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第 四 章 晴れぬ迷い
第十六話 沈 む 心
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昨日の非情な出来事に混乱しバイトなんてしていられる状況ではなかった。
それでも昨日は無理して仕事をしたんだ。
だから、今日は休ませて貰っている。しかし、昨日のバイト中、ホント嫌な雨が降っていた。
まるで何か嫌な事を暗示するそんな感じの雨だった。
2004年8月17日、火曜日
昨日、体力的疲れと精神的疲れが同時に襲い、目が覚めた時は午後3時を過ぎていた。
「フアァ~~~~」と大きな欠伸をしながらまだ疲れが取れない体をベッドの中から外に出す。
まだ眠気が残る頭を軽く振り、目を擦りながら洗面所へと向かっていた。
そこで極一般的な行動をとり、それが終わればリヴィングに戻り新聞をざっと読んだ。
書かれている記事は汚職だの不正だのいつもと変わりない俺にとってくだらない記事が載っていた。
それを読み終えた俺は出かける準備をして、外へと向かった。
行く場所は決まっている。春香のいる病院だ。
昨日のあの出来事の後の彼女の容態が心配だった。でも心配する事ないのかもしれない。
何か重大な事があれば、春香の父親である秋人さんが昨日の内に連絡してくれただろうと思ったからだ。
そんな安易な気持ちでその場所へと向かっていた。だけど、世の中ってそんなに甘くないようだぜ。
* * *
病院に到着し、今は春香の病室にいる。
しかもかなり気分は重い。
彼女の寝顔を見ながらここへ来る前に会って話をした調川先生の言葉を思い出していた。
*
「柏木君、気をしっかり持って私の言う言葉を聞いてくださいね」
「はい、何でしょうか」
先生の言う事の重要さをあまり考えもせず、簡単にそう答えていた。
「昨日、柏木君と貴方のお友達の方の面会の時一体何があったのか知りませんけど・・・、再び凉崎さんは深い眠りへと就いてしまいました」
「・・・?ハハハッ、先生冗談はよしてくれよ!嘘だよな?嘘なんだろ?」
「お気持ちはご察しいたしますが私は医者で有る故、嘘は申せないのですよ」
「じゃぁ、春香、今度はいつ目覚めるんだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「答えてくれよぉーーー、センセエェっ」
「判りません、それがいつなのかは。今にでも目を覚ますかもしれません。しかし、もう一生目を覚ます事がないかもしれません。それが彼女の今の容態です」
「嘘だぁーーーーーーーーー!!!」
ここにいる人達の迷惑なんて顧みず、声を張り上げそう叫んでいた。調川先生のその言葉で貴斗のヤツに再び怒りを覚えた。
だけど、それも直ぐに覚めてしまう。
「大変言いにくいのですが・・・、今の貴方にもう一つお伝えしておく事があります。藤原貴斗君、貴方のお友達でしたね。・・・、彼も現在ここに入院しておりましてね・・・」
怒りを表面に出している俺にそう口にしていた。
更に先生の説明の言葉は続き、ヤツは俺と他の連中に見捨てられた後、あの豪雨の中で交通事故に遭ったと告げていたんだ。
更に貴斗が今、生死の境にいる事を知ったんだ。
「馬鹿な・・・・・・」
その後の言葉の後に続く言葉は何もなかった・・・、何も言えなかった。
*
春香の手を握りながら再び眠りについてしまった彼女に語りかけていた。
「何で、お前ばっかこんな目に遭うんだ」
「どうして、貴斗まであんな目に遭わなきゃならないんだよ」
「なぜ、俺は大切な人達をこうも簡単に傷つけちまうんだ?」
「答えてくれ、春香?また俺駄目になっちまうよ。・・・・・・、香澄が傍にいても今度こそ・・・・・・・・・、駄目になっちまうよ」
「春香、もう俺をこんな気分にさせないでくれぇーーーーーーっ!」
自分勝手な、その叫びは春香に何の効果も与えず虚しくこの部屋の周囲に響くだけだった。
病んだ心のまま、春香とこの場の時間を共有して、何かに気付いた頃に俺はここから出て行った。暗い面で貴斗のいる病室に足を向けていた。
その場所に辿り着くと一人の看護婦が扉の前に椅子を置き座っているのが見えた。
「アラ、柏木さんじゃないどうしたんですか?」
知っている風な口ぶりでその看護婦は俺に声を掛けてきた。
彼女の顔を良く確認する。知っている人だった。
「南さん?」
「そうよ、どうしたんですかそんな暗い顔をした?」
「南さん・・・、ここにいるヤツとは面会できないんですか?」
「ここの患者さんとお知り合い?もしかして、お友達とか?」
重い気分だったが南さんに貴斗との関係を教えてやった。
「そう、でも面会謝絶なの、御免なさい」
「駄目なのかヤッパリ・・・」
それが分かると彼女に背を向け病院の入り口へ方向を向けていた。
南さんが何かを言っていた。
でも俺の耳、左から右へと筒抜けしていた。
帰りの俺の足取りは鉛のように重かった。
何とか家に辿り着くとそこには香澄が俺の帰りを待っていた。
「宏之、お帰り・・・?何よその酷い面は何か在ったの?」
「うっせぇ・・・・・・、ごめん香澄に当たっても仕方ないよな」
「ホント、どうしたって言うのよ」
「悪い報せが二つ」
気分がこれ以上滅入りそうだった。
だから言いたくなかった。しかし、香澄に教えない訳にはいかないのも事実だった。だから、彼女に春香と貴斗の今の容態を教えてやろうとした。
俺の口から出たのは春香の事だけでヤツの事は教えてやれなかった。
