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1巻
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プロローグ
時刻は十六時ちょうど。アルバイトの時間まで、あと一時間だ。
小島志穂は、棚に置いた時計で時間を確認しながら、図書館から借りた本を小さなテーブルの横に積み上げ、夏休み明けに提出するレポートを仕上げていた。
けれど集中力はもたず、ついスマートフォンに触れてしまう。
アプリを開き、彼からのメッセージを何度も見つめる。
『今日は楽しかった。また出かけよう』
『身体、辛くなかったか? 今度泊まるときはちゃんと前もって言うから』
『今日はバイトだよな? 俺はサークルに顔を出してくる。明日は俺がバイトだから、会えないな』
数日前から今朝早くまでの間に届いたメッセージを読み返して、志穂は幸せなため息をついた。
先日、恋人である惣と初めてホテルに泊まったときのことを思い出すと、一足早く誕生日プレゼントをもらったような気分になる。
付き合ったばかりの恋人は、明日が志穂の誕生日とは知らないが。
(明日ちょっとでも会えたら嬉しかったけど、バイトなら無理かな。それに、付き合ってまだ一ヶ月しか経ってないのに、誕生日に会いたいなんてプレゼントをねだってるみたいだしね)
宮川惣──彼は同じ学部の三つ上の先輩だ。彼との出会いは、惣の友人が作ったというインカレサークル。
彼は、友人や後輩、男女にかかわらずみんなから頼りにされ、常に輪の中心にいるような人で、外見も立ち居振る舞いも目を引く男だった。
一人でいる方が好きで、友人も少ない自分とは正反対である。
(惣が、私を好きとか……いまだに信じられないんだけどね)
圧倒的な存在感と爽やかな外見も相まって、彼は非常にモテる。そんな惣から「好きだ」と告白されて付き合い始めた。
最初は、もしかして騙されて、遊ばれているのでは、という懸念を持っていたけれど、そんな予想に反して交際はとても順調だった。惣と交際して初めて、志穂は誰かと楽しみを分かち合うのも悪くないと思えるようになったのだ。
そのとき、スマートフォンがアラーム音を鳴らす。
あと十分でアルバイトに出なければならない時間だった。
志穂は出かける前に、姿見で全身をチェックする。見慣れた地味顔にため息が漏れる。
(二卵性の双子でも、姉妹なら果穂ともう少し似ていてもいいじゃない)
双子ではあるが、自分たちは中身も外見もまったく似ていない。華やかで目鼻立ちの整った果穂と違い、童顔でのっぺりとした顔の自分。
真っ直ぐで艶のある果穂の髪と違い、父に似て癖が強くセットしなければ広がる志穂の髪。溌剌としていて甘え上手な果穂と、口下手で人に頼ることが苦手な自分。
比べるのもいやになるくらい、なにもかもが真逆である。
果穂が年の離れた妹だったら比べられなくて済んだかもしれないのに、と肩を落とす。
「やば。もう行かなきゃ」
鏡に映る時計を見て、志穂は肩の下まで伸びた髪を手櫛で整えてヘアゴムで結んだ。手に持ったバッグにスマートフォンをしまい、玄関に向かおうとしたところでインターフォンが鳴り響く。
(あれ、お母さんからの宅配便かな? なにか届くとか言ってたっけ)
志穂の住む部屋は、インターフォンにカメラがついていない。とりあえず応答するしかなく、ボタンを押すと、聞き慣れた身内の声がスピーカー越しに響いた。
『私、ちょっといいかな?』
いいかな、と問いながらも、志穂が断るとは思っていない傲慢な態度に、いつものことながらため息が漏れる。志穂はもう一度時計を見て、バッグを手にしたまま玄関に向かった。
「ちょっと待って」
果穂が志穂の部屋に来るなど珍しいこともあるものだ。
彼女の住む大学の寮と志穂のアパートは同じ市内にあるものの、電車とバスの乗り継ぎが面倒で、行き来するには時間がかかる。
(用があるならサークルで会えるのに)
「出かけるところなの? その格好で?」
玄関のドアを開けた志穂の全身を、果穂は上から下までチェックして、あり得ないという顔をする。そしてサンダルをぽいぽいと脱ぎ捨てて、勝手に部屋に入ってきた。
「うん。これからバイトだから、今から行かなきゃいけないの」
「大事な話があるから来たんだよ? 休めないの?」
果穂は、志穂が自分に従って当然とばかりに口にする。艶やかな唇に爪の先まで綺麗に整えた指を押し当てながら、首を傾げた。
休めないの、と質問している風ではあるが、実質命令に近く、話が終わるまで果穂は帰らない。こうなったら遅刻を覚悟して果穂の話を聞かなければならないのだ。
「急に休んだら迷惑がかかるから」
「もう、せっかく志穂のために話をしに来たのに。なるべく早く話さなきゃって思って、宮川先輩と会って、そのまま来てあげたんだから」
果穂は頬を膨らませ、わざとらしくため息をついた。
(惣と……会って? サークルのことで用事でもあったのかな?)
