2 / 17
1巻
1-2
しおりを挟む
「こんばんは、次女のふたばです。私は高三。で、あっちでふてくされてるのが三男の芳樹、中三。芳樹は今、反抗期だから、態度悪いけど気にしないでくださいね。キッチンにいるのが三女の美智、小六。テレビの前で本を読んでるのが四女の詩織、小一。裕樹兄に抱えられてるのが末っ子の亜樹。一番上の兄は結婚してここにはいません。よろしくお願いします」
ふたばが弟妹たちを指差しながら、一人一人紹介する。すると反抗期と言われた芳樹が、ダイニングテーブルで読んでいた参考書を乱暴に閉じて、口を開く。
「……っるさいな、反抗期はお前だろ! しょっちゅう裕樹兄に突っかかってるじゃんか! 俺は受験勉強で疲れてるだけだ」
「ほぅら、出た。そういうところが反抗期だって言ってるの! お客さんの前でくらい静かにできないわけ?」
ふたばも負けじと言い返す。この二人は小さい頃からケンカばかりで、それを止めるのはいつも一華と裕樹の役割だった。明彦が来ているため多少遠慮はしているようだが、普段は手や足が出る。
「はぁっ⁉ お前の方がうるさいし!」
「やめなさい! 二人とも! 本当にごめんね、これでも今日はおとなしい方なんだけど」
一華が止めると、ふたばと芳樹が気まずそうに目を逸らす。一緒になって怒られたふたばは、あからさまに不服そうな顔をしている。ふたばは他人の前だとお姉ちゃんになりたがるからと、一華はため息を呑み込んだ。
「いやいや、元気があっていいんじゃないかな」
明彦の視線はふたばを通り越し、キッチンにいる美智に移った。彼が、美智のスカートで視線を止めたような気がして、なんとなく違和感を覚える。
(あれ? 美智のスカートにゴミでもついてたかな……?)
それにしては、やたらと凝視していたような。
「みんな可愛いね」
明彦がこちらを見て、いつもと変わらない様子で笑みを浮かべた。
その瞬間、明彦が急に足を持ち上げ、顔を歪めた。
「いて……っ」
「どうしたの?」
「いや、足になにか……」
足下を見ると、床に亜樹のおもちゃが散らばっている。片付けなければまた踏んでしまいそうだ。
「ごめんなさい。これ亜樹のおもちゃなの。片付けるね。明彦さんは、ソファーに座って待ってて」
「うん、わかった。いいよ、ゆっくりで」
「ありがとう。亜樹~寝る前に、出したおもちゃを片付けて!」
一華が叫ぶと、亜樹の「はーい」という明るい返事が聞こえてくる。おそらく今、裕樹に歯を磨いてもらっているのだろう。一華は亜樹が自分で片付ける用の大きいおもちゃだけをソファーに残しておき、ほかのおもちゃを片付けていく。
すると、ソファーに腰かけた明彦に、詩織が話しかけた。
「ねぇねぇ、本読む?」
「そうだね。読んであげようか?」
「うん!」
詩織は嬉しそうに頷き、明彦の隣に座った。
ちょうどよかった。落ち着くまで詩織に明彦の話し相手を頼もう。手がかかる子ではないし、父が帰ってくるまでソファーに座って話していてもらえれば、その間に多少片付けができる。
(仲良くできそうでよかった)
子どもが好きという話は本当らしく、ほっとする。
「そうだ! 一華、みんなの写真を撮ってもいいかな?」
しばらくすると明彦に聞かれて、一華は手を止めた。
「ほら、一華は忙しいから、なかなかきょうだいの写真を撮る機会がないと思ってね。子どもの成長の記録って大事じゃないか。あ、もちろん一華にもあとで送るよ」
「そうね……ありがとう」
「じゃあ撮るね。詩織ちゃん、スマホ見て」
一華が許可を出すと、明彦は嬉々とした様子でスマートフォンを取りだし、詩織に向けた。詩織はスマートフォンの前でピースサインをする。
「美智ちゃんも、こっち向いて!」
明彦はキッチンにいる美智にもカメラを向けた。料理中に声をかけられた美智は、不機嫌そうに唇を尖らせて振り返った。
「なに?」
「撮ってあげるよ」
片付けをしながら横目に明彦を見ていると、彼は美智と詩織ばかりを写真に収めていた。芳樹やふたばには目も向けない。
(気にしすぎかな……)
明彦はひとしきり写真を撮ったあと、ふたたび詩織とソファーに座った。
しばらくして、一華が二人に視線を向けると、明彦が詩織に覆いかぶさるようにして本を覗き込んでいる。それがやけに距離が近すぎるように思えて、気に掛かった。
なにかいやな予感がしてきた一華は、手を動かしながらも二人を見つめる。すると、明彦の手が伸びて、詩織の足に触れようとした。反射的に、一華は叫ぶように彼の名前を呼んだ。
「明彦さん!」
明彦は慌てたようにびくりと肩を震わせて手を引く。その様子を見て、彼に対する信頼が徐々に失われていく。
「な、なに? もう片付け終わったの?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
明彦をこの家にこれ以上いさせるのは危険だと、一華の勘が言っている。
「今、連絡があって、お父さん遅くなりそうなの。悪いんだけど、やっぱり日を改めてくれない?」
一華はポケットに入れていたスマートフォンを手に取り、小声で言った。すると、明彦が納得した様子で頷く。
「そうなんだ。なら、仕方がないね。お土産は置いていくから、みんなで食べて」
「ありがとう」
リビングを出ていく明彦に、ふたばが「あれ、もう帰るの?」と首を傾げる。明彦はちらりとふたばを見たが、一華に向けるのと同じ顔で笑い「またね」と言った。
「ちょっとね、日を改めることになったから」
一華はそう説明して、明彦と共に玄関を出た。
彼がどうして一華と結婚しようと思ったのか、わかってしまった。
なぜ、今まで独身だったのかも。
(今まで、弟妹たちに会わせる機会がなかったから、気がつかなかった。この人、言葉通り〝幼い子ども〟が好きなんだ)
結婚する前で良かった、と身体から力が抜けそうになる。もし一華が彼と結婚していたら、美智や詩織、亜樹になにかされていたかもしれない。本当にただ子どもが好きなだけかもしれないが、自分のこういう勘は信じることにしている。
一華は仕事でこれまで何百人、何千人というお客様を見てきた。お客様の関係が友人なのか恋人なのか、それとも夫婦なのか、はたまた不倫なのか。言動から判断し動かなければならない。そのためお客様の思いや事情を察するのは得意だった。