なぜ言えなかったのか?言えば俺以上にショックを受ける・・・、そう意識のどこかで感じたからだと思うぜ。
「イッ!それ本当なの」
「嘘でこんな事、言えるか」
調川先生が言っていた言葉と似たような言い回しで彼女に答えていた。
香澄も俺の口にした事で驚きと動揺を隠すことなく表していた。
俺が彼女にそれを教えると二人して憂鬱な気分で今日を過ごす事になってしまった。
2004年8月23日、月曜日
今朝方、会えないって頭ン中では理解していたけど香澄と一緒に貴斗のところに向かっていた。
病院に着けば何故かそこには慎治がいたんだ。奴も貴斗の見舞いに来たらしい。
どうしてなのか知らないが慎治と一緒なら貴斗の面会を許された。
病室の前の椅子に座っていた南に許可を貰いその部屋の中に足を踏み入れた。
その部屋の中に入ると藤宮がいた・・・、とても冷たい視線を俺たちに向けていた。
当たり前かもしれない。貴斗が事故にあってしまった原因を作った俺がいるんだから・・・。
色々な複雑な思いで俺はソイツが眠るベッドを除いていた。
見るに耐え難いくらい包帯と色々な機械がヤツに取り付けられていた・・・。
心の中に痛みが走る・・・、精神的作用が肉体にも及んできたのか全身がちりちりと痛かった。
そんな状態になりながらも声など聞えないだろう貴斗に言葉を掛けていた・・・。
それは身勝手な言葉なのは分かっている積りなんだけど・・・、口にしていた。
えっ?どんな事を口にしたのか、って?それは他のやつ等、藤宮や慎治にでも聞いてくれ。
俺自身がここでそれを言葉にするつもりは更々ないぜ。
面会を終えてからはみんなと別れ、重い気持ちのままバイトへと向かった。しかし、俺は器用な奴かもしれない。それとも年月がたち成長したのかもしれない。
バイトの忙しさのお陰で嫌な事を忘れられた・・・、いや、多分それは現実の嫌なことから逃げているだけなのかもしれない。でも、その気分を取り払えているのはバイト中の忙しい時だけだった。
「いらっしゃいませぇ~~~、何名様でしょうか?」
張りのある声を出し次から次へと押し寄せる客を相手にしていた。
「そちらが終わったらこれあそこのテーブルに出してくださる?」
「わぁ~~~、柏木さん邪魔、邪魔どいてぇ。お待ちどう様でしたぁ~~」
知美が俺へ、そんな風に言葉を掛け、忙しく動いている夏美は持っているものを落とさないようにそう口にし、いつものように輝彦は仕事中接客中以外無口で動いていた。
他の店員も手の空いたやつ等が待ち客に対応していた。
この喫茶店内はそんな慌ただしさに包まれていた。
何もしていない時、腐っているのが嘘の様に俺も負けない様にと体を動かしていたんだ。
いつも働きながら思うんだけどここは俺がバイトする前の改装工事で広くなっている。
だから、喫茶店って呼び方やめてレストランにした方がいいじゃないのかとそんな風に思う事が多かった。
喫茶店トマトじゃなくてレストラン・トマト。
結構シックリとした感じで合っていると思うんだけどね。
そんなくだらない事を思いつつもテキパキ仕事をこなし、いつも休憩を入れている午後4時まで働いた。
その時間帯に入ると急に客の数が減り休憩を取る事が出来る。
今いつものメンバーで裏の休憩室で休んでいる所だった。
「柏木さん、一体どうしてしまったんですか?最近の休憩中の先輩はいつもそんな感じに暗い顔してますよ」
「そうですよ、元気のない柏木先輩って変ですね」
「別にお前達が気にする事じゃないだろ。それに仕事でポカしてる訳じゃないんだし」
二人が言うように今の俺の表情は暗く沈んでいる。
春香と貴斗があんなになっちまって一週間が経つ。
調川先生が言っていたように春香は簡単に目覚めてくれない。
貴斗のヤツはいまだに生と死の境界線をさまよっている。
ヤツのそんな状態、峠を越えるか越えないかってそんな状態がこんなに長く続くのは珍しいケースだって先生は言っていた。
貴斗も死の淵で何かに悩んでいるのかもしれない。
そんな事を思うと明るい気分って感じではいられないんだ。
「先輩にそんな顔されて気にするなっていわれてもそんな事出来ません」
「そうですよ、柏木先輩から見たら俺達年下で頼りないだろうけど、話してくれれば何かしてあげられる事だったあるかもしれないだろ」
「こればっかりは無理なんだ。誰に話したって解決なんてできゃぁしないよ」
〈はぁ~~~、年下にまで迷惑掛けちまっているマジで俺って情けないぜ〉
「そんな柏木さん」
「よせよ、桜木!先輩がああ言ってんだ俺達が言っても意味ないだろ」
「舘花くぅん・・・」
「柏木先輩、今の俺達に何にも出来ないようだけど若し何か出来る事があったらいつでも言ってください!」
「私もです!」
「テル、夏美ちゃん、アリガト。さぁ、シケててもしゃぁ~~~ない。仕事始めっか」
俺はそんな風に言葉に出すと先にここから出てフロントへと移動した。
* * *
残りの仕事時間もクタクタになるまで体を動かし今日のノルマも終えて帰宅していた。
そこへ到着すれば同じ頃に香澄もやってきていた。
「宏之おかぇりぃ~~~」
「ただいまぁ、香澄も今仕事の帰りか?」
「私は違うわ、買い物にいってきたのよ。ホラッ」
彼女はそう言って近くの24時間スーパー羽ケ崎屋の買い物袋を見せていた。
「直ぐに夕食の準備をするから待っててね」
「いつも、わりぃな」
「いいって、あたし、アンタの彼女よ」
「・・・、そうだったな」
一瞬、香澄に返す言葉に詰まってしまった。
俺は一体誰の事を愛し、大切にしたいって思っているんだろうか?