果穂は惣と志穂とは別の大学だが、あとから同じサークルに入ってきた。
「話って?」
「志穂が恋人だと思ってる、宮川先輩のこと」
恋人だと思ってる、とはどういう意味だろう。本当は違うとでも言いたいのか。思わず眉を寄せた志穂を見て、果穂は楽しそうに口元を緩めた。
「惣が、なに?」
含みのある果穂の言葉に苛立ち、志穂は先を促す。
「あのね……宮川先輩とは、別れた方がいいと思う」
果穂がなにを言っているのかがわからず、志穂は言葉を失う。果穂はそんな志穂を窺うように見つめて、申し訳なさそうに視線を落とした。
「言いにくいんだけど……宮川先輩が志穂に告白したのはね、志穂が交際をOKするか友達と賭けてたんだって聞いちゃったの。ほら、志穂って冷めてるじゃない? それで、先輩の友達が志穂を落とせたらおもしろいって悪ふざけしちゃって、その人を止めるために仕方なくだったんだって。先輩も、まさか志穂がOKするとは思ってなくて、すぐに冗談だって言おうとしたけど、タイミングをなくしちゃったみたい。別れたいけど、騙した手前、志穂が可哀想で別れられないって、宮川先輩が困ってるの」
惣が賭けで自分に告白したなんて、別れたいと思っているなんて、信じられなかった。だって惣からは今朝、会えなくて残念だというメッセージが届いたばかりだ。
「……それで?」
「それで、じゃないよ! だから志穂は冷めてるって言われるんだよ。そういうところ直した方がいいと思う!」
「話の論点がずれてる。結局、なにが言いたいの?」
「普通わかるでしょ、もう! 志穂は私の気持ち知ってるでしょ? 私もずっと、先輩が好きだったって」
果穂がサークルに入ってきたのは、志穂と惣の距離が友人以上になり始めた頃だった。
惣が果穂と付き合ってしまうのではないかと、サークルの集まりのたびにハラハラしたものだ。
だが惣は、果穂にどれだけ言い寄られても、デートに誘われても、決して頷かなかった。それどころか、ずっと好きだったと志穂に告白してくれた。彼のその行動が、果穂の存在を不安に思う自分を安心させるためだとわかって、嬉しかったのを覚えている。
だが果穂は、二人が交際し始めたのを知りながら、さも惣の隣は自分の場所とばかりに彼に纏わり付いていた。
「うん、知ってる……でも」
「あのね!」
果穂は志穂の言葉を遮るように言葉を続けた。
「今日……先輩に二人で会いたいって言ったら、会ってくれて……それで、告白されたの。宮川先輩、本当はずっと、私のことが好きだったって。志穂に申し訳ない気持ちはもちろんあるけど、ほら、お互いに気持ちがないのに付き合ってたって、どっちも不幸になるだけだし。それなら、早く別れてもらった方がいいかなって、私が志穂に伝えに来たんだ」
「そんなの、信じられないよ」
「でも本当だもん。志穂と顔を合わせたら可哀想になっちゃって言えないから、宮川先輩は私に相談したんだよ。ほら、見て」
果穂がテーブルの上にスマートフォンを置き、メッセージを見せてくる。
『会いたいです。私の気持ち、気づいてますよね?』
そんなメッセージから始まった惣と果穂のやりとり。驚くべきことに、その内容は果穂の言葉を裏付けるものだった。志穂は信じがたい気持ちで、何度も二人の会話を読み返す。
『二人で会ってくれませんか?』
『わかった。ちょうどよかった、俺も話があるんだ』
『デートですね、楽しみ』
『あとでな』
メッセージの時刻は数時間前。惣は、二人で待ち合わせ場所を決めて、デートだと喜ぶ果穂のメッセージに対して『あとで』と応えていた。
(本当に……二人きりで会ったんだ……)
二人で会ったのも、彼が賭けで志穂と交際した話も、果穂の作り話だと思っていた。
けれど、果穂が言うように、彼は本当に仕方なく志穂と付き合っていたのだろうか。優しくしてくれたのも、騙している罪悪感からだった?
「明日、私たちの誕生日でしょ。宮川先輩、お祝いをしたいって言ってくれたの。私も、明日は先輩と二人で過ごしたい。だから志穂、先輩と別れてほしいの」
果穂は両手の指を合わせて、上目遣いに此方を見つめた。
(惣……私が誕生日だって知ってたんだ。明日はバイトがあるって、会えないって言ったのは……果穂と約束してるから。そっか……果穂と二人で、過ごすんだ)
そして、私と別れたら、果穂に好きだと言うのだ。自分にしたように果穂にも触れるのだろうか。
想像すると、胸がぎりぎりと締めつけられるように痛む。嫉妬と羨望と遣る瀬なさで、頭の中が真っ黒に染まりそうだった。
もしも志穂が誕生日に一緒に過ごしたいと言っていたら、どうなっていただろう。志穂を騙した罪悪感から一緒にいてくれただろうか。
「ねぇ、聞いてるの?」
「……聞いてる。話がそれだけなら、そろそろバイトだからいい?」
志穂はどうにか平静を取り繕い、言葉を返した。
果穂に退出を促すと、思っていた反応とは違ったのか、拗ねたような顔で詰られる。
「別れてくれないの? 私のことはいいよ。でも、宮川先輩、辛そうだったよ。志穂を騙して、申し訳ないって。ねぇ、宮川先輩が可哀想だよ……もう解放してあげなよ」
騙されていた志穂は可哀想ではないのだろうか。
今、口を開けば、果穂になにを言うかわからない。嫉妬を剥き出しにして怒鳴ってしまうかもしれないし、惣を奪わないでと泣き叫んでしまうかもしれない。
だから志穂は黙ったまま玄関で靴を履いた。その後ろから果穂がついてくる。
「志穂ってば」
「……別れるよ」
嘆息しながら答えると、背後で果穂が安心したように笑った気配がした。
「そっか。宮川先輩からは言い出せないと思うから、志穂から別れるってメッセージを送ってあげて。私ね……先輩が好きだけど、志穂を騙したのはちょっと怒ってるんだ。ああいう誰にでも優しい人には気をつけた方がいいよ。志穂、すぐ勘違いして騙されそうだから。あ、そうだ。志穂がサークルを辞めることもちゃんと伝えておいてあげるから、心配しないで」
「うん」
志穂は疲れ切った心地でため息を押し殺し、頷いた。なにもかもがどうでもよくて、果穂の顔を見ていたくなかった。早く一人になりたかったのだ。
「じゃあ、よろしくね」
果穂はその言葉に満足した様子で、志穂より先にアパートを出て、笑顔でバイバイと手を振った。
志穂もアパートを出て、自転車でアルバイト先に向かう。ひどいことをたくさん言われたはずなのに、麻痺してしまったように心は凪いでいた。
(もう、終わっちゃうんだ)
この先、二人で手を繋ぐことも、キスをすることも、抱き締められることもない。
たった一ヶ月で終わってしまうのなら、せめて誕生日だけは一緒に過ごしたかった。
(やっぱり……あんな人が、私を好きだなんて、あるわけなかったのかな)
ぎゅっと唇を噛みしめると、痛みで目の前がぼやけていく。
裏切られていたと聞いても、彼を好きな気持ちはちっともなくならない。いっそ嫌いになれたら、こんなに苦しまずに済んだだろうか。
(果穂……惣と、付き合うんだよね)
サークルを辞めたとしても、果穂ならば自慢げに写真を送ってくるくらいはするだろう。もしかしたら実家に連れてくることもあるかもしれない。
(そんなの見たくない……付き合った二人となんて、絶対に会いたくない)