玄関のドアを開けて外に出ると、湿った温かい空気が肌を撫でる。帰ってきたときは不快にも思わなかったのに、今は肌にまとわりつくような感覚にイライラした。
一華はため息をつき、ドアが閉まっているのを確認して、明彦と向き合った。
「悪いけど、結婚はなかったことにしてほしいの」
「えっ、なぜ?」
明彦は驚いた表情で理由を尋ねる。
「あなたを信用できなくなったから。……さっき、写真を撮ってたとき、美智と詩織ばかりにスマホを向けていたのはどうして? それに、詩織の足に触ろうとしてたわよね?」
「ち、違うんだ。大きい子たちはあとで撮ろうと思ってたんだよ。詩織ちゃんに触ろうとしたのは……あの、ほら、これから家族になるんだし、仲良くなろうと思って」
「お父さんですら、そんなことはしない。もちろん、裕樹も芳樹も。あなたに、弟妹たちに近づいてほしくないの。ごめんなさい」
一華が頭を下げると、穏やかだった明彦の目が吊り上がった。
「き、君まで、僕を変態扱いするんだな! ロリコンだとでも思ってるんだろう!」
唾を飛ばさんばかりの勢いでまくし立てられるが、一華はただ押し黙る。
「少し興味があるだけじゃないか! 相手がいやがったらちゃんとやめてる!」
「……つまり、あなたは過去にも幼い子がいやがるようなことをしていたのね? じゃあ、あなたのお母様に確認してもいい? 警察沙汰になったことはありますかって」
一華の問いに、明彦はぎくりと肩を強張らせた。
「やっぱりね……あなたとは二度と会わない。それと、さっきここで撮った写真を全部消して。クラウドに保存しているならそれも。今後、妹たちに近づいたら、警察を呼ぶから」
「わ、わかったよ!」
明彦はスマートフォンを操作し、画像を消去した。一華は彼の手元を注意深く見つめて、美智と詩織の写真が消えていることを確認する。
明彦の画像フォルダには、インターネットの拾い画像なのか、幼い子どもの写真が大量に保存されていた。あまりの気持ち悪さに顔が引き攣る。
「これでいいだろう! だからいやなんだ、大人の女なんて!」
ぞっとするようなセリフを吐き、明彦は逃げるように走り去っていった。
残された一華は脱力するように肩を落とし、深く息を吐きだした。今日、気づいて良かった。妹たちになにもなくてよかった。
安堵すると同時に、やっぱりと諦めの気持ちが生まれ、苦い笑いが漏れる。
(最初からわかってたじゃない。簡単にはいかないって。私は小さな子を抱えたシングルマザーのようなものなんだから。近づいてくる人には、裏があるって思った方がいい)
諦めるのは得意だ。家事に育児に仕事。すべてをこなすには、恋愛や友人付き合いを諦めるしかないとわかっていたのに、望んでしまった。もしかしたらと期待をしてしまった。
ため息と共に涙が滲んだ。あんな人にしか必要とされない自分が哀れで、虚しかった。不意に全身がずんと重くなったような感覚がした。両肩にのしかかるのは家族の重みだ。
けれど、唇を噛みしめ耐える。泣いていたら弟妹たちを心配させてしまう。
(私……逃げたかったのかな。この環境から)
明彦に「父親代わりになる」と言われたとき、これで子どもたちの面倒を見てくれる手が増えたと喜んだ。自分にとって都合のいい男性と結婚ができるという、浅はかな考えがあった。
今、一華の胸にあるのは悲しみなどではない。結婚がなくなり、将来への展望が真っ黒に染まっていくような喪失感と絶望感だ。
(あの人と結婚しなくて良かったって……心底思うのにね)
きっと、疲れているだけだ。諦めた方が楽だと知っているじゃないか。恋愛も結婚も自分には無理なのだ。少なくとも、亜樹がもっと大きくなるまでは。
(だから……あと何年よ、それ)
なにもかもを放り出して逃げてしまいたい。弟妹たちを可愛いと思うのに、どうして自分ばかりが苦労をしなければならないのか、という恨みがましい気持ちもあって――
ふたたび涙が滲みそうになり、一華は空を見上げて深い呼吸をする。
仕方がないことだ。自分は長女で母親代わりなのだから。
そう自分に言い聞かせているうちに、涙は止まった。
(そろそろ戻らないと……ご飯、待ってるだろうし)
気持ちを切り替え一華が玄関を振り返ると同時に、内側からドアが開いた。
「姉ちゃん? なかなか戻ってこないけど、どうかした?」
玄関から顔を出したのは裕樹だった。亜樹の寝かしつけが終わったのだろう。
「ううん、なんでもない。今日はいろいろ任せちゃってごめんね。バイトも休んでもらったのに」
「いや、それはいいけどさ。もう飯できたって」
裕樹は、赤くなった一華の目に気づいたのか、気まずそうにリビングに目を向けた。どう考えても明彦が帰るタイミングはおかしかったし、ケンカをしたとでも思ったのかもしれない。
「わかった、ありがとう」
「亜樹の風呂で濡れたから、俺も入ってくるわ。先に食ってて」
そう言って、裕樹は脱衣所へ行った。
一華がリビングに入ると、ふたばと美智がテーブルに食事を並べている。
「ふたばも美智も、全部やらせてごめん。あとは私がやるから」
「あとご飯よそうだけだから、たまにはいいよ」
美智がにかっと笑う。一華は美智の髪を撫でるように軽く梳き、ありがとうと返した。
「姉ちゃん、遅ぇよ! 腹減ったし! つうか、さっきのおっさん帰ったの? 結婚の挨拶に来たんだろ?」
先ほどまでふたばとケンカをしていた芳樹は、すっかりとそんなことを忘れたように詩織とお菓子を食べ、テレビを観ながら言った。
美智と詩織はなにも気づいていないようでほっとする。あと少し気がつくのが遅かったら、なにをされていたかわからない。
(ちょっとだけ、一人になりたいな)
一連の出来事でやけに疲れてしまった。今は誰にも話しかけられたくないと思うものの、弟妹たちは放っておいてはくれない。
「思ったんだけど、あのおっさんなんかキモくね? あんなのじゃなくて、もっといい男を選べば?」
思わず、うるさい、と口から出かかった。もっといい男を選べるなら、とっくに選んでいると。吐く息が震えて、気づけば肩で息をしていた。
(母親代わりなんて、したくてしてるわけじゃない。でも、私しか、やる人がいないから……)
我慢して抑えてきた感情が一気に溢れだす。決して口にしてはいけない言葉が出てしまいそうになり、震える唇を噛みしめた。
