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case1 ウツミ・ルイ
ウツミ・ルイは水球を弾く①
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雨のにおいは心が走る。
じっとりと皮膚に纏わりつく感覚は前進しようとする両ひざへ張りつく。
鈍色の空からは年季の入ったケトルに似た淀んだ光が差していた。
ぼくは急かされるように雑貨屋のガラス扉を開けると、傘についた細かい雨粒を振り落とした。
プライマリースクールが終わると、父が営む雑貨屋へ足を運ぶ。自宅へ帰る前に店番をするのが習慣だった。隔日の16時~18時。店内は固定客がつくかつかないかくらいの凝った内装で、程よくアンティーク品も陳列されている。2週間に一度、ちょっとだけ品を変える。そんな雑貨屋だった。穏やかな表現をするならば、知る人ぞ知る隠れ家的な店だった。
苦手な国語の授業中、先生から指名されたぼくのように、はっきりしない雨の降る日は、いくら掃除をしても積もっている砂埃と、焦げ茶色になった桜の床の匂いが、入り混じって余計にくたびれた雰囲気を醸し出す。
店の入口に設置された傘立てへ、手に持っていたシンプルな黒い傘を差すと、店の奥へと一直線に歩いた。
「雨はひどいかい?」
父は陳列された品を整えながら、声だけをこちらに向けた。店にいる間は黒い縁の丸い眼鏡をかけている。ミヅハで生まれ育った彼は手先が器用だった。
「霧みたいだよ。息をするたびに雨が肺の中に入り込むような気がする」
「だったら傘はいらないか」
「それはお父さんの自由だ」
そうだね。と父は言うとぼくとハイタッチして店を出ていった。
鬱陶しい雨のおかげで、お気に入りのスニーカーが湿ってしまった。ぼくはカウンターに備え付けられた少し背の高い椅子に座り、もぞもぞとつま先を動かした。父が誕生日に買ってくれたアクアブルーのスニーカー。ぼくと母の瞳の色と一緒だった。
足元のストーブは、煌々とカーボンを朱色に染めている。
客のほとんどいないこの時間帯、入れ替わりで出て行く父は夕飯を準備する。仕事で家に居つかない母はまったく料理ができなかったため、物心ついた頃にはキッチンと言えば父の後ろ姿が思い浮かぶようになっていた。地味なエプロンをかけた父が、小器用に調理を進める音色は聞いていて心地が良かった。それが見られなくなったのは残念だったが、最近は店へ戻ってくるまでの時間によってメニューがわかるようになってきた。
店内も家と同様に閑散としている。キャッシュドロアを引くと一昨日とほとんど様子が変わっていない。
店を出ていく際に見せた父の呑気な表情とはどうも一致しないため、僕は首を右に捻ると、唇を微かに歪めた。
カウンターの真正面に入り口のガラス扉がある。通りを歩く人々は皆どこか早足だった。家路を急ぐように、雨を避けるように、街の背景には目もくれない。ルイは頬杖を突きながら、通り過ぎていく外の世界を眺めていた。しばらくすると、背景に溶け込んでいた雨がくっきりと見えるようになった。移動する世界と垂直に交わる多数の透明な線は、不規則に石畳の歩道を叩き続けた。
ぼくは風景の変わらないガラス扉から視線を外すと、自分の掌を凝視する。『水』を生み出すために。
念じると表現すると陳腐だが、水を創り出したいと思ったその瞬間に、皮膚を数ミリ離れた空間から発生する。距離はゼロにもできるし、数メートルまで広げることが可能だった。年齢を重ねるごとにコントロールできる距離は伸び、生成量は増加した。なぜ、体の周囲から水が生成するのか、幼い頃から不思議だった。その力は母にあって、父にはなかった。
ぼくはピンポン玉大の水球を鼻先に浮かべると、そっと息を吹きかけた。ふよふよと空気中を漂って、僕から離れていく前に中指で強く弾く。水球は砕けちり、今も外で降り注ぐ雨のように、日に焼けたカバザクラの床へ染み込んでいった。