こんなことになると知っていれば、彼を好きになどならなかった。彼と身体を重ねなかった。たった一ヶ月の交際期間でも、志穂にとってはなにもかもが初めてだったのだ。
別れを考えると胸が苦しくて、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
道行く人が、しゃくり上げる志穂を胡乱な目で見てきた。
「う……ぅ……っ」
息を吐くごとに涙が込み上げてくる。
どろどろとした感情が溢れ出しそうだ。果穂に対する嫌悪感が抑えきれない。顔も見たくないし、話もしたくない。彼らが並んでいる姿を想像するだけで、苦しくて耐えきれない。果穂さえいなければ――そんな風に思ってしまう。
果穂を恨んでしまいそうな自分が怖かった。
志穂はその日の夜、惣に最後のメッセージを送り、連絡を絶った。少しの期待もしないように、連絡先をブロックする。
そしてすぐに、果穂へ「惣と別れた」とメッセージを入れた。
果穂からの返信を見たくなくて、果穂の連絡先もブロックした。
そうして志穂の初恋は、たった一ヶ月で終わったのだ。
第一章
クリスマス間近の十二月某日。
志穂が働くアイディールシステム株式会社の開発事業本部内でも、クリスマスの過ごし方が話題に上がっていた。
今年はクリスマスイブが土曜日のため、家族や恋人がいる人たちは特に浮き立っている。志穂は会議室のテーブルに広げた弁当をちまちまと食べながら同僚たちの話を聞いていた。
「実はね、彼がクリスマスイブに高級フレンチを予約してくれたんです」
隣に座った開発事業本部の後輩、上園奈々は、スマートフォンにフレンチレストランのホームページを表示させて、大きな目を輝かせながらコロコロと笑った。奈々の目の前に置かれた手作り弁当は彩り豊かで、茶色いおかずを詰め合わせた志穂の弁当と違って見栄えがいい。
「小島さんは、彼氏いなかったんでしたっけ?」
「うん」
「ですよね~」
アイディールシステムは、ソフトウェアやアプリの開発を手がけており、品川区に本社を持つ大企業だ。委託を含めた在籍エンジニアは千人以上、リモートでの勤務も多い。志穂は開発事業本部のUIデザイナーとして勤務している。奈々は志穂の二歳下で今年二十五歳だ。
奈々は仕事の面ではやや頼りないところがあるものの、華やかな見た目に庇護欲を刺激されるおっとりとした話し方をする女性で、年嵩の上司や男性社員に人気が高かった。
「へぇ~ここって超人気フレンチじゃないっすか! 彼氏、めっちゃ甲斐性のある男っすね。ね、志穂さんもそう思いません?」
向かい側に座る松浦晃は、奈々のスマートフォンを覗き込みながら志穂にも話題を向けてくる。
奈々の恋人の話を聞くようになって半年ほど経つだろうか。
たしか、誕生日やハロウィンにも高級レストランに行ったと言っていた。顔が可愛いだけではなく甘え上手な彼女のために、恋人が超人気レストランを予約するのもわかる。
果穂と性格のよく似た奈々と話していると、古傷をちくちくと抉られて卑屈な自分が顔を出しそうになるが、学生の頃とは違い、それを上手く隠す術も身につけた。
もともと感情を表に出すのは苦手だし、培ってきた仕事の経験による自信が卑屈さを上手く隠してくれている。相変わらず他人と必要以上に仲を深めるのも得意ではないものの、大人になるとその方が楽に生きられるのだと知った。
実家から足が遠のいている志穂は、あれ以来、果穂とほとんど顔を合わせていない。メッセージアプリをブロックしたことで果穂も察したのか、向こうからの連絡も途絶えている。
過去の件をいまだに引きずっているわけではないが、一度空いてしまった距離を縮めるのは簡単ではないし、志穂としても今さらだった。
「うん、羨ましい。上園さん可愛いから、恋人の気持ちもわかるよ」
「そうなんですよ~。彼、私にベタ惚れで」
羨望の目を向けて言うと、奈々は満足そうに唇の端を上げた。
奈々の持ち上げられて満足する性格も果穂を彷彿とさせるのだが、素直に感情が顔に出るところは羨ましいし、可愛いと思う。
「羨ましいなら、俺が志穂さんを連れていってあげますって」
「私より自分の恋人を連れていってあげたら?」
松浦から初めて「志穂さん」と呼ばれたときは驚いたが、彼は誰に対しても人懐っこく距離感が近い性格なのだろう。奈々と同じで二歳しか違わないのに、この二人と話していると自分が老成しているように感じる。最近の若い子は……なんて年ではないのに。
松浦の言葉を適当に受け流しながら、志穂も恋人との予定に思いを馳せた。
(今年のクリスマスは土日だから、隆史さんから連絡があるかな。まぁ、なかったらないでいいか……)
恋人の隆史はあまりマメな性格をしておらず、気分屋でもある。プライベートの予定を前もって立てるのが苦手なのか、前日や当日に誘われることが多い。予定を立てると、当日になって出かけるのが面倒になってしまうらしく、デートは志穂の家ばかりだ。
去年は、十二月二十四日が金曜日の平日で、二十五日は隆史の予定が空いておらず、家には来なかった。今年はどうだろう。
誰かと過ごすイベント事がいやなわけではないが、一人の方が慣れているし気が楽だ。クリスマスはいつもよりもちょっと贅沢に過ごしている。去年はコスメティックブランドから出ているアドベントカレンダーを毎日開けつつ、当日はチキンを焼いてケーキを一人で食べた。
去年は自分用にバスソルトと高級枕を買ったから、今年はジグソーパズルを買って年末年始に完成させようと思っている。
(もし隆史さんから連絡が来ても、たぶん家でだらだらするだけだし。家だと楽でいいよね。人混みとか無理だし)
志穂が同じ部署のプロジェクトリーダーである井出隆史と付き合ったのは、彼が開発事業本部に異動してきた二年前だ。会ってすぐに、自分に交際を申し込む変わった男性だと思ったのが最初の印象。
しかし、仕事が忙しいときは一週間、二週間プライベートで会わないことも多く、電話やメッセージもごくわずか。外に出るのも煩わしいという性格の隆史とは、そういうところが妙に合った。
惣のときの気持ちとは違うけれど、もしかしたらこの人となら上手くやっていけるかもしれない、という希望が持てた。だから告白を受け入れた。
実際、隆史との交際は楽だった。家に泊まることもほとんどなく、食事をしてセックスをしたら帰る。頻繁な連絡もない。一人の時間を大切にする志穂にとって、これ以上ない相手だ。
(美味しいご飯は食べたいから、ちょっと豪華なケータリングでも頼もうかな。二人分頼んで、隆史さんが来なかったら、土日で食べればいいし)
結婚の話も出ていたが、仕事での関わりも密にあるため、まだ社内で交際は公にしていない。
「あ、そうそう……小島さん。実はあとで重大発表があるので、楽しみにしていてくださいね」
奈々は、空の弁当箱を可愛らしいキャラが描かれた保冷袋に入れると、松浦に聞こえないように声を潜めて顔を近づけてきた。
「重大発表?」
志穂が聞き返すと、奈々は可愛らしく人差し指を口の前に立てて「今は言えません」と言った。そのとき、彼女の香水の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
爽やかなユニセックスな香りは、どことなく奈々のイメージとは違う。
(この匂い……どこかで嗅いだことあるような?)