いつもなら芳樹の軽口くらい反抗期だからと聞き流せるのに、それができない。あんな男しか選べない自分が悔しくて、悲しくてたまらなかった。
「それに全然そういう話してねぇけどさ、姉ちゃん結婚したら誰が飯とか作んだよ」
頭の中でなにかがぷつりと切れた音がした。怒りで目の前が真っ赤に染まる。
もういやだった。なにもかもがいやでたまらなかった。
「そんなの……」
「は?」
「そんなの知らないわよ! どうしていつも私ばっかり! 私だって、好きであなたたちの母親代わりしてるわけじゃない! 誰の面倒も見なくていいなら、とっくにもっといい男と結婚して、こんな家出ていってるわよ!」
一華は肩を震わせながら一気に言った。我慢しようと思っていたのに、一度口を衝いて出た言葉は止められなかった。
「……っんだよ、それ!」
リビングがシンと静まり返る中、芳樹が勢いよくテーブルを叩く。ばんっと大きな音がしたあと、詩織がぐすぐすと泣きだした。
「わかってたよ! 姉ちゃんはどうせ、俺らがいるから結婚できないって思ってるって! 母親代わりを押しつけられて迷惑だって! だったら俺らなんて捨てて兄ちゃんみたいに家を出ていけばいいじゃんか! 悪かったなっ、邪魔者で!」
芳樹は目を真っ赤にして、泣きそうな顔で叫んだ。
「ちが……っ」
芳樹の慟哭が伝染したかのように、今度は美智が泣きだした。ふたばは近くにいる美智を抱き締めながら、心配そうにこちらを見ている。芳樹は背を向けて荒々しくリビングを出ていった。
「芳樹っ!」
「うるせぇっ!」
階段を上がっていく苛立ちがこもった足音のあと、勢いよくドアが閉まる音が響く。
ドアの音で起きてしまったのか、亜樹の泣き声が二階から聞こえてきた。亜樹を抱っこして、もう一度寝かしつけないと。今日は、風呂も歯磨きも裕樹に任せてしまったのだから。
そう思うのに、足が動かなかった。
(泣き止んでよ……なんで泣くの)
いつもなら可愛いと思うのに、亜樹の泣き声さえうるさく感じる。今、亜樹のところに行ったら、この気持ちをぶつけてしまいそうで動けなかった。
(もう、いやだ……いなくなりたい)
美智と詩織、それにふたばも不安そうな顔をしてこちらを見ていた。フォローしなければと思っても、口も身体も動かない。
弟も妹も大事なのに、彼らさえいなければと思う気持ちが、いつもどこかにあった。
母が亡くなる前に結婚し家を出ている兄が羨ましかった。「お兄ちゃんは結婚したんだから仕方がない」――そう言いつつも、心のどこかで兄だけここから逃げられるのはずるいと思っていた。
そんな浅ましい考えを知られたくなくて、まるで仕事のように日々のルーティンをこなしていた。でも本当は苦しかった。誰かに助けてほしかった。
そんなとき明彦と出会ったものの、その期待を裏切られ、失望し、家族に当たるだなんて。
(私……なにしてるんだろう……ちゃんとしなきゃ)
「ごめんね……ちょっと、外で頭を冷やしてくる。亜樹のこと、頼んでいい?」
「お姉ちゃん……ちゃんと帰ってくる?」
不安そうな顔をした詩織が涙を拭いながら聞いてきた。詩織はまだ小学一年生なのに、それでもよくないことが起きたらしいと理解しているのだ。ふたばは美智を抱きしめたまま、一華を見つめている。
「うん、もちろん。もうすぐお父さんも帰ってくるし、その辺散歩してくるだけだから。危ないから家から出ちゃだめよ。鍵はかけていくからね」
一華は詩織の言葉を待たずに背を向けた。
ショックを受けた芳樹の顔を思い出す。芳樹には帰ったら謝ろう。今は冷静に話せる自信がない。
一華は、スマートフォンとバッグを掴み玄関を出ると、ドアをしっかりと施錠した。一人になると、しっかり者の姉、頼りになる姉の仮面が剥がれ落ちていく。
(ちょっと、疲れた……)
シンと静まりかえった玄関先で、深くため息をつく。
住宅街に人気はなく、普段なら少し怖いくらいの夜道が今日に限ってはありがたかった。
一華はとぼとぼと歩きながら、星のない空を見上げた。
胸が苦しくて、吐く息が切なく震える。それなのに涙はこぼれなかった。
(お母さん、ごめんね……私、お姉ちゃんなのに。ちゃんと、お母さんの代わり、しなきゃいけないのに、全然できない)
母が亡くなったときのことを思い出す。
弟妹たちを慰めることや生活を整えることに必死で、母の死を悼む時間なんてまったくなかった。母だってきっと、一華に弟妹たちの面倒を見てほしいと思ったはずだ。
無意識に通い慣れた道を歩いていたようで、商店街の明かりが見えてくる。
早く家に帰らなければ心配する。
そう思っても、顔を合わせたらもっとひどい言葉を投げつけてしまいそうで怖かった。
(もう少しだけ歩いて、帰ろう)
一華は商店街を通り、駅の方へと足を向ける。
すると、スマートフォンの着信音が響いた。明彦が連絡をしてきたのかもと、恐る恐るスマートフォンを見ると、着信は父からだった。
「お父さん? ごめん、少し外に……」
『あいつらから事情を聞いた。帰るのが遅くなって悪かったな』
「ううん、それはいいの。私もそろそろ帰るから、心配しないで。あと、悪いんだけど……結婚、なくなったから。みんなにも伝えておいて」
『そうか、わかった。一華はいろいろ溜め込むからなぁ。今日は帰って来なくていいからぱぁっと遊んでこい。ほら、前に憧れているって言ってたホテルとか。どうせ食事もしてないんだろうし、行ってみたらどうだ?』
精一杯、気遣ってくれているのだろう。たしかに気分転換にはなるかもしれないが、芳樹を傷つけておいて自分だけ遊びに行くなんてできない。
「でも、芳樹に謝らないと」
『んなの、明日でいい。あいつだって自分が言い過ぎたってちゃんとわかってるよ。それに、一華の言葉が本心じゃないってことも。お前は一人で頑張りすぎなんだ、家事も育児もしつけも。それを、全部お前にやらせてる俺が言えたことじゃないんだが……芳樹のフォローはしておくから心配するな。むしろ、こんなときにしか役立てない親父で悪いな』
ゆっくりしてこい――その言葉を最後に電話が切られた。
一華はしばらくの間、本当に家に帰らなくていいのだろうかとスマートフォンを見つめた。
遊びに行くような気分ではない。ただ、このまま家に帰るのも気まずかった。
