独立不羈の幻術士

ムルコラカ

文字の大きさ
上 下
27 / 32
第二章

第二十五話 白いガーゴイル

しおりを挟む
 【オーロラ・ウォール】に対し幻術を解除する為の呪文、《破幻》を試してみた結果がまさかこんなことになろうとは。

 目の前に屹立する巨大な白いガーゴイルを見上げて、私は思わず息を呑んだ。

「何なんだ、こいつは!? 魔物なのか!?」

 サイラスさんの焦りを含んだ声に答えたのは、ギシュールさんだった。

「守護聖騎士ならよーく知ってるでしょう? こいつの造形、大教会のあちこちで見かけるじゃないですかい」

「何だと!? まさか……!?」

 サイラスさんはもう一度目を凝らしてガーゴイルを見つめる。

「ガーゴイル……!? 神の敵を狩る使徒として像が建てられているあれか!?」

 シェーナも気付いたようだ。今私達の眼前に対峙するこの異形の怪物が、普段から良く目にする彫像と同じ造形をしていることに。

「馬鹿な!? あれはただの像だ! ガーゴイルなんて実在する筈が……!」

 頭を振って否定するサイラスさんの言葉に怒りを示すかのように、白いガーゴイルが大きく吠えた。オーロラから出てきた怪物による咆哮が大気を震わせ、身体を振動させる。その感覚は紛れもなく現実のもの。私達が前にしている存在が実体を持つ脅威であることを、これ以上無い程に保証してくれる。

「目の前で起きていることが現実ですぜ。死にたくなけりゃあ逃げずに直視するこってす」

「くっ!」

 歯ぎしりをするサイラスさんがやむなく剣を構え直した時、白いガーゴイルが動いた。巨大な翼を目一杯広げ、地面すれすれの高さを滑空しながら突進してくる。

「サイラス殿、結界を発動させるぞ! 私に合わせてくれ!」

 言いながら、シェーナが再び聖術を使おうとクリスタルに手を添えた。だがそれを押し止めるようにギシュールさんが前へと出てくる。

「無駄ですって、ここはあっしに任せておくんなさい」

 不敵に口の端を釣り上げると、ギシュールさんは手にしたワンドを掲げて呪文を口にする。

「火よ、我に従い彼の者を撃ち抜け! ――“槍炎”!」

 ワンドから赤い光が発し、ギシュールさんの周囲で空気が歪む。瞬間、そこから何本もの火柱が吹き出してガーゴイル目掛けて一直線に飛んでゆく。

 白い巨体に次々と赤い穂先が命中し、八方に大きな火花が散る。炎の直撃を浴びたガーゴイルがたたらを踏んで立ち止まり、天を仰いで苦痛の呻きを上げた。

「思った通り、魔術士の魔法なら通るみたいですねぇ。聖術には耐性があっても、魔族が使う力にはさっぱりですかい。それでよくガーゴイルを象れるもんだ」

 ギシュールさんは大きく余裕を持って手の中でワンドを回転させる。未知の敵との遭遇であるというのに、慌てている様子は見えない。

「ギシュール殿! 貴殿は、こうなることが分かっていたのか!?」

 未だ困惑から抜け切れずにガーゴイルと構えた自分の剣を交互に見比べていたシェーナが、そんなギシュールさんに対して抑えきれない怒りを叩き付ける。しかし憤慨するリョス・ヒュム族の守護聖騎士を前にしてもなお、ギシュールさんは態度を崩さなかった。

「完璧に、とはいいやせんがある程度は。【オーロラ・ウォール】があっしらを閉じ込める檻なら、牢番だってそりゃいるだろうと予想がついてたもんで」

「聖術が通じないことも予測通りなのか!?」

「そりゃそうでしょう。あんたらの使う聖術は、魔界由来のあれやこれやに特化した対抗手段じゃないですかい。同じ神の御業とされてるオーロラ由来のものにゃ通じませんって」