志穂の周りで好んで香水を付けるのは隆史くらいだ。そういえば彼は最近、香水を変えたと言っていた。同じ香りに思えるが、そこまで自信はない。
(隆史さんもブランド物が好きだし、もしかしたら有名な香水なのかも)
志穂は、ブランド物にあまり興味がない。ブランド物じゃなくても、シンプルで質のいい物が好きだ。アクセサリーもほとんどつけない。
嫌いではないのだが、装飾品で着飾っていた果穂を思い出すと、どうせ自分には似合わないと手に取るのをためらってしまう。
化粧もおとなしめで、やや太めに書いた眉に、ほんのりとピンクになる程度のアイシャドウを目元に載せている。目が大きいため、マスカラもアイライナーも引いていない。
仕事中は、緩くパーマをかけた髪を高いところで一つにまとめている。どう頑張ってもさらさらストレートにならないならと、憧れを捨て楽な髪型にした。手は抜いていないのに地味に見えてしまうのは、もともとの顔立ちのせいだけでなく性格もあるのだろう。
そういえば果穂には、地味だの、幸薄そうに見えるだのと散々言われたなと思い出すが、果穂と自分は違うと開き直れるくらいには、妹とのことは自分の中で過去になっていた。
(それに、うちの部署って目立つ人が多いから、気にしてたらキリがないし)
隆史然り、奈々然り。そして目立つ筆頭といえば、アイディールシステムに取締役としてヘッドハンティングされてきた、開発事業本部長でもある宮川惣だ。
(まさか、会社で惣と再会するなんて思わなかった)
凜々しく男らしい顔立ちに圧倒的な存在感。くせのないストレートの黒髪は左右に分けられているが、昔は真っ直ぐに前髪を下ろしていた。
ヒールを履いた志穂よりも頭一つ分は高い身長に、整った顔、体躯の良さも相まって、恋人の座に収まろうとする女性は相変わらずあとを絶たない。
ただ、女性と親しくしている様子もなく、アイディールシステムに来て約九ヶ月、誰一人として恋人の座を射止めた女性はいないため、その誠実さから人気は高まる一方だ。
穏やかな話し方で冗談を交えつつ部下に接しているわりには、プライベートにはいっさい隙がないという話もよく聞く。
彼が三十歳にして取締役に就いている実力は伊達ではない。頼りがいがあり、誰にでも分け隔てなく接するところも、その優秀さも大学時代となんら変わっていなかった。
話しかけられると、うっかり昔を思い出してときめきそうになるが、それだけだ。
(惣は……覚えてすらいなかったんだから)
大学時代に交際していた惣と再会したのは、彼がアイディールシステムにヘッドハンティングされた今年の四月のこと。
社長の紹介で壇上に立った惣を見たときは驚いたものだ。
なんの因果か惣は開発事業本部に配属され、挨拶の際に目が合ったが、彼は志穂に気づきもしなかった。
志穂は弁当箱を片付けながら、隆史には言えない初恋の日々を思い出し、目を細くする。
大学時代に志穂が所属していたインカレサークルは、本好きな人との交流を目的としたかなり緩いサークルだった。
志穂は、そもそもサークルに入るつもりはなかった。人付き合いが苦手で小中高で友人と呼べる相手はほとんどおらず、話し相手といえば双子の妹である果穂くらいだった。
それなのに、たまたま教養ゼミで隣に座った別学部の女子生徒に強引に誘われ、気がついたら入部することになっていたのだ。
そして、新歓バーベキューなどという、志穂にとっては苦痛でしかない陽キャの集まりに参加させられ、さっさと退部届を出そうと心に決めたとき、惣に出会った。
スマートに誰に対しても分け隔てなく接する彼は、サークル内で存在感の薄い志穂に対しても優しかった。彼は、サークルを辞めようとしていた志穂を引き留め、一人にならないように常にそばにいてくれた。
そんな昔の初恋を思い出すと、別れを告げたときの記憶が蘇る。けれど、あの頃に感じた苦しいほどの胸の痛みはもうない。ただただ、優しく幸せな思い出が記憶に刻まれているだけだ。
過去の思い出に耽りながら席に戻る頃には、奈々が口にした重大発表のことなどすっかり志穂の頭から抜けてしまっていたのだった。
終業時刻間際、突然、惣が立ち上がりぱんと手を叩いた。
「全員、ちょっと聞いてくれるか」
開発事業本部のフロアにいる社員が手を止めて、前にいる惣に視線を送る。すると、隣の席に座る奈々が「重大発表ですよ」と声を潜めて言った。
(そういえば重大発表があるって言ってたっけ? なんだろう?)