それは今眠っている春香?
それとも今ここでこうして話している彼女?
若し、春香があんな状態のままなら俺は香澄とずっといるのかもしれない。
じゃぁ、春香が目覚めたら?
しかも、前みたいなあんないい加減な状態じゃなく、今を認識できるようになった状態で目覚めたら?
ここでまた己の優柔不断さが答えを出すのを躊躇ってしまう。
「宏之、どうしたの?」
「なんでもないよ」
「嘘おっしゃい!アンタ顔に直ぐ出るからばればれよ」
香澄が言うように今、変な顔してたんだろうな。
俺にはポーカーフェイスって出来ないみたいだ。
だが今、思っていた事を口に出して言えば香澄は不安を感じるだろう。だから、本当の悩みを隠すように口を動かす。
「貴斗の事だ」
しかし、そう言うと香澄の表情が激変し、その顔を歪め、瞳を潤ませ大粒の涙を浮かべてきた。
地雷を踏んじまった。
不味い人物の事を口にしてしまったようだ。
後悔した時は既に遅く彼女は泣きだしてしまった。
「ワァーーーン、ヒロユキィ!アタシどうすればいいの?何てしおりンに謝ればいいの?どんな顔してしおりンに会えばいいの?アタシがあんな事をしなければ貴斗あんな目に遭わずに済んだかも知れないのに」
「泣くなよ香澄!お前ばっかが悪い訳じゃネェだろっ!!俺だって後悔してんだ気を失うまでアイツを殴ってなきゃあんな事になりゃぁーしなかったかも知れないんだ」
香澄もあの出来事の事を悩んでいたようだった。
悩んでいるのは俺だけじゃなかった。
でも悪いのは結局のところ俺なんだろうぜ・・・。
他の連中、慎治、藤宮、貴斗、そして春香もみんな何かに悩み苦しんでいたのかもしれない。
だけど、こんな状態の今の俺にはそれを知る事なんって出来るはずもなかった。
なにせ、自分の事で一杯一杯、他人に気遣ってやれるほど俺の心は広くないんだ・・・。
そんな事を思っていたらいつの間にか香澄を抱き寄せていた。
「・・・、ヒロユキィ~~~」
「悩んでいるのは俺だけじゃなかったんだよな、お前だって悩んで居たんだよな、気付かなくてごめん」
そう言葉にすると香澄はその感情を隠さないで慟哭していた。
そんな彼女を強く抱きしめながら暫くそのままでいた。
どれだけの時間が過ぎただろう。
香澄も冷静になり泣くのを止めていた。
俺も彼女と抱擁していた為なのか気分が少なからず軽くなっていたような気が・・・・・・、する。
「あっと、イケない宏之お腹空いてんのよね?」
「アッあぁ、腹は減っている」
「直ぐ準備するからお風呂にでも入って待っていてね」
香澄にそう言われたので先に風呂に入り汗を流す事にしたんだ。
体を洗ってからバイトで酷使した体の疲れを癒すようにドップリと風呂に浸かっていた。
風呂に入ると精神的にも疲れが吹っ飛ぶような感じだった。
そんなことを思うのは多分、日本人だけだろうぜ。
丁度いい湯加減だったので長風呂好きな俺は何も考えず目を瞑ってボォ~~~としていた。逆上せ始めた頃、ガラスの扉越しに香澄が聞こえてきた。
「いつまで宏之は入ってんのぉ~ノボセちゃうわよ。それにとっくにご飯の準備出来てんのよ」
「ホェ~~~」
と変な返事を返しながら浸かっていた風呂から体を出し洗面所で体を拭いてからタオルを腰に巻いてリヴィングに戻って行った。
「何よその格好はちゃんと服を着てきなさいよ」
「ナンだよ、俺のカラダ、見慣れていないわけじゃないだろ?」
そう言ってチラチラと巻いてあったタオルの前方をパタパタさせた。
「ばぁっかじゃないの宏之、アンタ少しは礼節ってモノを考えなさいよ。いつまでもそんな格好しているとぶっ飛ばすわよ」
香澄は呆れる様な表情を浮かべそう言ってきた。
これ以上それをすると身の危険を感じた俺はサクッと着替える事にしたんだ。
それからは香澄の作ってくれた物を口にし、やる事やって一緒のベッドで彼女と次の朝を向かえることになる。
2004年8月26日、木曜日
俺はこの日・・・、彼女の誕生日を確り憶えていた。だから、香澄と一緒に外出をしているところだった。
今日は彼女の二十一歳の誕生日。
まともに彼女と二人きりでこれを迎えるのは始めてだった。
洒落たレストランとかで歓迎してやりたかったけど俺ってそんなの柄じゃないから団欒できる風月って名前の居酒屋に来てカウンターに座っていた。
「何のシャレも効いてないこんなとこだけど香澄、誕生日おめでとう」
「アリガト、アンタとだったら別にどこでも気にしないわ」
「お化け屋敷でもか?」
「ぶっ飛ばすわよ」
『ドカッ※』
「いってなぁ、手加減しろよ。・・・、それとその手の早さ何とか何ネェのか?」