「だが、それなら魔術だって……!」

「もうお忘れで? 今さっきシッスルさんが試した魔術、オーロラにこれ以上無いってくらい作用したじゃないですかい。あれを見たら一目瞭然でしょ?」

 そう言って、ワンドの石突の部分で彼方を指し示すギシュールさん。その先では、破れた布切れのようになったオーロラの切れ目から奥を覗くことが出来た。

 そしてその先にあったのは――渦巻く闇だ。

 オーロラの向こうには、地平線の彼方まで続く陸地があるとずっと想像していた。そこにあるであろう豊かな風景を、何処までも続く青い空と緑の大地を漠然と脳裏に描きながら、毎日のようにオーロラを眺めていた。

 ところが、私が空けたオーロラの穴の向こう側には……何も無かった。何も……空も大地も、生命さえ。

 そこに蟠っていたのは、何もかもを呑み込んでしまいそうな果てしなくドロドロとした深い深い闇だけ。

 これは、何なのだろう? 私が見ているものは、本当に現実なのか?

「さて、色々と衝撃を受けていることと思いやすが、まずは邪魔者をどうにかしましょうや」

 落ち着きを崩さないギシュールさんの言葉で我に返る。焦点を取り戻した意識の先で、体勢を立て直したガーゴイルが憤怒の咆哮を上げながら再び迫ろうとしていた。

「シッスルさん。見た通り、あいつには魔術が効きやす。あっしに合わせて攻撃してくだせえ」

「攻撃って言っても……私、幻術以外はさっぱりで……」

「あいつは幻の壁から出てきやした。もしかしたら通常の攻撃魔法より効果的かもしれやせんよ」

 そんなまさか、と言い返そうとした声が怪物の怒号で遮られる。見ると、ガーゴイルはもう間近にまで至ろうとしていた。

「火よ、我が意に応え我らを護る障壁となれ――“壁炎へきえん”!」

 ギシュールさんの呪文が大地へと吸い込まれ、そこから瞬く間に横一直線に広がる火柱が噴出した。先程自分を襲った炎に怯むかのように、白いガーゴイルが一瞬たじろぐ。

 だが、それも本当に一瞬だけだ。


 ――グガァァァ!!


 激しく燃え盛るガーゴイルの怒りが、眼前の炎の勢いより勝った。灼熱で身を焼かれるのを物ともせず、ガーゴイルは炎の壁を突っ切ってきた。火の粉をあちこちに纏わせた異形の巨体が私達の間合いに入ろうとする。

「ミ、“幻光ミラージュ・ライト”!」

 こうなったら破れかぶれだ。私は半ばヤケ気味に、幻術の光を発してガーゴイルにぶつけた。


 ――ウィギッィィ!?


 すると意外にも、ガーゴイルは大きく怯んでその場で足踏みをした。片手で目元を多いながらもう片方の手やら尻尾やら翼やらを滅茶苦茶に振り回して私達をなぎ払おうとする。

「はっ――!」

 短い気合いと共にシェーナが飛び出した。無軌道なガーゴイルの攻撃を巧みに掻い潜り、瞬く間に懐へ至る。彼女の全身は、既に青い光を纏っていた。

 間合いに到達したシェーナが、ガーゴイルの足の付根辺りを狙って斬り付ける。

 しかしその一撃は、岩のように堅い表皮に阻まれたようだ。ガキン、という重い金属音が鳴って火花が散る。攻撃の勢いに身を任せてガーゴイルの脇をすり抜けたシェーナがこちらに振り返る。その表情は驚愕に染まっていた。

