性などわかるはずもない。
(あのとき、別れ話をする前に惣に確認していれば……)
惣は自分を信じてくれていたのに、彼を信じられなかった。自分が恥ずかしくてならない。
「果穂は……あなたが私と付き合うことを、友人との賭けの対象にしていたと言いました」
惣は、志穂の言葉に呆れたように肩を竦めた。
「それこそまさかだな。あのとき俺は、間違いなくお前が好きだった。好きだと言ったのはうそじゃないし、賭けなんてするわけがない」
「そうだったんですね」
笑おうとしても、上手く笑えなかった。
今さら過去の誤解が解けたところで、時間は元には戻らない。彼の手を離してしまった自己嫌悪が残るくらいだ。
「それで、やっぱり逃げるのか?」
「……はい、辞めます」
志穂がきっぱり言うと、向かいからふたたび嘆息が聞こえる。
「お前は、そうやって自分ばかりが泥を被ろうとするのをいい加減にやめろ。俺を利用してあいつらを見返してやるくらいの気概を持て。もっと強かになれよ。見ているこっちがもどかしくなる」
惣は眉を顰め、苛立った口調で言った。
「見返す……?」
思ってもみなかったことを言われて、志穂は目を見開いた。見返すために惣を利用するなんてできるわけがない。
惣は苦笑しながら腕を伸ばし、戸惑う志穂の頭の上にぽんと手を置き、呆れた顔をした。
「辞める決意をするのは、恋人として俺を利用してからにしろ。悪いようにはしない」
「どうしてそこまで……」
昔付き合っていたとはいえ、たった一ヶ月。それにいい別れ方をしたとは言えないのに。
「お前ほど、俺は諦めがよくないもんでな」
諦め、の意味はわからないが、もしかしたら彼は、上司として気にかけてくれているのかもしれない。
「ご厚意はありがたいですし、心配してくださるのも、嬉しいです。でも、恋人のふりをしても取締役にはなんのメリットもありません。それに、あなたの恋人に迷惑がかかります」
「俺に恋人はいない。志穂の恋人になるのになんの障害もないぞ。喜んで利用されてやるよ」
彼の言葉に益々戸惑ってしまう。
惣がどうして自分にここまでしてくれるのかはわからないが、守ろうとしてくれているのだけは伝わってきた。
(そういえば……昔から、困ってる人を放っておけない人だったもんね)
『周りにいいように使われてるなよ』
かつて、サークルの集まりのバーベキューで、一人ぽつんと料理の下拵えをしていた志穂を見かねたのか、惣がそう言って声をかけてきた。
『辞めるなよ。また来い。楽しいことを、俺がたくさん教えてやるから』
まったくもって上からなセリフだったが、不思議と苛立ちはしなかった。社交辞令だと思ったのに、その後も、度々彼に話しかけられるようになるとは夢にも思わなかった。
(昔も今も……変わらないな)
辞めるな、喜んで利用されてやる、なんて、本心なはずがないのに。昔みたいに流されるまま彼の優しさに甘えてしまいたくなる。
「ストーカーなんて話がなくなれば、お前も仕事がやりやすくなるだろう。俺は優秀な社員を失わずに済む。いいことずくめだ」
その言葉で、ようやく腑に落ちる。やはり彼は上司としてチームの心配をしているだけなのだ。このまま志穂が退職すれば、プロジェクトの進行にも影響があるかもしれない。
「そのために、私の恋人になると?」
いくら困っている人を放っておけないとしても、自己犠牲がすぎる。彼がそこまでするメリットなんてなにもない。
「あぁ。過去の誤解は解けたし、俺は今フリーだし、お前は女として魅力的だからな。なんの問題もない」
惣は色気を含んだ目をして志穂を見つめた。
「女としてって……」
暗に身体の関係を求められているのがわかり、志穂は思わず口に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。