奈々は、なぜか志穂に向かって勝ち誇ったように口角を上げた。彼女の表情の意味がわからず首を傾げながらも、志穂はほかの同僚に倣い、身体ごと前へ向けた。
時刻は十六時ちょうど。アルバイトの時間まで、あと一時間だ。
小島志穂は、棚に置いた時計で時間を確認しながら、図書館から借りた本を小さなテーブルの横に積み上げ、夏休み明けに提出するレポートを仕上げていた。
けれど集中力はもたず、ついスマートフォンに触れてしまう。
アプリを開き、彼からのメッセージを何度も見つめる。
『今日は楽しかった。また出かけよう』
『身体、辛くなかったか? 今度泊まるときはちゃんと前もって言うから』
『今日はバイトだよな? 俺はサークルに顔を出してくる。明日は俺がバイトだから、会えないな』
数日前から今朝早くまでの間に届いたメッセージを読み返して、志穂は幸せなため息をついた。
先日、恋人である惣と初めてホテルに泊まったときのことを思い出すと、一足早く誕生日プレゼントをもらったような気分になる。
付き合ったばかりの恋人は、明日が志穂の誕生日とは知らないが。
(明日ちょっとでも会えたら嬉しかったけど、バイトなら無理かな。それに、付き合ってまだ一ヶ月しか経ってないのに、誕生日に会いたいなんてプレゼントをねだってるみたいだしね)
宮川惣──彼は同じ学部の三つ上の先輩だ。彼との出会いは、惣の友人が作ったというインカレサークル。
彼は、友人や後輩、男女にかかわらずみんなから頼りにされ、常に輪の中心にいるような人で、外見も立ち居振る舞いも目を引く男だった。
一人でいる方が好きで、友人も少ない自分とは正反対である。
(惣が、私を好きとか……いまだに信じられないんだけどね)
圧倒的な存在感と爽やかな外見も相まって、彼は非常にモテる。そんな惣から「好きだ」と告白されて付き合い始めた。
最初は、もしかして騙されて、遊ばれているのでは、という懸念を持っていたけれど、そんな予想に反して交際はとても順調だった。惣と交際して初めて、志穂は誰かと楽しみを分かち合うのも悪くないと思えるようになったのだ。
そのとき、スマートフォンがアラーム音を鳴らす。
あと十分でアルバイトに出なければならない時間だった。
志穂は出かける前に、姿見で全身をチェックする。見慣れた地味顔にため息が漏れる。
(二卵性の双子でも、姉妹なら果穂ともう少し似ていてもいいじゃない)
双子ではあるが、自分たちは中身も外見もまったく似ていない。華やかで目鼻立ちの整った果穂と違い、童顔でのっぺりとした顔の自分。
真っ直ぐで艶のある果穂の髪と違い、父に似て癖が強くセットしなければ広がる志穂の髪。溌剌としていて甘え上手な果穂と、口下手で人に頼ることが苦手な自分。
比べるのもいやになるくらい、なにもかもが真逆である。
果穂が年の離れた妹だったら比べられなくて済んだかもしれないのに、と肩を落とす。
「やば。もう行かなきゃ」
鏡に映る時計を見て、志穂は肩の下まで伸びた髪を手櫛で整えてヘアゴムで結んだ。手に持ったバッグにスマートフォンをしまい、玄関に向かおうとしたところでインターフォンが鳴り響く。
(あれ、お母さんからの宅配便かな? なにか届くとか言ってたっけ)
志穂の住む部屋は、インターフォンにカメラがついていない。とりあえず応答するしかなく、ボタンを押すと、聞き慣れた身内の声がスピーカー越しに響いた。
『私、ちょっといいかな?』
いいかな、と問いながらも、志穂が断るとは思っていない傲慢な態度に、いつものことながらため息が漏れる。志穂はもう一度時計を見て、バッグを手にしたまま玄関に向かった。
「ちょっと待って」
果穂が志穂の部屋に来るなど珍しいこともあるものだ。
彼女の住む大学の寮と志穂のアパートは同じ市内にあるものの、電車とバスの乗り継ぎが面倒で、行き来するには時間がかかる。
(用があるならサークルで会えるのに)
「出かけるところなの? その格好で?」
玄関のドアを開けた志穂の全身を、果穂は上から下までチェックして、あり得ないという顔をする。そしてサンダルをぽいぽいと脱ぎ捨てて、勝手に部屋に入ってきた。
「うん。これからバイトだから、今から行かなきゃいけないの」
「大事な話があるから来たんだよ? 休めないの?」
果穂は、志穂が自分に従って当然とばかりに口にする。艶やかな唇に爪の先まで綺麗に整えた指を押し当てながら、首を傾げた。
休めないの、と質問している風ではあるが、実質命令に近く、話が終わるまで果穂は帰らない。こうなったら遅刻を覚悟して果穂の話を聞かなければならないのだ。
「急に休んだら迷惑がかかるから」
「もう、せっかく志穂のために話をしに来たのに。なるべく早く話さなきゃって思って、宮川先輩と会って、そのまま来てあげたんだから」
果穂は頬を膨らませ、わざとらしくため息をついた。
(惣と……会って? サークルのことで用事でもあったのかな?)