「嘘でしょ!? 完璧に入ったのに……!」

「仮にもガーゴイルですからね、身体は岩石並でしょ。いくらリョス・ヒュムの【スキル】が乗っていても、ただの物理攻撃じゃそりゃ通りませんって」

 容赦のないツッコミを入れながら、ギシュールさんが再度炎を放つ。魔法で形成された炎の玉は、またしてもガーゴイルに命中して大きく怯ませた。

 炎の勢いに押されてガーゴイルが二歩三歩と後退し、彼我の距離が再び開く。

「ま、ここはあっしとシッスルさんが主要火力要因ってとこですかね。頼みましたよ、シッスルさん」

「うぇぇっ!? そ、そんな無茶な!?」

 シェーナの剣技がまともに通用しない以上、魔術士である私達がやるしかない。それは理屈として分かる。

 だけど、それと心の準備が出来ているかは別なのだ。今まで補助要員として働いてきたところにいきなりメインで戦えと言われても、そう易々と気持ちの切り替えは出来ない。

「やるしかないんですよ。幸い、あいつはそれ程強くなさそうです。このまま攻めていけばすぐに終わりますって」

 あくまでもギシュールさんは余裕のある態度を崩さない。確かに彼の言う通り、あのガーゴイルは聖術が効かないというだけで戦いの形としては一方的だった。

 もしかすると、これならこのまま無事に勝てるかも……。

 とか考えた矢先だった。

「ちょっ、何あれ!?」

 私は思わず大声を上げた。ガーゴイルの翼が、いきなりバラバラに砕け散ったのだ。

 いや、驚いたのは正確にいえばそこではない。その直後に起きた奇妙な光景に理解が追い付かなかった。

 細かい破片と化したガーゴイルの翼が、空中で不規則な軌道を描いて再び結集し、その形を変える。白い破片が集まって出来たのは、一振りの巨大な棍棒だった。

「なるほど、あの翼はただ飛ぶだけじゃなくて変幻自在の武器にもなるって寸法なんすね」

「ギシュールさん、冷静に分析している場合じゃないです!?」

 棍棒をそのゴツい両手に持ったガーゴイルが、それを大きく振り上げる。

「何をするつもりだ!?」

 サイラスさんの発した問いに答えるかのように、ガーゴイルが棍棒を地面に叩き付けた。

 私達とガーゴイルの間には、まだ幾らか距離がある。それは明らかに間合いの外であり、到底こちらには届かない攻撃の筈だった。

 だが違う。私は瞬時に間違いを悟った。

「皆、この場から離れて下さいっ!」

 言いざま、私は地面を蹴って横に転がった。視界の端で、同じようにその場を飛び退いたギシュールさんとサイラスさんの姿が掠める。流石に二人共反応が速い。

 直後に、私達とガーゴイルを結ぶ直線上の地面に明らかな変化が起こった。ガーゴイルが棍棒を叩きつけた地点から真っすぐ貫くように亀裂が走り、私達が一瞬前まで立っていた場所に到達する。

 割れた地面の下に呑み込まれる土や雑草の数々。少しでも反応が遅れていれば、私達がああなっていたところだ。

「随分な力技ですねぇっ! そこんとこは教会の使徒に相応しいっ!」

 体勢を立て直したギシュールさんが、再び炎の槍を形成してガーゴイル目掛けて放つ。だが既に棍棒を手元に引き戻していたガーゴイルは、先程とは違い余裕を持ってその攻撃を躱した。それを見たギシュールさんが口笛を吹く。

「良いですねぇ! だんだん身体が暖まってきたってところですかい!」

「私がっ!」

 ガーゴイルとの間合いを詰めていたシェーナも動いた。がら空きになっているガーゴイルの背中に、彼女の剣が打ち込まれるのが見えた。

 しかしまたしても、シェーナの攻撃は固い表皮に阻まれる。ギシュールさんの言葉通り、リョス・ヒュムの【スキル】が乗っていたとしても刀での直接攻撃じゃ分が悪い。

 やはりギシュールさんの言う通り、ここは私と彼で受け持つしかない。

「シェーナ、“幻光ミラージュ・ライト”を使うから離れて!」

 私は再び魔術を放つ前に、まずはシェーナに退避を呼びかけた。さっきまではただの光の魔術に留めていたが、今度の“幻光”では幻術を仕掛けてやるつもりだからだ。

 幻の光は相手を選ばない。今のままではシェーナとガーゴイルの距離が近く、彼女まで巻き込んでしまう。私の魔術が有効なことはついさっき明らかになったのだ。次は幻術であいつを手玉にとる。炎は躱せても光を避けるのは容易では無い。シェーナが離れたところで、幻の術中に落としてやる!