明日は仕事も休みだし、芳樹が寝た頃に帰り、朝食のタイミングで謝る方がいいかもしれない。
(ホテルか……せっかくだから、行こうかな)
まだ時間も早い。ふと、一人で夜に街を歩くこと自体が数年ぶりだったと気づく。一華の生活はずっと弟妹たちと共にあったから。
一華は最寄り駅から地下鉄に乗り、グランドフロンティアホテル&リゾート東京のある港区内の駅で降りた。駅構内にあるアパレルショップを見ながら、ぶらぶらと歩く。
(こんな風に、ゆっくり服を見るのも久しぶり)
なかなか時間が取れないため、一華の服はすべて通販サイトで購入していた。
制服は上下黒のスーツにスカーフのスタイルだが、中に着るブラウスやシャツは自前で色は白と決められている。
支給品とは別に自分好みのスカーフを購入し身につけるのが、フロントサービス係の間でちょっとした流行となっていた。
いくつかのスカーフを手に取り即決すると、レジに持っていく。時間に追われているわけではないのに、会計を済ませるまで五分もかかっていない自分に苦笑が漏れた。
(明後日、仕事の時に使おう)
新しいスカーフを身につけられると思うと、幾分か気持ちが浮上してくる。
やがて目的のホテルへ到着し、上層階にあるホテル直営のバーに向かった。
空腹ではあったが、今は腹を満たすより酔いたい気分だった。それにバーでもなにか摘まめるものがあるだろう。
店内は淡い明かりに照らされていて落ち着いた雰囲気だ。カウンター席だけでなく、ベルベット調の一人用ソファーを囲うように置かれた円テーブルがいくつかある。カウンターの一段高いステージにグランドピアノが配置されており、土日祝日に来ればピアニストによる演奏が聴けるようだ。
一華はカウンター席に案内され、メニューを手渡された。テーブルにスマートフォンを置き、先にカクテルを注文してからメニューをのんびりと眺める。
(食事メニューは……サンドウィッチくらいか)
メニューにあるのは、チーズやナッツといった酒のつまみとなる付け合わせが数種類とデザートのみ。やはりレストランで食事をしてくればよかったと後悔するも今さらだ。
「食事メニューは、これだけですよね。ご飯とか……」
わかっていながらも、カウンター越しに立つバーテンダーに聞いてみる。
「申し訳ございませんが、当店ではご飯類のご用意はございません。軽食でしたら、こちらのクロックムッシュとクラブサンドウィッチはいかがでしょうか」
「ありがとう……こちらこそごめんなさい」
バーテンダーに申し訳なさそうに謝られて、一華は首を横に振る。メニューにないことをわかっていて聞いたのに、少しもいやな顔をせずに対応してくれたのだから十分だ。
「じゃあ、クラブサンドウィッチと温野菜のサルサ・ロハを」
サルサ・ロハはメキシコ料理によくついてくる赤いソースのことだ。辛みがあって酒のつまみによく合う。
「かしこまりました」
バーテンダーは折り目正しく腰を折った。姿勢が非常に美しく、所作に荒っぽさがまったくない。厨房に注文を伝えに行き戻ってくると、一華の空のカクテルグラスを見て、ドリンクメニューを広げてくれる。
「追加のドリンクはいかがですか?」
「じゃあ、マティーニをいただけますか?」
「かしこまりました」
バーテンダーはカクテルグラスに氷を入れて、グラスを冷やしたあと、ミキシンググラスに氷と酒を入れた。
ミキシンググラスをかき混ぜる手は洗練されており、マドラーがグラスに一度も当たらない。グラスの中で音も立てずに氷がくるくると回る様子は、一華の目を楽しませてくれた。
「すごい」
一華が感嘆の声を上げると、照れた様子で微笑みが返された。
「ありがとうございます」
カクテルを作っている様子を見せるのは一種のパフォーマンスのようだ。バーテンダーの楽しんでもらいたいという思いが伝わってくる。客としてホテルの直営店を利用するのは、諸先輩方が言うようにとても勉強になる。
カクテルグラスを傾けると、爽やかな香りが鼻をくすぐった。一口飲むと、口の中がすっきりするような辛さと共に、酒精の強さで身体が熱くなる。
カクテルはすぐになくなり、また次を頼む。つい酒が進むのは、いくら飲んでも酔えそうにないからだ。
(もっと楽しい気分でここに来たかった……まぁ自業自得なんだけど)
テーブルに置いたスマートフォンのホームボタンをタップするが、着信は一件もなかった。
(芳樹……怒ってるかな。またふたばとケンカしてないといいけど。せっかくお父さんが気分転換にって言ってくれたけど……そんな簡単に切り替えられないよ)
やはりすぐに追いかけて謝ればよかった。
一人でいるからよけいにマイナス思考になっていくのかもしれない。家族を大事に思っている気持ちはうそじゃないのに、もしも母が生きていたらと、何度も何度も考えてしまう。
もっと自由に恋をしてみたい。長期の休みには、贅沢に全国各地のホテルを見て回りたい。そんな本音は、弟妹たちの前ではとても口には出せなかった。彼らだって、一華と同じように我慢をしていることはたくさんある。
ふたばが弟妹たちを指差しながら、一人一人紹介する。すると反抗期と言われた芳樹が、ダイニングテーブルで読んでいた参考書を乱暴に閉じて、口を開く。
「……っるさいな、反抗期はお前だろ! しょっちゅう裕樹兄に突っかかってるじゃんか! 俺は受験勉強で疲れてるだけだ」
「ほぅら、出た。そういうところが反抗期だって言ってるの! お客さんの前でくらい静かにできないわけ?」
ふたばも負けじと言い返す。この二人は小さい頃からケンカばかりで、それを止めるのはいつも一華と裕樹の役割だった。明彦が来ているため多少遠慮はしているようだが、普段は手や足が出る。
「はぁっ⁉ お前の方がうるさいし!」
「やめなさい! 二人とも! 本当にごめんね、これでも今日はおとなしい方なんだけど」
一華が止めると、ふたばと芳樹が気まずそうに目を逸らす。一緒になって怒られたふたばは、あからさまに不服そうな顔をしている。ふたばは他人の前だとお姉ちゃんになりたがるからと、一華はため息を呑み込んだ。
「いやいや、元気があっていいんじゃないかな」
明彦の視線はふたばを通り越し、キッチンにいる美智に移った。彼が、美智のスカートで視線を止めたような気がして、なんとなく違和感を覚える。
(あれ? 美智のスカートにゴミでもついてたかな……?)