果穂は惣と志穂とは別の大学だが、あとから同じサークルに入ってきた。
「話って?」
「志穂が恋人だと思ってる、宮川先輩のこと」
恋人だと思ってる、とはどういう意味だろう。本当は違うとでも言いたいのか。思わず眉を寄せた志穂を見て、果穂は楽しそうに口元を緩めた。
「惣が、なに?」
含みのある果穂の言葉に苛立ち、志穂は先を促す。
「あのね……宮川先輩とは、別れた方がいいと思う」
果穂がなにを言っているのかがわからず、志穂は言葉を失う。果穂はそんな志穂を窺うように見つめて、申し訳なさそうに視線を落とした。
「言いにくいんだけど……宮川先輩が志穂に告白したのはね、志穂が交際をOKするか友達と賭けてたんだって聞いちゃったの。ほら、志穂って冷めてるじゃない? それで、先輩の友達が志穂を落とせたらおもしろいって悪ふざけしちゃって、その人を止めるために仕方なくだったんだって。先輩も、まさか志穂がOKするとは思ってなくて、すぐに冗談だって言おうとしたけど、タイミングをなくしちゃったみたい。別れたいけど、騙した手前、志穂が可哀想で別れられないって、宮川先輩が困ってるの」
惣が賭けで自分に告白したなんて、別れたいと思っているなんて、信じられなかった。だって惣からは今朝、会えなくて残念だというメッセージが届いたばかりだ。
「……それで?」
「それで、じゃないよ! だから志穂は冷めてるって言われるんだよ。そういうところ直した方がいいと思う!」
「話の論点がずれてる。結局、なにが言いたいの?」
「普通わかるでしょ、もう! 志穂は私の気持ち知ってるでしょ? 私もずっと、先輩が好きだったって」
果穂がサークルに入ってきたのは、志穂と惣の距離が友人以上になり始めた頃だった。
惣が果穂と付き合ってしまうのではないかと、サークルの集まりのたびにハラハラしたものだ。
だが惣は、果穂にどれだけ言い寄られても、デートに誘われても、決して頷かなかった。それどころか、ずっと好きだったと志穂に告白してくれた。彼のその行動が、果穂の存在を不安に思う自分を安心させるためだとわかって、嬉しかったのを覚えている。
だが果穂は、二人が交際し始めたのを知りながら、さも惣の隣は自分の場所とばかりに彼に纏わり付いていた。
「うん、知ってる……でも」
「あのね!」
果穂は志穂の言葉を遮るように言葉を続けた。
「今日……先輩に二人で会いたいって言ったら、会ってくれて……それで、告白されたの。宮川先輩、本当はずっと、私のことが好きだったって。志穂に申し訳ない気持ちはもちろんあるけど、ほら、お互いに気持ちがないのに付き合ってたって、どっちも不幸になるだけだし。それなら、早く別れてもらった方がいいかなって、私が志穂に伝えに来たんだ」
「そんなの、信じられないよ」
「でも本当だもん。志穂と顔を合わせたら可哀想になっちゃって言えないから、宮川先輩は私に相談したんだよ。ほら、見て」
果穂がテーブルの上にスマートフォンを置き、メッセージを見せてくる。
『会いたいです。私の気持ち、気づいてますよね?』
そんなメッセージから始まった惣と果穂のやりとり。驚くべきことに、その内容は果穂の言葉を裏付けるものだった。志穂は信じがたい気持ちで、何度も二人の会話を読み返す。
『二人で会ってくれませんか?』
『わかった。ちょうどよかった、俺も話があるんだ』
『デートですね、楽しみ』
『あとでな』
メッセージの時刻は数時間前。惣は、二人で待ち合わせ場所を決めて、デートだと喜ぶ果穂のメッセージに対して『あとで』と応えていた。
(本当に……二人きりで会ったんだ……)
二人で会ったのも、彼が賭けで志穂と交際した話も、果穂の作り話だと思っていた。
けれど、果穂が言うように、彼は本当に仕方なく志穂と付き合っていたのだろうか。優しくしてくれたのも、騙している罪悪感からだった?
「明日、私たちの誕生日でしょ。宮川先輩、お祝いをしたいって言ってくれたの。私も、明日は先輩と二人で過ごしたい。だから志穂、先輩と別れてほしいの」
果穂は両手の指を合わせて、上目遣いに此方を見つめた。
(惣……私が誕生日だって知ってたんだ。明日はバイトがあるって、会えないって言ったのは……果穂と約束してるから。そっか……果穂と二人で、過ごすんだ)
そして、私と別れたら、果穂に好きだと言うのだ。自分にしたように果穂にも触れるのだろうか。
想像すると、胸がぎりぎりと締めつけられるように痛む。嫉妬と羨望と遣る瀬なさで、頭の中が真っ黒に染まりそうだった。
もしも志穂が誕生日に一緒に過ごしたいと言っていたら、どうなっていただろう。志穂を騙した罪悪感から一緒にいてくれただろうか。
「ねぇ、聞いてるの?」
「……聞いてる。話がそれだけなら、そろそろバイトだからいい?」
志穂はどうにか平静を取り繕い、言葉を返した。
果穂に退出を促すと、思っていた反応とは違ったのか、拗ねたような顔で詰られる。
「別れてくれないの? 私のことはいいよ。でも、宮川先輩、辛そうだったよ。志穂を騙して、申し訳ないって。ねぇ、宮川先輩が可哀想だよ……もう解放してあげなよ」
騙されていた志穂は可哀想ではないのだろうか。
今、口を開けば、果穂になにを言うかわからない。嫉妬を剥き出しにして怒鳴ってしまうかもしれないし、惣を奪わないでと泣き叫んでしまうかもしれない。
だから志穂は黙ったまま玄関で靴を履いた。その後ろから果穂がついてくる。
「志穂ってば」
「……別れるよ」
嘆息しながら答えると、背後で果穂が安心したように笑った気配がした。
「そっか。宮川先輩からは言い出せないと思うから、志穂から別れるってメッセージを送ってあげて。私ね……先輩が好きだけど、志穂を騙したのはちょっと怒ってるんだ。ああいう誰にでも優しい人には気をつけた方がいいよ。志穂、すぐ勘違いして騙されそうだから。あ、そうだ。志穂がサークルを辞めることもちゃんと伝えておいてあげるから、心配しないで」
「うん」
志穂は疲れ切った心地でため息を押し殺し、頷いた。なにもかもがどうでもよくて、果穂の顔を見ていたくなかった。早く一人になりたかったのだ。
「じゃあ、よろしくね」
果穂はその言葉に満足した様子で、志穂より先にアパートを出て、笑顔でバイバイと手を振った。
志穂もアパートを出て、自転車でアルバイト先に向かう。ひどいことをたくさん言われたはずなのに、麻痺してしまったように心は凪いでいた。
(もう、終わっちゃうんだ)
この先、二人で手を繋ぐことも、キスをすることも、抱き締められることもない。
たった一ヶ月で終わってしまうのなら、せめて誕生日だけは一緒に過ごしたかった。
(やっぱり……あんな人が、私を好きだなんて、あるわけなかったのかな)
ぎゅっと唇を噛みしめると、痛みで目の前がぼやけていく。
裏切られていたと聞いても、彼を好きな気持ちはちっともなくならない。いっそ嫌いになれたら、こんなに苦しまずに済んだだろうか。
(果穂……惣と、付き合うんだよね)
サークルを辞めたとしても、果穂ならば自慢げに写真を送ってくるくらいはするだろう。もしかしたら実家に連れてくることもあるかもしれない。
(そんなの見たくない……付き合った二人となんて、絶対に会いたくない)