 そう、思っていたのだが……。

「うわあっ!?」

「シェーナ!?」

 シェーナに背中を斬り付けられたことで、ガーゴイルの狙いが彼女に向いた。振り向きざまに放たれた棍棒の一撃は、彼女ではなく地面を打ち、それが再び周囲に亀裂を走らせる。

 先程のような直線上のそれとは異なり、歪な蜘蛛の巣のような不規則な形で広がった亀裂はシェーナの不意を衝いた。如何に【スキル】で身体能力が向上した状態のシェーナであろうと躱しきれない。飛び退った先に出来た亀裂に足を取られ、そこへ隆起した地面が杭のように突き出される。

 シェーナは胴をしたたかに打ち据えられ、吹っ飛ばされて地面を転がった。

「シェーナっ!? ……このっ、よくもシェーナを!!」

 驚愕と怒りに駆られるまま、私は“幻光”をガーゴイル目掛けて飛ばす。シェーナに注意を向けていたガーゴイルは目を覆う間も無く、再び幻の光に晒されてその身を悶えさせる。

 そして、私の幻術が発動した。

「行って、【黒犬ブラック・ドッグ】!」

 術中に置いたガーゴイルに、私は十八番の黒犬達を走らせる。四頭の黒い獣は、大きく散開して三方からガーゴイルに踊りかかった。

 ガーゴイルは未だ身体をフラフラさせながらも、手にした棍棒を力任せに振り回して黒犬達を追い払おうとする。正面と左右から代わる代わる迫りくる黒犬達を迎え撃つガーゴイルの背後で、サイラスさんがぐったりしたシェーナを担いでその場から遠ざかってゆくのが見えた。

「ギシュールさん、今です!」

「合点でさ! シッスルさん、良くやってくれましたねぇ!」

 喜びと昂揚で声を弾ませながら、ギシュールさんがワンドをガーゴイルに向けて構えた。

「とっておきをくれてやりますぜ! ――炎よ、極大の波となりて阻むものを消し去り給え、“大炎嘯だいえんしょう”!!」

 ワンドの先から、巨大な炎の大津波が放たれて飛んでゆく。それは周囲の自然を焼き尽くしながら真っすぐ突き進み、黒犬達との戦いに気を取られていたガーゴイルを頭から呑み込んだ。


 ――アガアアアァァァ……!


 炎の大津波の中で、影となったガーゴイルの断末魔が響き渡った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

エクリプシオン・ナインズ

我楽多ネコ
SF
人類の暮らしは新物質『エクリプス』の発見によって科学技術の発展をしていった。 エネルギー問題から解放され、人間は逃れられなかった『死』からも解放されようとしていた。 だが、そんな世界は巨大地球外生命体『神兵』の襲来によって一瞬にして壊滅させられた。 そんな人類の脅威と戦くべく作られた対神兵用決戦人型兵器『エクリプシオン』 その兵器に乗ることになった臆病な少女 ユイ 戦いのために生まれてきた少年 ザックスとの出会いが物語を加速させていく。 少年少女たちが戦う先にあるのは希望か絶望か

サボテン

恋愛
主人公である、僕と彼女が付き合ってからの、話。タイトルの意味がわかると泣けるかも。

【完結】苦しく身を焦がす思いの果て

猫石
恋愛
アルフレッド王太子殿下の正妃として3年。 私達は政略結婚という垣根を越え、仲睦まじく暮らしてきたつもりだった。 しかし彼は王太子であるがため、側妃が迎え入れられることになった。 愛しているのは私だけ。 そう言ってくださる殿下の愛を疑ったことはない。 けれど、私の心は……。 ★作者の息抜き作品です。 ★ゆる・ふわ設定ですので気楽にお読みください。 ☆このお話は完全フィクションです、創作です、妄想の作り話です。現実世界と混同せず、あぁ、ファンタジーだもんな、と、念頭に置いてお読みください。 ☆作者の趣味嗜好作品です。イラッとしたり、ムカッとしたりした時には、そっと別の素敵な作家さんの作品を検索してお読みください。(自己防衛大事!) ☆誤字脱字、誤変換が多いのは、作者のせいです。頑張って音読してチェックして!頑張ってますが、ごめんなさい、許してください。 ★小説家になろう様にも公開しています。