それにしては、やたらと凝視していたような。
「みんな可愛いね」
明彦がこちらを見て、いつもと変わらない様子で笑みを浮かべた。
その瞬間、明彦が急に足を持ち上げ、顔を歪めた。
「いて……っ」
「どうしたの?」
「いや、足になにか……」
足下を見ると、床に亜樹のおもちゃが散らばっている。片付けなければまた踏んでしまいそうだ。
「ごめんなさい。これ亜樹のおもちゃなの。片付けるね。明彦さんは、ソファーに座って待ってて」
「うん、わかった。いいよ、ゆっくりで」
「ありがとう。亜樹~寝る前に、出したおもちゃを片付けて!」
一華が叫ぶと、亜樹の「はーい」という明るい返事が聞こえてくる。おそらく今、裕樹に歯を磨いてもらっているのだろう。一華は亜樹が自分で片付ける用の大きいおもちゃだけをソファーに残しておき、ほかのおもちゃを片付けていく。
すると、ソファーに腰かけた明彦に、詩織が話しかけた。
「ねぇねぇ、本読む?」
「そうだね。読んであげようか?」
「うん!」
詩織は嬉しそうに頷き、明彦の隣に座った。
ちょうどよかった。落ち着くまで詩織に明彦の話し相手を頼もう。手がかかる子ではないし、父が帰ってくるまでソファーに座って話していてもらえれば、その間に多少片付けができる。
(仲良くできそうでよかった)
子どもが好きという話は本当らしく、ほっとする。
「そうだ! 一華、みんなの写真を撮ってもいいかな?」
しばらくすると明彦に聞かれて、一華は手を止めた。
「ほら、一華は忙しいから、なかなかきょうだいの写真を撮る機会がないと思ってね。子どもの成長の記録って大事じゃないか。あ、もちろん一華にもあとで送るよ」
「そうね……ありがとう」
「じゃあ撮るね。詩織ちゃん、スマホ見て」
一華が許可を出すと、明彦は嬉々とした様子でスマートフォンを取りだし、詩織に向けた。詩織はスマートフォンの前でピースサインをする。
「美智ちゃんも、こっち向いて!」
明彦はキッチンにいる美智にもカメラを向けた。料理中に声をかけられた美智は、不機嫌そうに唇を尖らせて振り返った。
「なに?」
「撮ってあげるよ」
片付けをしながら横目に明彦を見ていると、彼は美智と詩織ばかりを写真に収めていた。芳樹やふたばには目も向けない。
(気にしすぎかな……)
明彦はひとしきり写真を撮ったあと、ふたたび詩織とソファーに座った。
しばらくして、一華が二人に視線を向けると、明彦が詩織に覆いかぶさるようにして本を覗き込んでいる。それがやけに距離が近すぎるように思えて、気に掛かった。
なにかいやな予感がしてきた一華は、手を動かしながらも二人を見つめる。すると、明彦の手が伸びて、詩織の足に触れようとした。反射的に、一華は叫ぶように彼の名前を呼んだ。
「明彦さん!」
明彦は慌てたようにびくりと肩を震わせて手を引く。その様子を見て、彼に対する信頼が徐々に失われていく。
「な、なに? もう片付け終わったの?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
明彦をこの家にこれ以上いさせるのは危険だと、一華の勘が言っている。
「今、連絡があって、お父さん遅くなりそうなの。悪いんだけど、やっぱり日を改めてくれない?」
一華はポケットに入れていたスマートフォンを手に取り、小声で言った。すると、明彦が納得した様子で頷く。
「そうなんだ。なら、仕方がないね。お土産は置いていくから、みんなで食べて」
「ありがとう」
リビングを出ていく明彦に、ふたばが「あれ、もう帰るの?」と首を傾げる。明彦はちらりとふたばを見たが、一華に向けるのと同じ顔で笑い「またね」と言った。
「ちょっとね、日を改めることになったから」
一華はそう説明して、明彦と共に玄関を出た。
彼がどうして一華と結婚しようと思ったのか、わかってしまった。
なぜ、今まで独身だったのかも。
(今まで、弟妹たちに会わせる機会がなかったから、気がつかなかった。この人、言葉通り〝幼い子ども〟が好きなんだ)
結婚する前で良かった、と身体から力が抜けそうになる。もし一華が彼と結婚していたら、美智や詩織、亜樹になにかされていたかもしれない。本当にただ子どもが好きなだけかもしれないが、自分のこういう勘は信じることにしている。
一華は仕事でこれまで何百人、何千人というお客様を見てきた。お客様の関係が友人なのか恋人なのか、それとも夫婦なのか、はたまた不倫なのか。言動から判断し動かなければならない。そのためお客様の思いや事情を察するのは得意だった。
玄関のドアを開けて外に出ると、湿った温かい空気が肌を撫でる。帰ってきたときは不快にも思わなかったのに、今は肌にまとわりつくような感覚にイライラした。
一華はため息をつき、ドアが閉まっているのを確認して、明彦と向き合った。
「悪いけど、結婚はなかったことにしてほしいの」
「えっ、なぜ?」
明彦は驚いた表情で理由を尋ねる。
「あなたを信用できなくなったから。……さっき、写真を撮ってたとき、美智と詩織ばかりにスマホを向けていたのはどうして? それに、詩織の足に触ろうとしてたわよね?」
「ち、違うんだ。大きい子たちはあとで撮ろうと思ってたんだよ。詩織ちゃんに触ろうとしたのは……あの、ほら、これから家族になるんだし、仲良くなろうと思って」
「お父さんですら、そんなことはしない。もちろん、裕樹も芳樹も。あなたに、弟妹たちに近づいてほしくないの。ごめんなさい」
一華が頭を下げると、穏やかだった明彦の目が吊り上がった。
「き、君まで、僕を変態扱いするんだな! ロリコンだとでも思ってるんだろう!」