元恋人ならば一線を超えるのはたやすい。彼はきっと、噂が落ち着くまで、身体の関係を含めた大人の付き合いをしようと言っているのだ。恋人というより、セフレのようなものかもしれない。
「本気ですか?」
「本気に決まってる。それとも、俺と付き合うのはいやか?」
「……そういうわけじゃ」
「じゃあ、いいな」
惣は断られるとは思ってもいないのか、自信ありげに言う。
彼の提案は、状況を打開するにはベストに思えた。冷静に考えれば、志穂にとってメリットしかない。仕事を辞めずに済み、ストーカー疑惑も解消される。
「惣は、それでいいの?」
気づくと、口調が昔に戻っていた。出会った頃を思い出したからだろうか。
久しぶりに惣と呼んだのに、まるで空白の期間などないように感じた。彼の口調や態度が付き合っていた頃を彷彿とさせるからかもしれない。
「いいよ。あいつらに見せつけてやればいい」
惣は、口の端を得意げに上げて笑った。
いつだって前向きで自信家で、志穂はそういう彼が好きだった。自分にないものを持っている惣が眩しく映った。あんなことがあっても、自分の中で彼の存在は特別なのだと改めて思う。
「……まぁそのうち、あの男なんて目に入らなくさせる予定だしな」
「え?」
意味がわからず聞き返すと、なんでもないと首を振られた。
「で、どうする?」
たとえ身体だけの恋人関係を求められているにしても、彼は自分を救ってくれた。隆史の裏切りはどうしたって許せない。惣が諦めるなと言ってくれるのなら、その手を取ろう。
「わかった……よろしくお願いします」
「よろしくな」
差し出された彼の手を握った。
メインの料理もデザートも食べ終えると、あっという間に二時間が経っていた。そういえば、昔もそうだったなと頬が緩む。
(惣と会ってると、いつも時間が経つのが早かった。共通の話題なんて全然ないのに、いろいろ話してたらあっという間で、びっくりしたんだよね)
いつの間にかグラスを空けていて、アルコールで気分がふわふわする。
会計の伝票がテーブルに置かれ、ちらりと見えた支払額に仰天する。さすがに五万円を超えるとは思っておらず、持ち合わせがなかった。
「あの、カードで払ってもいい?」
「お前に払わせるわけないだろ。この店を指定したのは俺なんだから」
大学時代の食事代は割り勘だった。彼は上司で役員で、給料だって当然志穂とは雲泥の差があるだろう。けれど、たった三歳しか離れていないのに、追いつけない距離を感じると悔しくもあった。
「そんなに払いたきゃ、出世しろ」
こつんと軽く頭を叩かれて、彼はさっさと支払いを済ませてしまう。複雑な胸の内を見透かされて頬に朱が走った。
(なんで惣にはわかっちゃうの……)
感情が表情に出にくい志穂の気持ちを、彼はいとも簡単に当ててしまう。志穂はわかりやすいと言って。
「ごちそうさまでした。いろいろとありがとう。それで、私はどうすればいい?」
志穂は肩にかけたショルダーバッグの紐をぎゅっと掴み、決戦に立ち向かうような心地で口に出す。彼に返せるものなどなにもないかもしれないが、なるべく惣の希望に添えるように振る舞うべきだろう。
「そうだな。一つだけ」
「うん、なに?」
エレベーターホールに向かう途中で足を止めた彼が、志穂を振り返る。
ふいに惣の顔が近づいてくる。避けようもないくらいに自然な動作で、久しぶりに嗅ぐ惣の匂いが鼻を掠めた。
「せっかく恋人になったんだし。まずは今夜、身体の相性を確かめようか」
耳の近くで声を潜めて言われ、かっと頬に熱が走る。冗談を言わないで、と返そうとするが、すぐ近くにある彼の顔が思いのほか真剣で、志穂はこくりと唾を飲んだ。
「あい、しょうって……」
「わかるだろう? 学生のときとは違うんだし、大人の付き合いをしよう、志穂。それに……俺も昔ほど悠長には待ってやれない」