香澄は言葉と同時に俺の背中に鉄拳をくれていた。
「あんたがどうしようもないこと言うからでしょ、自業自得よ」
「へい、へいそうでしたね。なぁ、香澄ヤッパ誕生日祝ってもらうのって嬉しいのか?」
「当然よ、好きな人と一緒ならなおさら」
「大切な仲間達とは?」
「そんなの聞かなくたって分からないのアンタ?」
「確認しただけ!」
彼女はたまらなく良い表情を向けそう言ってきた。
何でそんな事を香澄に聞くのかって?
ここ数年の彼女の誕生日の日ってあんまいい事なかったからだよ。
「どぉ~~~、したのぉ?ひろぉゆぅ~きぃそんなぁ顏しちゃってぇ」
「ハハッ、なんでもネェよ」
〈香澄の奴一杯目でこうかよ。ホント酒好きなくせに酒に弱い〉
〈ずいぶん前に貴斗や慎治に言われたっけな、俺って考えた事が口や顔に出易いって〉
〈忠告されたけど全然直っちゃいネェよ〉
〈ははっ、生きてくって難しいやぁ〉
そんな事を考えながら俺もビールを飲んでいた。
「ニャハッ、ビールついかぁ」
「アッ、俺もお願いします。板前さぁ~~~んそれとネギマとツクネ、マグロの兜煮の追加もお願い」
「へぇい、わかりやした」
俺と香澄は好きなもんを注文し、酒やビールと一緒にそれらを味わうようゆっくりと摘んでいた。
ここに来てからもう二時間くらい経つかな香澄の奴は完全に出来上がっちまっていた。
香澄の場合、酒を呑むと異常なくらいしおらしくなり、呑み過ぎるとしまいに寝てしまう。
寝ている香澄を眺める。本当に幸せそうな顔だった。
〈酒は嫌な事を忘れさせてくれるか〉
〈そんな言葉も強ち嘘じゃないのかもな〉
香澄のそんな表情を見ていたらフッとそんな事を思っていた。
人にはそれぞれ現実逃避の仕方ってのがある。
香澄の場合は酒か?俺の場合は忙しいくらいに仕事する事か?他の連中、慎治、藤宮、貴斗それと春香とかどんな風に嫌なこととか忘れたりするんだろう?出来るならそんな事を奴等に聞いて見たいものだ。
会計を済ませ、寝ている香澄を負ぶさりゆっくりと歩きながら家に帰ろうとしていた。
* * *
殆ど俺の家の近くに差しかかった所で香澄が目を覚ます。
「有難う、宏之」
彼女のその声は既に酔いが醒めているのを感じ取れた。
「香澄、起きちまったのか?もう少し寝てりゃぁいいのに。まっ、目覚めちまったもんは仕方ない。その声だと酔い醒めてんだろ?なら自分で歩けよ」
そう言って香澄を下ろそうとした時、彼女は嫌がるように拗ねてきた。
「イジワルゥ、宏之もう少しこのままでいさせてくれたって良いじゃないの」
「はい、ハイ、俺は意地悪だぜ」
そう言うものの彼女を負ぶったまま再び歩き出した。
「ネェ、宏之、あたし達これからもずっと一緒よね?」
「あぁ、もちろんだ」
香澄の酔いも既に醒めていた。
ここで返答をこまねいていては彼女の機嫌が悪くなるのは明白だった。だから即答で彼女に返した。
でもそんなの今の俺に実際、決められることじゃない。
俺達の未来は不安だらけだ。
香澄と俺はこうして今、仲睦ましくしているが別の所ではとんでもない事が起こっている事を知らないでいるんだ。しかし、それも明日になれば分かることだった。
それとその出来事でまた俺は香澄を傷つける事になってしまう。
それでも昨日は無理して仕事をしたんだ。
だから、今日は休ませて貰っている。しかし、昨日のバイト中、ホント嫌な雨が降っていた。
まるで何か嫌な事を暗示するそんな感じの雨だった。
2004年8月17日、火曜日
昨日、体力的疲れと精神的疲れが同時に襲い、目が覚めた時は午後3時を過ぎていた。
「フアァ~~~~」と大きな欠伸をしながらまだ疲れが取れない体をベッドの中から外に出す。
まだ眠気が残る頭を軽く振り、目を擦りながら洗面所へと向かっていた。
そこで極一般的な行動をとり、それが終わればリヴィングに戻り新聞をざっと読んだ。
書かれている記事は汚職だの不正だのいつもと変わりない俺にとってくだらない記事が載っていた。
それを読み終えた俺は出かける準備をして、外へと向かった。
行く場所は決まっている。春香のいる病院だ。
昨日のあの出来事の後の彼女の容態が心配だった。でも心配する事ないのかもしれない。
何か重大な事があれば、春香の父親である秋人さんが昨日の内に連絡してくれただろうと思ったからだ。
そんな安易な気持ちでその場所へと向かっていた。だけど、世の中ってそんなに甘くないようだぜ。
* * *
病院に到着し、今は春香の病室にいる。
しかもかなり気分は重い。
彼女の寝顔を見ながらここへ来る前に会って話をした調川先生の言葉を思い出していた。
*
「柏木君、気をしっかり持って私の言う言葉を聞いてくださいね」