唾を飛ばさんばかりの勢いでまくし立てられるが、一華はただ押し黙る。
「少し興味があるだけじゃないか! 相手がいやがったらちゃんとやめてる!」
「……つまり、あなたは過去にも幼い子がいやがるようなことをしていたのね? じゃあ、あなたのお母様に確認してもいい? 警察沙汰になったことはありますかって」
一華の問いに、明彦はぎくりと肩を強張らせた。
「やっぱりね……あなたとは二度と会わない。それと、さっきここで撮った写真を全部消して。クラウドに保存しているならそれも。今後、妹たちに近づいたら、警察を呼ぶから」
「わ、わかったよ!」
明彦はスマートフォンを操作し、画像を消去した。一華は彼の手元を注意深く見つめて、美智と詩織の写真が消えていることを確認する。
明彦の画像フォルダには、インターネットの拾い画像なのか、幼い子どもの写真が大量に保存されていた。あまりの気持ち悪さに顔が引き攣る。
「これでいいだろう! だからいやなんだ、大人の女なんて!」
ぞっとするようなセリフを吐き、明彦は逃げるように走り去っていった。
残された一華は脱力するように肩を落とし、深く息を吐きだした。今日、気づいて良かった。妹たちになにもなくてよかった。
安堵すると同時に、やっぱりと諦めの気持ちが生まれ、苦い笑いが漏れる。
(最初からわかってたじゃない。簡単にはいかないって。私は小さな子を抱えたシングルマザーのようなものなんだから。近づいてくる人には、裏があるって思った方がいい)
諦めるのは得意だ。家事に育児に仕事。すべてをこなすには、恋愛や友人付き合いを諦めるしかないとわかっていたのに、望んでしまった。もしかしたらと期待をしてしまった。
ため息と共に涙が滲んだ。あんな人にしか必要とされない自分が哀れで、虚しかった。不意に全身がずんと重くなったような感覚がした。両肩にのしかかるのは家族の重みだ。
けれど、唇を噛みしめ耐える。泣いていたら弟妹たちを心配させてしまう。
(私……逃げたかったのかな。この環境から)
明彦に「父親代わりになる」と言われたとき、これで子どもたちの面倒を見てくれる手が増えたと喜んだ。自分にとって都合のいい男性と結婚ができるという、浅はかな考えがあった。
今、一華の胸にあるのは悲しみなどではない。結婚がなくなり、将来への展望が真っ黒に染まっていくような喪失感と絶望感だ。
(あの人と結婚しなくて良かったって……心底思うのにね)
きっと、疲れているだけだ。諦めた方が楽だと知っているじゃないか。恋愛も結婚も自分には無理なのだ。少なくとも、亜樹がもっと大きくなるまでは。
(だから……あと何年よ、それ)
なにもかもを放り出して逃げてしまいたい。弟妹たちを可愛いと思うのに、どうして自分ばかりが苦労をしなければならないのか、という恨みがましい気持ちもあって――
ふたたび涙が滲みそうになり、一華は空を見上げて深い呼吸をする。
仕方がないことだ。自分は長女で母親代わりなのだから。
そう自分に言い聞かせているうちに、涙は止まった。
(そろそろ戻らないと……ご飯、待ってるだろうし)
気持ちを切り替え一華が玄関を振り返ると同時に、内側からドアが開いた。
「姉ちゃん? なかなか戻ってこないけど、どうかした?」
玄関から顔を出したのは裕樹だった。亜樹の寝かしつけが終わったのだろう。
「ううん、なんでもない。今日はいろいろ任せちゃってごめんね。バイトも休んでもらったのに」
「いや、それはいいけどさ。もう飯できたって」
裕樹は、赤くなった一華の目に気づいたのか、気まずそうにリビングに目を向けた。どう考えても明彦が帰るタイミングはおかしかったし、ケンカをしたとでも思ったのかもしれない。
「わかった、ありがとう」
「亜樹の風呂で濡れたから、俺も入ってくるわ。先に食ってて」
そう言って、裕樹は脱衣所へ行った。
一華がリビングに入ると、ふたばと美智がテーブルに食事を並べている。
「ふたばも美智も、全部やらせてごめん。あとは私がやるから」
「あとご飯よそうだけだから、たまにはいいよ」
美智がにかっと笑う。一華は美智の髪を撫でるように軽く梳き、ありがとうと返した。
「姉ちゃん、遅ぇよ! 腹減ったし! つうか、さっきのおっさん帰ったの? 結婚の挨拶に来たんだろ?」
先ほどまでふたばとケンカをしていた芳樹は、すっかりとそんなことを忘れたように詩織とお菓子を食べ、テレビを観ながら言った。
美智と詩織はなにも気づいていないようでほっとする。あと少し気がつくのが遅かったら、なにをされていたかわからない。
(ちょっとだけ、一人になりたいな)
一連の出来事でやけに疲れてしまった。今は誰にも話しかけられたくないと思うものの、弟妹たちは放っておいてはくれない。
「思ったんだけど、あのおっさんなんかキモくね? あんなのじゃなくて、もっといい男を選べば?」
思わず、うるさい、と口から出かかった。もっといい男を選べるなら、とっくに選んでいると。吐く息が震えて、気づけば肩で息をしていた。
(母親代わりなんて、したくてしてるわけじゃない。でも、私しか、やる人がいないから……)
我慢して抑えてきた感情が一気に溢れだす。決して口にしてはいけない言葉が出てしまいそうになり、震える唇を噛みしめた。
いつもなら芳樹の軽口くらい反抗期だからと聞き流せるのに、それができない。あんな男しか選べない自分が悔しくて、悲しくてたまらなかった。
「それに全然そういう話してねぇけどさ、姉ちゃん結婚したら誰が飯とか作んだよ」
頭の中でなにかがぷつりと切れた音がした。怒りで目の前が真っ赤に染まる。