まさかそんなにすぐ身体の関係を求められるとは思っていなかった。だが迷ったのは一瞬で、仕事のためとはいえ、自分を助けてくれた彼の求めに応じることに抵抗はない。
「惣は……したいの?」
多少の照れくささから目を合わせないまま聞き返すと、はっきりとした口調で返される。
「したい」
(大人の付き合いか……そういう割り切った関係の方が、私には合ってるかもね……)
たしかに学生のときとは違うなと、志穂は胸の内で苦笑する。あの頃は、惣と手を繋ぐだけで緊張していたのに、そういったことにも慣れたのだなと感慨深く思う。
志穂が黙っていると、なぜか昔から志穂の感情を言い当てるのが得意な男は、その気持ちを見透かしたように腰に腕を回す。
「俺は志穂を抱きたい。志穂は?」
強引に顎を持ち上げられ目と目が合う。しっかりと顎を掴まれていて、目を逸らすことは敵わない。頬を撫でられると、身体の奥が甘く痺れるような感覚が走った。
惣と一緒に仕事をしていても、過去を思い出さずにいられたのは、彼に女性に対する欲をまったく感じなかったからだ。
けれど今は違う。志穂を見る彼の目はたしかな劣情を孕んでおり、頬を撫でる手はまるで女性の身体を開いているときのように淫らだ。
「俺に抱かれたいって言って」
率直すぎる物言いに、ますます身体の芯が火照っていく。惣に求められていることが嬉しかった。恋人の裏切りにより乾ききった心に彼の言葉が沁みわたる。惣の言葉に焚き付けられたかのように、志穂はすでに彼に抱かれることを期待してしまっている。
一度身体の関係を持った男女が一線を超えるのは、これほどにたやすいものなのか。志穂は縋りつくように腕を伸ばしてしまう。
「……抱かれたい」
「じゃあ行こう」
惣はフロントを通り越して、志穂の腕を引きエレベーターホールへ向かった。上へ向かうボタンを押すのを見て、準備がよすぎやしないかと惣を睨むと、苦笑が返された。
「来るときに部屋を取ってきた」
「女性を誘うとき、いつもそうしてるの?」
昔から感じていたが、大人になりさらに女性の扱いがスマートになっているようだ。過去の恋心のせいか、なんとなくそれがおもしろくなくて、気づくと責めるような口調になっていた。
「嫉妬してくれてるのか?」
「ちが……っ」
到着したエレベーターに乗り込むと、ぐっと腰を引き寄せられて、彼の胸に頭が埋まる。
「してくれないのか、残念」
エレベーターを降りて廊下を歩く間も、腰に回された腕は離れていかなかった。カードキーでドアの鍵が開けられ、室内へ促される。
リビングとベッドルームが分かれているのか、都会の街並みが一面に広がる大きな窓とソファー、ダイニングテーブルが目に入る。彼に手を引かれてソファーに腰かけると、膝を突き合わせるように彼も座った。両手が彼の手に包まれる。
「……俺は、志穂と再会したあと、散々嫉妬させられたのにな」
惣はなにかを思い出すように目を細めて、ため息まじりに言った。
「嫉妬って、誰に?」
「井出に決まってるだろ」
隆史に嫉妬する理由などないのに、どうしてだろう。
「ずっと、お前を抱きたくて、たまらなかったよ」
後頭部を引き寄せられると、胸がぎゅっと苦しくなる。
「あんな男のことなんて、俺が忘れさせてやる」
惣に抱かれて、辛い記憶もなにもかも消してしまえたらいい。これでは本当に彼を利用しているみたいだ。
それでも、そう望んでしまうのを止められなかった。
「忘れさせて」
惣の腕の中で彼を見上げる。キスの予感に目を瞑ると、彼の息が唇に触れた。
自分とは違う彼の体温が唇を通して伝わってくる。啄むような優しい口づけの心地好さにうっとりしていると、キスの合間に彼の笑うような息遣いが聞こえた。
「どうして、笑うの?」
「いや、変わってないなと思って」
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