「はい、何でしょうか」
先生の言う事の重要さをあまり考えもせず、簡単にそう答えていた。
「昨日、柏木君と貴方のお友達の方の面会の時一体何があったのか知りませんけど・・・、再び凉崎さんは深い眠りへと就いてしまいました」
「・・・?ハハハッ、先生冗談はよしてくれよ!嘘だよな?嘘なんだろ?」
「お気持ちはご察しいたしますが私は医者で有る故、嘘は申せないのですよ」
「じゃぁ、春香、今度はいつ目覚めるんだ?」
「・・・・・・・・・・・・」
「答えてくれよぉーーー、センセエェっ」
「判りません、それがいつなのかは。今にでも目を覚ますかもしれません。しかし、もう一生目を覚ます事がないかもしれません。それが彼女の今の容態です」
「嘘だぁーーーーーーーーー!!!」
ここにいる人達の迷惑なんて顧みず、声を張り上げそう叫んでいた。調川先生のその言葉で貴斗のヤツに再び怒りを覚えた。
だけど、それも直ぐに覚めてしまう。
「大変言いにくいのですが・・・、今の貴方にもう一つお伝えしておく事があります。藤原貴斗君、貴方のお友達でしたね。・・・、彼も現在ここに入院しておりましてね・・・」
怒りを表面に出している俺にそう口にしていた。
更に先生の説明の言葉は続き、ヤツは俺と他の連中に見捨てられた後、あの豪雨の中で交通事故に遭ったと告げていたんだ。
更に貴斗が今、生死の境にいる事を知ったんだ。
「馬鹿な・・・・・・」
その後の言葉の後に続く言葉は何もなかった・・・、何も言えなかった。
*
春香の手を握りながら再び眠りについてしまった彼女に語りかけていた。
「何で、お前ばっかこんな目に遭うんだ」
「どうして、貴斗まであんな目に遭わなきゃならないんだよ」
「なぜ、俺は大切な人達をこうも簡単に傷つけちまうんだ?」
「答えてくれ、春香?また俺駄目になっちまうよ。・・・・・・、香澄が傍にいても今度こそ・・・・・・・・・、駄目になっちまうよ」
「春香、もう俺をこんな気分にさせないでくれぇーーーーーーっ!」
自分勝手な、その叫びは春香に何の効果も与えず虚しくこの部屋の周囲に響くだけだった。
病んだ心のまま、春香とこの場の時間を共有して、何かに気付いた頃に俺はここから出て行った。暗い面で貴斗のいる病室に足を向けていた。
その場所に辿り着くと一人の看護婦が扉の前に椅子を置き座っているのが見えた。
「アラ、柏木さんじゃないどうしたんですか?」
知っている風な口ぶりでその看護婦は俺に声を掛けてきた。
彼女の顔を良く確認する。知っている人だった。
「南さん?」
「そうよ、どうしたんですかそんな暗い顔をした?」
「南さん・・・、ここにいるヤツとは面会できないんですか?」
「ここの患者さんとお知り合い?もしかして、お友達とか?」
重い気分だったが南さんに貴斗との関係を教えてやった。
「そう、でも面会謝絶なの、御免なさい」
「駄目なのかヤッパリ・・・」
それが分かると彼女に背を向け病院の入り口へ方向を向けていた。
南さんが何かを言っていた。
でも俺の耳、左から右へと筒抜けしていた。
帰りの俺の足取りは鉛のように重かった。
何とか家に辿り着くとそこには香澄が俺の帰りを待っていた。
「宏之、お帰り・・・?何よその酷い面は何か在ったの?」
「うっせぇ・・・・・・、ごめん香澄に当たっても仕方ないよな」
「ホント、どうしたって言うのよ」
「悪い報せが二つ」
気分がこれ以上滅入りそうだった。
だから言いたくなかった。しかし、香澄に教えない訳にはいかないのも事実だった。だから、彼女に春香と貴斗の今の容態を教えてやろうとした。
俺の口から出たのは春香の事だけでヤツの事は教えてやれなかった。
なぜ言えなかったのか?言えば俺以上にショックを受ける・・・、そう意識のどこかで感じたからだと思うぜ。
「イッ!それ本当なの」
「嘘でこんな事、言えるか」
調川先生が言っていた言葉と似たような言い回しで彼女に答えていた。
香澄も俺の口にした事で驚きと動揺を隠すことなく表していた。
俺が彼女にそれを教えると二人して憂鬱な気分で今日を過ごす事になってしまった。
2004年8月23日、月曜日
今朝方、会えないって頭ン中では理解していたけど香澄と一緒に貴斗のところに向かっていた。
病院に着けば何故かそこには慎治がいたんだ。奴も貴斗の見舞いに来たらしい。
どうしてなのか知らないが慎治と一緒なら貴斗の面会を許された。
病室の前の椅子に座っていた南に許可を貰いその部屋の中に足を踏み入れた。
その部屋の中に入ると藤宮がいた・・・、とても冷たい視線を俺たちに向けていた。