もういやだった。なにもかもがいやでたまらなかった。
「そんなの……」
「は?」
「そんなの知らないわよ! どうしていつも私ばっかり! 私だって、好きであなたたちの母親代わりしてるわけじゃない! 誰の面倒も見なくていいなら、とっくにもっといい男と結婚して、こんな家出ていってるわよ!」
一華は肩を震わせながら一気に言った。我慢しようと思っていたのに、一度口を衝いて出た言葉は止められなかった。
「……っんだよ、それ!」
リビングがシンと静まり返る中、芳樹が勢いよくテーブルを叩く。ばんっと大きな音がしたあと、詩織がぐすぐすと泣きだした。
「わかってたよ! 姉ちゃんはどうせ、俺らがいるから結婚できないって思ってるって! 母親代わりを押しつけられて迷惑だって! だったら俺らなんて捨てて兄ちゃんみたいに家を出ていけばいいじゃんか! 悪かったなっ、邪魔者で!」
芳樹は目を真っ赤にして、泣きそうな顔で叫んだ。
「ちが……っ」
芳樹の慟哭が伝染したかのように、今度は美智が泣きだした。ふたばは近くにいる美智を抱き締めながら、心配そうにこちらを見ている。芳樹は背を向けて荒々しくリビングを出ていった。
「芳樹っ!」
「うるせぇっ!」
階段を上がっていく苛立ちがこもった足音のあと、勢いよくドアが閉まる音が響く。
ドアの音で起きてしまったのか、亜樹の泣き声が二階から聞こえてきた。亜樹を抱っこして、もう一度寝かしつけないと。今日は、風呂も歯磨きも裕樹に任せてしまったのだから。
そう思うのに、足が動かなかった。
(泣き止んでよ……なんで泣くの)
いつもなら可愛いと思うのに、亜樹の泣き声さえうるさく感じる。今、亜樹のところに行ったら、この気持ちをぶつけてしまいそうで動けなかった。
(もう、いやだ……いなくなりたい)
美智と詩織、それにふたばも不安そうな顔をしてこちらを見ていた。フォローしなければと思っても、口も身体も動かない。
弟も妹も大事なのに、彼らさえいなければと思う気持ちが、いつもどこかにあった。
母が亡くなる前に結婚し家を出ている兄が羨ましかった。「お兄ちゃんは結婚したんだから仕方がない」――そう言いつつも、心のどこかで兄だけここから逃げられるのはずるいと思っていた。
そんな浅ましい考えを知られたくなくて、まるで仕事のように日々のルーティンをこなしていた。でも本当は苦しかった。誰かに助けてほしかった。
そんなとき明彦と出会ったものの、その期待を裏切られ、失望し、家族に当たるだなんて。
(私……なにしてるんだろう……ちゃんとしなきゃ)
「ごめんね……ちょっと、外で頭を冷やしてくる。亜樹のこと、頼んでいい?」
「お姉ちゃん……ちゃんと帰ってくる?」
不安そうな顔をした詩織が涙を拭いながら聞いてきた。詩織はまだ小学一年生なのに、それでもよくないことが起きたらしいと理解しているのだ。ふたばは美智を抱きしめたまま、一華を見つめている。
「うん、もちろん。もうすぐお父さんも帰ってくるし、その辺散歩してくるだけだから。危ないから家から出ちゃだめよ。鍵はかけていくからね」
一華は詩織の言葉を待たずに背を向けた。
ショックを受けた芳樹の顔を思い出す。芳樹には帰ったら謝ろう。今は冷静に話せる自信がない。
一華は、スマートフォンとバッグを掴み玄関を出ると、ドアをしっかりと施錠した。一人になると、しっかり者の姉、頼りになる姉の仮面が剥がれ落ちていく。
(ちょっと、疲れた……)
シンと静まりかえった玄関先で、深くため息をつく。
住宅街に人気はなく、普段なら少し怖いくらいの夜道が今日に限ってはありがたかった。
一華はとぼとぼと歩きながら、星のない空を見上げた。
胸が苦しくて、吐く息が切なく震える。それなのに涙はこぼれなかった。
(お母さん、ごめんね……私、お姉ちゃんなのに。ちゃんと、お母さんの代わり、しなきゃいけないのに、全然できない)
母が亡くなったときのことを思い出す。
弟妹たちを慰めることや生活を整えることに必死で、母の死を悼む時間なんてまったくなかった。母だってきっと、一華に弟妹たちの面倒を見てほしいと思ったはずだ。
無意識に通い慣れた道を歩いていたようで、商店街の明かりが見えてくる。
早く家に帰らなければ心配する。
そう思っても、顔を合わせたらもっとひどい言葉を投げつけてしまいそうで怖かった。
(もう少しだけ歩いて、帰ろう)
一華は商店街を通り、駅の方へと足を向ける。
すると、スマートフォンの着信音が響いた。明彦が連絡をしてきたのかもと、恐る恐るスマートフォンを見ると、着信は父からだった。
「お父さん? ごめん、少し外に……」
『あいつらから事情を聞いた。帰るのが遅くなって悪かったな』
「ううん、それはいいの。私もそろそろ帰るから、心配しないで。あと、悪いんだけど……結婚、なくなったから。みんなにも伝えておいて」
『そうか、わかった。一華はいろいろ溜め込むからなぁ。今日は帰って来なくていいからぱぁっと遊んでこい。ほら、前に憧れているって言ってたホテルとか。どうせ食事もしてないんだろうし、行ってみたらどうだ?』
精一杯、気遣ってくれているのだろう。たしかに気分転換にはなるかもしれないが、芳樹を傷つけておいて自分だけ遊びに行くなんてできない。
「でも、芳樹に謝らないと」
『んなの、明日でいい。あいつだって自分が言い過ぎたってちゃんとわかってるよ。それに、一華の言葉が本心じゃないってことも。お前は一人で頑張りすぎなんだ、家事も育児もしつけも。それを、全部お前にやらせてる俺が言えたことじゃないんだが……芳樹のフォローはしておくから心配するな。むしろ、こんなときにしか役立てない親父で悪いな』