こんなことになると知っていれば、彼を好きになどならなかった。彼と身体を重ねなかった。たった一ヶ月の交際期間でも、志穂にとってはなにもかもが初めてだったのだ。
別れを考えると胸が苦しくて、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
道行く人が、しゃくり上げる志穂を胡乱な目で見てきた。
「う……ぅ……っ」
息を吐くごとに涙が込み上げてくる。
どろどろとした感情が溢れ出しそうだ。果穂に対する嫌悪感が抑えきれない。顔も見たくないし、話もしたくない。彼らが並んでいる姿を想像するだけで、苦しくて耐えきれない。果穂さえいなければ――そんな風に思ってしまう。
果穂を恨んでしまいそうな自分が怖かった。
志穂はその日の夜、惣に最後のメッセージを送り、連絡を絶った。少しの期待もしないように、連絡先をブロックする。
そしてすぐに、果穂へ「惣と別れた」とメッセージを入れた。
果穂からの返信を見たくなくて、果穂の連絡先もブロックした。
そうして志穂の初恋は、たった一ヶ月で終わったのだ。
第一章
クリスマス間近の十二月某日。
志穂が働くアイディールシステム株式会社の開発事業本部内でも、クリスマスの過ごし方が話題に上がっていた。
今年はクリスマスイブが土曜日のため、家族や恋人がいる人たちは特に浮き立っている。志穂は会議室のテーブルに広げた弁当をちまちまと食べながら同僚たちの話を聞いていた。
「実はね、彼がクリスマスイブに高級フレンチを予約してくれたんです」
隣に座った開発事業本部の後輩、上園奈々は、スマートフォンにフレンチレストランのホームページを表示させて、大きな目を輝かせながらコロコロと笑った。奈々の目の前に置かれた手作り弁当は彩り豊かで、茶色いおかずを詰め合わせた志穂の弁当と違って見栄えがいい。
「小島さんは、彼氏いなかったんでしたっけ?」
「うん」
「ですよね~」
アイディールシステムは、ソフトウェアやアプリの開発を手がけており、品川区に本社を持つ大企業だ。委託を含めた在籍エンジニアは千人以上、リモートでの勤務も多い。志穂は開発事業本部のUIデザイナーとして勤務している。奈々は志穂の二歳下で今年二十五歳だ。
奈々は仕事の面ではやや頼りないところがあるものの、華やかな見た目に庇護欲を刺激されるおっとりとした話し方をする女性で、年嵩の上司や男性社員に人気が高かった。
「へぇ~ここって超人気フレンチじゃないっすか! 彼氏、めっちゃ甲斐性のある男っすね。ね、志穂さんもそう思いません?」
向かい側に座る松浦晃は、奈々のスマートフォンを覗き込みながら志穂にも話題を向けてくる。
奈々の恋人の話を聞くようになって半年ほど経つだろうか。
たしか、誕生日やハロウィンにも高級レストランに行ったと言っていた。顔が可愛いだけではなく甘え上手な彼女のために、恋人が超人気レストランを予約するのもわかる。
果穂と性格のよく似た奈々と話していると、古傷をちくちくと抉られて卑屈な自分が顔を出しそうになるが、学生の頃とは違い、それを上手く隠す術も身につけた。
もともと感情を表に出すのは苦手だし、培ってきた仕事の経験による自信が卑屈さを上手く隠してくれている。相変わらず他人と必要以上に仲を深めるのも得意ではないものの、大人になるとその方が楽に生きられるのだと知った。
実家から足が遠のいている志穂は、あれ以来、果穂とほとんど顔を合わせていない。メッセージアプリをブロックしたことで果穂も察したのか、向こうからの連絡も途絶えている。
過去の件をいまだに引きずっているわけではないが、一度空いてしまった距離を縮めるのは簡単ではないし、志穂としても今さらだった。
「うん、羨ましい。上園さん可愛いから、恋人の気持ちもわかるよ」
「そうなんですよ~。彼、私にベタ惚れで」
羨望の目を向けて言うと、奈々は満足そうに唇の端を上げた。
奈々の持ち上げられて満足する性格も果穂を彷彿とさせるのだが、素直に感情が顔に出るところは羨ましいし、可愛いと思う。
「羨ましいなら、俺が志穂さんを連れていってあげますって」
「私より自分の恋人を連れていってあげたら?」
松浦から初めて「志穂さん」と呼ばれたときは驚いたが、彼は誰に対しても人懐っこく距離感が近い性格なのだろう。奈々と同じで二歳しか違わないのに、この二人と話していると自分が老成しているように感じる。最近の若い子は……なんて年ではないのに。
松浦の言葉を適当に受け流しながら、志穂も恋人との予定に思いを馳せた。
(今年のクリスマスは土日だから、隆史さんから連絡があるかな。まぁ、なかったらないでいいか……)
恋人の隆史はあまりマメな性格をしておらず、気分屋でもある。プライベートの予定を前もって立てるのが苦手なのか、前日や当日に誘われることが多い。予定を立てると、当日になって出かけるのが面倒になってしまうらしく、デートは志穂の家ばかりだ。
去年は、十二月二十四日が金曜日の平日で、二十五日は隆史の予定が空いておらず、家には来なかった。今年はどうだろう。
誰かと過ごすイベント事がいやなわけではないが、一人の方が慣れているし気が楽だ。クリスマスはいつもよりもちょっと贅沢に過ごしている。去年はコスメティックブランドから出ているアドベントカレンダーを毎日開けつつ、当日はチキンを焼いてケーキを一人で食べた。
去年は自分用にバスソルトと高級枕を買ったから、今年はジグソーパズルを買って年末年始に完成させようと思っている。
(もし隆史さんから連絡が来ても、たぶん家でだらだらするだけだし。家だと楽でいいよね。人混みとか無理だし)
志穂が同じ部署のプロジェクトリーダーである井出隆史と付き合ったのは、彼が開発事業本部に異動してきた二年前だ。会ってすぐに、自分に交際を申し込む変わった男性だと思ったのが最初の印象。
しかし、仕事が忙しいときは一週間、二週間プライベートで会わないことも多く、電話やメッセージもごくわずか。外に出るのも煩わしいという性格の隆史とは、そういうところが妙に合った。
惣のときの気持ちとは違うけれど、もしかしたらこの人となら上手くやっていけるかもしれない、という希望が持てた。だから告白を受け入れた。
実際、隆史との交際は楽だった。家に泊まることもほとんどなく、食事をしてセックスをしたら帰る。頻繁な連絡もない。一人の時間を大切にする志穂にとって、これ以上ない相手だ。
(美味しいご飯は食べたいから、ちょっと豪華なケータリングでも頼もうかな。二人分頼んで、隆史さんが来なかったら、土日で食べればいいし)
結婚の話も出ていたが、仕事での関わりも密にあるため、まだ社内で交際は公にしていない。
「あ、そうそう……小島さん。実はあとで重大発表があるので、楽しみにしていてくださいね」
奈々は、空の弁当箱を可愛らしいキャラが描かれた保冷袋に入れると、松浦に聞こえないように声を潜めて顔を近づけてきた。
「重大発表?」
志穂が聞き返すと、奈々は可愛らしく人差し指を口の前に立てて「今は言えません」と言った。そのとき、彼女の香水の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
爽やかなユニセックスな香りは、どことなく奈々のイメージとは違う。
(この匂い……どこかで嗅いだことあるような?)