当たり前かもしれない。貴斗が事故にあってしまった原因を作った俺がいるんだから・・・。
色々な複雑な思いで俺はソイツが眠るベッドを除いていた。
見るに耐え難いくらい包帯と色々な機械がヤツに取り付けられていた・・・。
心の中に痛みが走る・・・、精神的作用が肉体にも及んできたのか全身がちりちりと痛かった。
そんな状態になりながらも声など聞えないだろう貴斗に言葉を掛けていた・・・。
それは身勝手な言葉なのは分かっている積りなんだけど・・・、口にしていた。
えっ?どんな事を口にしたのか、って?それは他のやつ等、藤宮や慎治にでも聞いてくれ。
俺自身がここでそれを言葉にするつもりは更々ないぜ。
面会を終えてからはみんなと別れ、重い気持ちのままバイトへと向かった。しかし、俺は器用な奴かもしれない。それとも年月がたち成長したのかもしれない。
バイトの忙しさのお陰で嫌な事を忘れられた・・・、いや、多分それは現実の嫌なことから逃げているだけなのかもしれない。でも、その気分を取り払えているのはバイト中の忙しい時だけだった。
「いらっしゃいませぇ~~~、何名様でしょうか?」
張りのある声を出し次から次へと押し寄せる客を相手にしていた。
「そちらが終わったらこれあそこのテーブルに出してくださる?」
「わぁ~~~、柏木さん邪魔、邪魔どいてぇ。お待ちどう様でしたぁ~~」
知美が俺へ、そんな風に言葉を掛け、忙しく動いている夏美は持っているものを落とさないようにそう口にし、いつものように輝彦は仕事中接客中以外無口で動いていた。
他の店員も手の空いたやつ等が待ち客に対応していた。
この喫茶店内はそんな慌ただしさに包まれていた。
何もしていない時、腐っているのが嘘の様に俺も負けない様にと体を動かしていたんだ。
いつも働きながら思うんだけどここは俺がバイトする前の改装工事で広くなっている。
だから、喫茶店って呼び方やめてレストランにした方がいいじゃないのかとそんな風に思う事が多かった。
喫茶店トマトじゃなくてレストラン・トマト。
結構シックリとした感じで合っていると思うんだけどね。
そんなくだらない事を思いつつもテキパキ仕事をこなし、いつも休憩を入れている午後4時まで働いた。
その時間帯に入ると急に客の数が減り休憩を取る事が出来る。
今いつものメンバーで裏の休憩室で休んでいる所だった。
「柏木さん、一体どうしてしまったんですか?最近の休憩中の先輩はいつもそんな感じに暗い顔してますよ」
「そうですよ、元気のない柏木先輩って変ですね」
「別にお前達が気にする事じゃないだろ。それに仕事でポカしてる訳じゃないんだし」
二人が言うように今の俺の表情は暗く沈んでいる。
春香と貴斗があんなになっちまって一週間が経つ。
調川先生が言っていたように春香は簡単に目覚めてくれない。
貴斗のヤツはいまだに生と死の境界線をさまよっている。
ヤツのそんな状態、峠を越えるか越えないかってそんな状態がこんなに長く続くのは珍しいケースだって先生は言っていた。
貴斗も死の淵で何かに悩んでいるのかもしれない。
そんな事を思うと明るい気分って感じではいられないんだ。
「先輩にそんな顔されて気にするなっていわれてもそんな事出来ません」
「そうですよ、柏木先輩から見たら俺達年下で頼りないだろうけど、話してくれれば何かしてあげられる事だったあるかもしれないだろ」
「こればっかりは無理なんだ。誰に話したって解決なんてできゃぁしないよ」
〈はぁ~~~、年下にまで迷惑掛けちまっているマジで俺って情けないぜ〉
「そんな柏木さん」
「よせよ、桜木!先輩がああ言ってんだ俺達が言っても意味ないだろ」
「舘花くぅん・・・」
「柏木先輩、今の俺達に何にも出来ないようだけど若し何か出来る事があったらいつでも言ってください!」
「私もです!」
「テル、夏美ちゃん、アリガト。さぁ、シケててもしゃぁ~~~ない。仕事始めっか」
俺はそんな風に言葉に出すと先にここから出てフロントへと移動した。
* * *
残りの仕事時間もクタクタになるまで体を動かし今日のノルマも終えて帰宅していた。
そこへ到着すれば同じ頃に香澄もやってきていた。
「宏之おかぇりぃ~~~」
「ただいまぁ、香澄も今仕事の帰りか?」
「私は違うわ、買い物にいってきたのよ。ホラッ」
彼女はそう言って近くの24時間スーパー羽ケ崎屋の買い物袋を見せていた。
「直ぐに夕食の準備をするから待っててね」
「いつも、わりぃな」
「いいって、あたし、アンタの彼女よ」
「・・・、そうだったな」
一瞬、香澄に返す言葉に詰まってしまった。
俺は一体誰の事を愛し、大切にしたいって思っているんだろうか?