じっとりと皮膚に纏わりつく感覚は前進しようとする両ひざへ張りつく。
鈍色の空からは年季の入ったケトルに似た淀んだ光が差していた。
ぼくは急かされるように雑貨屋のガラス扉を開けると、傘についた細かい雨粒を振り落とした。
プライマリースクールが終わると、父が営む雑貨屋へ足を運ぶ。自宅へ帰る前に店番をするのが習慣だった。隔日の16時~18時。店内は固定客がつくかつかないかくらいの凝った内装で、程よくアンティーク品も陳列されている。2週間に一度、ちょっとだけ品を変える。そんな雑貨屋だった。穏やかな表現をするならば、知る人ぞ知る隠れ家的な店だった。
苦手な国語の授業中、先生から指名されたぼくのように、はっきりしない雨の降る日は、いくら掃除をしても積もっている砂埃と、焦げ茶色になった桜の床の匂いが、入り混じって余計にくたびれた雰囲気を醸し出す。
店の入口に設置された傘立てへ、手に持っていたシンプルな黒い傘を差すと、店の奥へと一直線に歩いた。
「雨はひどいかい?」
父は陳列された品を整えながら、声だけをこちらに向けた。店にいる間は黒い縁の丸い眼鏡をかけている。ミヅハで生まれ育った彼は手先が器用だった。
「霧みたいだよ。息をするたびに雨が肺の中に入り込むような気がする」
「だったら傘はいらないか」
「それはお父さんの自由だ」
そうだね。と父は言うとぼくとハイタッチして店を出ていった。
鬱陶しい雨のおかげで、お気に入りのスニーカーが湿ってしまった。ぼくはカウンターに備え付けられた少し背の高い椅子に座り、もぞもぞとつま先を動かした。父が誕生日に買ってくれたアクアブルーのスニーカー。ぼくと母の瞳の色と一緒だった。
足元のストーブは、煌々とカーボンを朱色に染めている。
客のほとんどいないこの時間帯、入れ替わりで出て行く父は夕飯を準備する。仕事で家に居つかない母はまったく料理ができなかったため、物心ついた頃にはキッチンと言えば父の後ろ姿が思い浮かぶようになっていた。地味なエプロンをかけた父が、小器用に調理を進める音色は聞いていて心地が良かった。それが見られなくなったのは残念だったが、最近は店へ戻ってくるまでの時間によってメニューがわかるようになってきた。
店内も家と同様に閑散としている。キャッシュドロアを引くと一昨日とほとんど様子が変わっていない。
店を出ていく際に見せた父の呑気な表情とはどうも一致しないため、僕は首を右に捻ると、唇を微かに歪めた。
カウンターの真正面に入り口のガラス扉がある。通りを歩く人々は皆どこか早足だった。家路を急ぐように、雨を避けるように、街の背景には目もくれない。ルイは頬杖を突きながら、通り過ぎていく外の世界を眺めていた。しばらくすると、背景に溶け込んでいた雨がくっきりと見えるようになった。移動する世界と垂直に交わる多数の透明な線は、不規則に石畳の歩道を叩き続けた。
ぼくは風景の変わらないガラス扉から視線を外すと、自分の掌を凝視する。『水』を生み出すために。
念じると表現すると陳腐だが、水を創り出したいと思ったその瞬間に、皮膚を数ミリ離れた空間から発生する。距離はゼロにもできるし、数メートルまで広げることが可能だった。年齢を重ねるごとにコントロールできる距離は伸び、生成量は増加した。なぜ、体の周囲から水が生成するのか、幼い頃から不思議だった。その力は母にあって、父にはなかった。
ぼくはピンポン玉大の水球を鼻先に浮かべると、そっと息を吹きかけた。ふよふよと空気中を漂って、僕から離れていく前に中指で強く弾く。水球は砕けちり、今も外で降り注ぐ雨のように、日に焼けたカバザクラの床へ染み込んでいった。
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