志穂の周りで好んで香水を付けるのは隆史くらいだ。そういえば彼は最近、香水を変えたと言っていた。同じ香りに思えるが、そこまで自信はない。
(隆史さんもブランド物が好きだし、もしかしたら有名な香水なのかも)
志穂は、ブランド物にあまり興味がない。ブランド物じゃなくても、シンプルで質のいい物が好きだ。アクセサリーもほとんどつけない。
嫌いではないのだが、装飾品で着飾っていた果穂を思い出すと、どうせ自分には似合わないと手に取るのをためらってしまう。
化粧もおとなしめで、やや太めに書いた眉に、ほんのりとピンクになる程度のアイシャドウを目元に載せている。目が大きいため、マスカラもアイライナーも引いていない。
仕事中は、緩くパーマをかけた髪を高いところで一つにまとめている。どう頑張ってもさらさらストレートにならないならと、憧れを捨て楽な髪型にした。手は抜いていないのに地味に見えてしまうのは、もともとの顔立ちのせいだけでなく性格もあるのだろう。
そういえば果穂には、地味だの、幸薄そうに見えるだのと散々言われたなと思い出すが、果穂と自分は違うと開き直れるくらいには、妹とのことは自分の中で過去になっていた。
(それに、うちの部署って目立つ人が多いから、気にしてたらキリがないし)
隆史然り、奈々然り。そして目立つ筆頭といえば、アイディールシステムに取締役としてヘッドハンティングされてきた、開発事業本部長でもある宮川惣だ。
(まさか、会社で惣と再会するなんて思わなかった)
凜々しく男らしい顔立ちに圧倒的な存在感。くせのないストレートの黒髪は左右に分けられているが、昔は真っ直ぐに前髪を下ろしていた。
ヒールを履いた志穂よりも頭一つ分は高い身長に、整った顔、体躯の良さも相まって、恋人の座に収まろうとする女性は相変わらずあとを絶たない。
ただ、女性と親しくしている様子もなく、アイディールシステムに来て約九ヶ月、誰一人として恋人の座を射止めた女性はいないため、その誠実さから人気は高まる一方だ。
穏やかな話し方で冗談を交えつつ部下に接しているわりには、プライベートにはいっさい隙がないという話もよく聞く。
彼が三十歳にして取締役に就いている実力は伊達ではない。頼りがいがあり、誰にでも分け隔てなく接するところも、その優秀さも大学時代となんら変わっていなかった。
話しかけられると、うっかり昔を思い出してときめきそうになるが、それだけだ。
(惣は……覚えてすらいなかったんだから)
大学時代に交際していた惣と再会したのは、彼がアイディールシステムにヘッドハンティングされた今年の四月のこと。
社長の紹介で壇上に立った惣を見たときは驚いたものだ。
なんの因果か惣は開発事業本部に配属され、挨拶の際に目が合ったが、彼は志穂に気づきもしなかった。
志穂は弁当箱を片付けながら、隆史には言えない初恋の日々を思い出し、目を細くする。
大学時代に志穂が所属していたインカレサークルは、本好きな人との交流を目的としたかなり緩いサークルだった。
志穂は、そもそもサークルに入るつもりはなかった。人付き合いが苦手で小中高で友人と呼べる相手はほとんどおらず、話し相手といえば双子の妹である果穂くらいだった。
それなのに、たまたま教養ゼミで隣に座った別学部の女子生徒に強引に誘われ、気がついたら入部することになっていたのだ。
そして、新歓バーベキューなどという、志穂にとっては苦痛でしかない陽キャの集まりに参加させられ、さっさと退部届を出そうと心に決めたとき、惣に出会った。
スマートに誰に対しても分け隔てなく接する彼は、サークル内で存在感の薄い志穂に対しても優しかった。彼は、サークルを辞めようとしていた志穂を引き留め、一人にならないように常にそばにいてくれた。
そんな昔の初恋を思い出すと、別れを告げたときの記憶が蘇る。けれど、あの頃に感じた苦しいほどの胸の痛みはもうない。ただただ、優しく幸せな思い出が記憶に刻まれているだけだ。
過去の思い出に耽りながら席に戻る頃には、奈々が口にした重大発表のことなどすっかり志穂の頭から抜けてしまっていたのだった。
終業時刻間際、突然、惣が立ち上がりぱんと手を叩いた。
「全員、ちょっと聞いてくれるか」
開発事業本部のフロアにいる社員が手を止めて、前にいる惣に視線を送る。すると、隣の席に座る奈々が「重大発表ですよ」と声を潜めて言った。
(そういえば重大発表があるって言ってたっけ? なんだろう?)
奈々は、なぜか志穂に向かって勝ち誇ったように口角を上げた。彼女の表情の意味がわからず首を傾げながらも、志穂はほかの同僚に倣い、身体ごと前へ向けた。
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