それは今眠っている春香?
それとも今ここでこうして話している彼女?
若し、春香があんな状態のままなら俺は香澄とずっといるのかもしれない。
じゃぁ、春香が目覚めたら?
しかも、前みたいなあんないい加減な状態じゃなく、今を認識できるようになった状態で目覚めたら?
ここでまた己の優柔不断さが答えを出すのを躊躇ってしまう。
「宏之、どうしたの?」
「なんでもないよ」
「嘘おっしゃい!アンタ顔に直ぐ出るからばればれよ」
香澄が言うように今、変な顔してたんだろうな。
俺にはポーカーフェイスって出来ないみたいだ。
だが今、思っていた事を口に出して言えば香澄は不安を感じるだろう。だから、本当の悩みを隠すように口を動かす。
「貴斗の事だ」
しかし、そう言うと香澄の表情が激変し、その顔を歪め、瞳を潤ませ大粒の涙を浮かべてきた。
地雷を踏んじまった。
不味い人物の事を口にしてしまったようだ。
後悔した時は既に遅く彼女は泣きだしてしまった。
「ワァーーーン、ヒロユキィ!アタシどうすればいいの?何てしおりンに謝ればいいの?どんな顔してしおりンに会えばいいの?アタシがあんな事をしなければ貴斗あんな目に遭わずに済んだかも知れないのに」
「泣くなよ香澄!お前ばっかが悪い訳じゃネェだろっ!!俺だって後悔してんだ気を失うまでアイツを殴ってなきゃあんな事になりゃぁーしなかったかも知れないんだ」
香澄もあの出来事の事を悩んでいたようだった。
悩んでいるのは俺だけじゃなかった。
でも悪いのは結局のところ俺なんだろうぜ・・・。
他の連中、慎治、藤宮、貴斗、そして春香もみんな何かに悩み苦しんでいたのかもしれない。
だけど、こんな状態の今の俺にはそれを知る事なんって出来るはずもなかった。
なにせ、自分の事で一杯一杯、他人に気遣ってやれるほど俺の心は広くないんだ・・・。
そんな事を思っていたらいつの間にか香澄を抱き寄せていた。
「・・・、ヒロユキィ~~~」
「悩んでいるのは俺だけじゃなかったんだよな、お前だって悩んで居たんだよな、気付かなくてごめん」
そう言葉にすると香澄はその感情を隠さないで慟哭していた。
そんな彼女を強く抱きしめながら暫くそのままでいた。
どれだけの時間が過ぎただろう。
香澄も冷静になり泣くのを止めていた。
俺も彼女と抱擁していた為なのか気分が少なからず軽くなっていたような気が・・・・・・、する。
「あっと、イケない宏之お腹空いてんのよね?」
「アッあぁ、腹は減っている」
「直ぐ準備するからお風呂にでも入って待っていてね」
香澄にそう言われたので先に風呂に入り汗を流す事にしたんだ。
体を洗ってからバイトで酷使した体の疲れを癒すようにドップリと風呂に浸かっていた。
風呂に入ると精神的にも疲れが吹っ飛ぶような感じだった。
そんなことを思うのは多分、日本人だけだろうぜ。
丁度いい湯加減だったので長風呂好きな俺は何も考えず目を瞑ってボォ~~~としていた。逆上せ始めた頃、ガラスの扉越しに香澄が聞こえてきた。
「いつまで宏之は入ってんのぉ~ノボセちゃうわよ。それにとっくにご飯の準備出来てんのよ」
「ホェ~~~」
と変な返事を返しながら浸かっていた風呂から体を出し洗面所で体を拭いてからタオルを腰に巻いてリヴィングに戻って行った。
「何よその格好はちゃんと服を着てきなさいよ」
「ナンだよ、俺のカラダ、見慣れていないわけじゃないだろ?」
そう言ってチラチラと巻いてあったタオルの前方をパタパタさせた。
「ばぁっかじゃないの宏之、アンタ少しは礼節ってモノを考えなさいよ。いつまでもそんな格好しているとぶっ飛ばすわよ」
香澄は呆れる様な表情を浮かべそう言ってきた。
これ以上それをすると身の危険を感じた俺はサクッと着替える事にしたんだ。
それからは香澄の作ってくれた物を口にし、やる事やって一緒のベッドで彼女と次の朝を向かえることになる。
2004年8月26日、木曜日
俺はこの日・・・、彼女の誕生日を確り憶えていた。だから、香澄と一緒に外出をしているところだった。