ゆっくりしてこい――その言葉を最後に電話が切られた。
一華はしばらくの間、本当に家に帰らなくていいのだろうかとスマートフォンを見つめた。
遊びに行くような気分ではない。ただ、このまま家に帰るのも気まずかった。
明日は仕事も休みだし、芳樹が寝た頃に帰り、朝食のタイミングで謝る方がいいかもしれない。
(ホテルか……せっかくだから、行こうかな)
まだ時間も早い。ふと、一人で夜に街を歩くこと自体が数年ぶりだったと気づく。一華の生活はずっと弟妹たちと共にあったから。
一華は最寄り駅から地下鉄に乗り、グランドフロンティアホテル&リゾート東京のある港区内の駅で降りた。駅構内にあるアパレルショップを見ながら、ぶらぶらと歩く。
(こんな風に、ゆっくり服を見るのも久しぶり)
なかなか時間が取れないため、一華の服はすべて通販サイトで購入していた。
制服は上下黒のスーツにスカーフのスタイルだが、中に着るブラウスやシャツは自前で色は白と決められている。
支給品とは別に自分好みのスカーフを購入し身につけるのが、フロントサービス係の間でちょっとした流行となっていた。
いくつかのスカーフを手に取り即決すると、レジに持っていく。時間に追われているわけではないのに、会計を済ませるまで五分もかかっていない自分に苦笑が漏れた。
(明後日、仕事の時に使おう)
新しいスカーフを身につけられると思うと、幾分か気持ちが浮上してくる。
やがて目的のホテルへ到着し、上層階にあるホテル直営のバーに向かった。
空腹ではあったが、今は腹を満たすより酔いたい気分だった。それにバーでもなにか摘まめるものがあるだろう。
店内は淡い明かりに照らされていて落ち着いた雰囲気だ。カウンター席だけでなく、ベルベット調の一人用ソファーを囲うように置かれた円テーブルがいくつかある。カウンターの一段高いステージにグランドピアノが配置されており、土日祝日に来ればピアニストによる演奏が聴けるようだ。
一華はカウンター席に案内され、メニューを手渡された。テーブルにスマートフォンを置き、先にカクテルを注文してからメニューをのんびりと眺める。
(食事メニューは……サンドウィッチくらいか)
メニューにあるのは、チーズやナッツといった酒のつまみとなる付け合わせが数種類とデザートのみ。やはりレストランで食事をしてくればよかったと後悔するも今さらだ。
「食事メニューは、これだけですよね。ご飯とか……」
わかっていながらも、カウンター越しに立つバーテンダーに聞いてみる。
「申し訳ございませんが、当店ではご飯類のご用意はございません。軽食でしたら、こちらのクロックムッシュとクラブサンドウィッチはいかがでしょうか」
「ありがとう……こちらこそごめんなさい」
バーテンダーに申し訳なさそうに謝られて、一華は首を横に振る。メニューにないことをわかっていて聞いたのに、少しもいやな顔をせずに対応してくれたのだから十分だ。
「じゃあ、クラブサンドウィッチと温野菜のサルサ・ロハを」
サルサ・ロハはメキシコ料理によくついてくる赤いソースのことだ。辛みがあって酒のつまみによく合う。
「かしこまりました」
バーテンダーは折り目正しく腰を折った。姿勢が非常に美しく、所作に荒っぽさがまったくない。厨房に注文を伝えに行き戻ってくると、一華の空のカクテルグラスを見て、ドリンクメニューを広げてくれる。
「追加のドリンクはいかがですか?」
「じゃあ、マティーニをいただけますか?」
「かしこまりました」
バーテンダーはカクテルグラスに氷を入れて、グラスを冷やしたあと、ミキシンググラスに氷と酒を入れた。
ミキシンググラスをかき混ぜる手は洗練されており、マドラーがグラスに一度も当たらない。グラスの中で音も立てずに氷がくるくると回る様子は、一華の目を楽しませてくれた。
「すごい」
一華が感嘆の声を上げると、照れた様子で微笑みが返された。
「ありがとうございます」
カクテルを作っている様子を見せるのは一種のパフォーマンスのようだ。バーテンダーの楽しんでもらいたいという思いが伝わってくる。客としてホテルの直営店を利用するのは、諸先輩方が言うようにとても勉強になる。
カクテルグラスを傾けると、爽やかな香りが鼻をくすぐった。一口飲むと、口の中がすっきりするような辛さと共に、酒精の強さで身体が熱くなる。
カクテルはすぐになくなり、また次を頼む。つい酒が進むのは、いくら飲んでも酔えそうにないからだ。
(もっと楽しい気分でここに来たかった……まぁ自業自得なんだけど)
テーブルに置いたスマートフォンのホームボタンをタップするが、着信は一件もなかった。
(芳樹……怒ってるかな。またふたばとケンカしてないといいけど。せっかくお父さんが気分転換にって言ってくれたけど……そんな簡単に切り替えられないよ)
やはりすぐに追いかけて謝ればよかった。
一人でいるからよけいにマイナス思考になっていくのかもしれない。家族を大事に思っている気持ちはうそじゃないのに、もしも母が生きていたらと、何度も何度も考えてしまう。
もっと自由に恋をしてみたい。長期の休みには、贅沢に全国各地のホテルを見て回りたい。そんな本音は、弟妹たちの前ではとても口には出せなかった。彼らだって、一華と同じように我慢をしていることはたくさんある。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
25
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。