煌焔〜いつか約束の地に至るまで〜

紫南
キャラ文芸
浄化の力を持つ一族『華月院』 そこに無能と呼ばれ、半ば屋敷に軟禁されて生きてきた少女 華月院樟嬰《カゲツインショウエイ》 世話役の数人にしか見向きもされず、常に処分を考えられる立場。 しかし、いつしか少女は自分を知るため、世界を知るために屋敷を脱け出すようになるーーー 知ったのは自身に流れる特別な血と、人には持ち得ないはずの強力で膨大な力。 多くの知識を吸収し、身の守り方や戦い方を覚え外での立場を得る頃には 信頼できる者達が集まり、樟嬰は生きる事に意味を見出して行く。 そしてそれは、国をも揺るがす世界の真実へと至るものだったーーー *異色のアジアン風ファンタジー開幕!! ◆他サイトで別名で公開していたものを移動、改稿の上投稿いたしました◎ 【毎月10、20、30日の0時頃投稿予定】 現在休載中です。 お待ちください。 ファンタジーからキャラ文芸に変更しました。

それではみなさま、ごきげんよう〜服飾師ソワヨは逃げ切りたい〜

とうや
恋愛
服飾師として活動するわたくしの元に父が持ってきた縁談は、2年前、親友のリーゼロッテを婚約破棄した王太子だった。王家総出で再教育したはずの王太子は、実は何も変わっていないようで。 よろしい、ならば戦争だ。 連載中のBL小説『腐女神様の言う通り』の服飾師ソワヨの話を少し掘り下げました。 恋愛、結婚の世界観は後継問題さえクリアすれば同性婚もOK。むしろ王族、貴族間では王族貴族を増やしすぎないように同性婚が推奨されます。 頭空っぽにしてお読みください。 ************************************       ATTENTION ************************************ ※恋愛要素薄め。 ※ガールズラブ多し。主人公はなぜか女性にモテる女性です。 ※17話+挿話で完結。毎日8時と20時に更新。 ※誤字脱字報告、いつもありがとうございます。感想などが書いてなければ認証せずにそっと修正します。

婚約者が高貴なご令嬢と愛し合ってるようなので、私は身を引きます。…どうして困っているんですか?

越智屋ノマ@甘トカ【書籍】大人気御礼!
恋愛
大切な婚約者に、浮気されてしまった……。 男爵家の私なんかより、伯爵家のピア様の方がきっとお似合いだから。そう思って、素直に身を引いたのだけど。 なんかいろいろ、ゴタゴタしているらしいです。

よくある婚約破棄なので

おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。 その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。 言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。 「よくある婚約破棄なので」 ・すれ違う二人をめぐる短い話 ・前編は各自の証言になります ・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド ・全25話完結

私をもう愛していないなら。

水垣するめ
恋愛
 その衝撃的な場面を見たのは、何気ない日の夕方だった。  空は赤く染まって、街の建物を照らしていた。  私は実家の伯爵家からの呼び出しを受けて、その帰路についている時だった。  街中を、私の夫であるアイクが歩いていた。  見知った女性と一緒に。  私の友人である、男爵家ジェーン・バーカーと。 「え?」  思わず私は声をあげた。  なぜ二人が一緒に歩いているのだろう。  二人に接点は無いはずだ。  会ったのだって、私がジェーンをお茶会で家に呼んだ時に、一度顔を合わせただけだ。  それが、何故?  ジェーンと歩くアイクは、どこかいつもよりも楽しげな表情を浮かべてながら、ジェーンと言葉を交わしていた。  結婚してから一年経って、次第に見なくなった顔だ。  私の胸の内に不安が湧いてくる。 (駄目よ。簡単に夫を疑うなんて。きっと二人はいつの間にか友人になっただけ──)  その瞬間。  二人は手を繋いで。  キスをした。 「──」  言葉にならない声が漏れた。  胸の中の不安は確かな形となって、目の前に現れた。  ──アイクは浮気していた。

処理中です...