今日は彼女の二十一歳の誕生日。
まともに彼女と二人きりでこれを迎えるのは始めてだった。
洒落たレストランとかで歓迎してやりたかったけど俺ってそんなの柄じゃないから団欒できる風月って名前の居酒屋に来てカウンターに座っていた。
「何のシャレも効いてないこんなとこだけど香澄、誕生日おめでとう」
「アリガト、アンタとだったら別にどこでも気にしないわ」
「お化け屋敷でもか?」
「ぶっ飛ばすわよ」
『ドカッ※』
「いってなぁ、手加減しろよ。・・・、それとその手の早さ何とか何ネェのか?」
香澄は言葉と同時に俺の背中に鉄拳をくれていた。
「あんたがどうしようもないこと言うからでしょ、自業自得よ」
「へい、へいそうでしたね。なぁ、香澄ヤッパ誕生日祝ってもらうのって嬉しいのか?」
「当然よ、好きな人と一緒ならなおさら」
「大切な仲間達とは?」
「そんなの聞かなくたって分からないのアンタ?」
「確認しただけ!」
彼女はたまらなく良い表情を向けそう言ってきた。
何でそんな事を香澄に聞くのかって?
ここ数年の彼女の誕生日の日ってあんまいい事なかったからだよ。
「どぉ~~~、したのぉ?ひろぉゆぅ~きぃそんなぁ顏しちゃってぇ」
「ハハッ、なんでもネェよ」
〈香澄の奴一杯目でこうかよ。ホント酒好きなくせに酒に弱い〉
〈ずいぶん前に貴斗や慎治に言われたっけな、俺って考えた事が口や顔に出易いって〉
〈忠告されたけど全然直っちゃいネェよ〉
〈ははっ、生きてくって難しいやぁ〉
そんな事を考えながら俺もビールを飲んでいた。
「ニャハッ、ビールついかぁ」
「アッ、俺もお願いします。板前さぁ~~~んそれとネギマとツクネ、マグロの兜煮の追加もお願い」
「へぇい、わかりやした」
俺と香澄は好きなもんを注文し、酒やビールと一緒にそれらを味わうようゆっくりと摘んでいた。
ここに来てからもう二時間くらい経つかな香澄の奴は完全に出来上がっちまっていた。
香澄の場合、酒を呑むと異常なくらいしおらしくなり、呑み過ぎるとしまいに寝てしまう。
寝ている香澄を眺める。本当に幸せそうな顔だった。
〈酒は嫌な事を忘れさせてくれるか〉
〈そんな言葉も強ち嘘じゃないのかもな〉
香澄のそんな表情を見ていたらフッとそんな事を思っていた。
人にはそれぞれ現実逃避の仕方ってのがある。
香澄の場合は酒か?俺の場合は忙しいくらいに仕事する事か?他の連中、慎治、藤宮、貴斗それと春香とかどんな風に嫌なこととか忘れたりするんだろう?出来るならそんな事を奴等に聞いて見たいものだ。
会計を済ませ、寝ている香澄を負ぶさりゆっくりと歩きながら家に帰ろうとしていた。
* * *
殆ど俺の家の近くに差しかかった所で香澄が目を覚ます。
「有難う、宏之」
彼女のその声は既に酔いが醒めているのを感じ取れた。
「香澄、起きちまったのか?もう少し寝てりゃぁいいのに。まっ、目覚めちまったもんは仕方ない。その声だと酔い醒めてんだろ?なら自分で歩けよ」
そう言って香澄を下ろそうとした時、彼女は嫌がるように拗ねてきた。
「イジワルゥ、宏之もう少しこのままでいさせてくれたって良いじゃないの」
「はい、ハイ、俺は意地悪だぜ」
そう言うものの彼女を負ぶったまま再び歩き出した。
「ネェ、宏之、あたし達これからもずっと一緒よね?」
「あぁ、もちろんだ」
香澄の酔いも既に醒めていた。
ここで返答をこまねいていては彼女の機嫌が悪くなるのは明白だった。だから即答で彼女に返した。
でもそんなの今の俺に実際、決められることじゃない。
俺達の未来は不安だらけだ。
香澄と俺はこうして今、仲睦ましくしているが別の所ではとんでもない事が起こっている事を知らないでいるんだ。しかし、それも明日になれば分かることだった。
それとその出来事でまた俺は香澄を傷つける事になってしまう。
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