カベ越シカイダン

片里 狛

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べったりとはりつく-2

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 そこに何かいる、と言われて、ばっちりとその何かしらを見る確率というのは六割かな、という感じで、それも細部まではっきりというよりも『あー確かにいるな』程度のものがほとんどだった。
 結局のところ俺は今まで、心霊現象に悩まされている当事者というよりは、『心霊現象に悩まされている青年と一緒に住んで彼を手助けしている』という立ち位置だったのだと思う。
 言い方は悪いが、巻き込まれた、というのが一番近いのだろう。勿論これは本人に言うつもりはない。巻き込まれたおかげで俺は木ノ下くんと同居しているのだし、迷惑だとは思っていないからだ。
 俺には霊感なんてものはない。
 まあ、これは木ノ下くんにもないらしいのだけれど、彼は二○二号室をめぐる様々な環境に影響され、すっかり霊媒というか、そういうものに好かれる体質になっているようだった。
 木ノ下くんは幽霊を祓うことなどできない。けれど、彼は幽霊に襲われる。
 一人でいても何かに出会う、という事はないのだけれど、木ノ下くんと一緒に居ると高確率で俺も『見える』。
 つまりまあ、彼と一緒にいない時間、俺は割と普通の生活をしていた。
 正直なところ、気を抜いていた。
 関西に二泊の日程ででかけなければならない、と聞いた時はわりと本気でどうにか有給とって付いていくつもりだったけれど、結局どう画策しても休みはとれず、俺は泣く泣く木ノ下くんを学会に送り出した。
 …………気を抜いていたし、たかを括っていた。
 俺一人のところに、ああいうものは来ないと思っていたのだ。
『桑名さん、ちょ……っと、あの、大丈夫、ですか、なんか……なんか、雨の、音が……』
「雨の、音?」
『するん、です、けど、これ、さっき』
 電話口から聞こえてくる木ノ下くんの声は笑ってしまうくらいに動揺していたけれど、たぶん、現状の俺の方が動揺度は上だった。
 なんでカーテンが開いているのだろう。帰ってきたときはもう暗かったし、木ノ下くんが怖がるから基本的にカーテンは閉めっぱなしにしている事が多い。夜、外が暗いのにカーテンを開ける事なんて煙草を吸うとき以外は、ほとんどない。あったとしても、すぐに閉める。
 それなのに今カーテンは開いている。
 そしてその向こうには、闇の中にぬっと佇む人影があった。
 白い。たぶん、白い服を着た女、だと思う。
 別にうちの窓はすりガラスじゃないし、いくらなんでもこの至近距離で判別がつかない訳がないのに、何故か、輪郭がぼやけているように感じる。
 すぐそこにいるのに、ぶれた映像のようにぼやけている。目も鼻も口もそこにあることはわかる。わかるのに、形がわからない。
 その、かろうじて白い女だと思える者は、硝子の向こうのベランダに立っていた。
 妙に背が高い。ガラス戸の上の方にある顔はやはり、細部までわからない。注意して観ようとしても、顔の造形がわからない。頭に入って来ない。
 ベランダに立った女は、ぐぅぅぅ、と、更にガラス戸に張り付いた。
 べったりと。吸盤のように、ガラス戸に張り付く。
「…………っ、」
 思わず、叫び声を上げそうになった。どうにか飲み込んだのはたぶん、俺の声を電話越しに聞いている木ノ下くんに対する見栄があったからだ。
『桑名さん……? 桑名さん、あの、大丈夫……』
「……白い、女。白い女だと思う、たぶん、ていうか、白い事くらいしか、わからないんだけど。っあー……これたぶん、さっきまで、木ノ下くんのところにいたやつ、っは!?」
『え……、え……?』
「いや、だ、ダイジョウブ、ちょっと…………楽しいはなし、しようか」
 ちなみに、全然大丈夫じゃない。
 ベッドの上にいた俺の目の前で、ガラス戸向こうの白い奴は、ぐぅぅぅぅ、と、更にこちらに近づいてくる。
 ガラス戸をすり抜けてくることはない。最早くっつくというよりも、硝子に溶けて張り付いているような状態だ。
 それに加え、コツコツと音がする。アレが、窓を叩いている音なのだろうか。
 部屋の温度も、徐々に下がってきた、と思う。寒い。ちょっと笑えるくらいに寒い。
 わりとまずい、と思う。頼みの綱は今買い出しに行っている巻だが、あいつが出て行ってから何分経ったのか冷静に計算できない。
 今日は木ノ下くんもいないし寂しかろう、などと恩着せがましく言い放った巻は小腹が空いたと行ってコンビニに繰り出した。
 今回様々な情報を集めて回っているのは巻だし、俺も世話になっているという自覚もあるし、外食でなんか驕ると申し出たんだけど、『早くうちかえって一人でビビってる木ノ下ちゃんに電話してやんなヨー』と言われた。まぁ、からかわれてるんだろうけど。その申し出はありがたかったので、おとなしく言われるままに直帰したのだが。
 ……こんなことなら、ファミレスかどこか、通話可能なところで飯でも食いながら電話したらよかった。
 いやでも、外で木ノ下くんと会話するのはよくない。特に電話だと、つい言いたい放題言葉を連ねてしまうし、そんなつもりはなくても俺の中のオッサンの部分が疼いてう。
 いや、今は、そんなことよりも……寒い。
 うなじのあたりから、ぞわぞわっとした寒さが這い上がる。
 たぶん、こっちを見てはいない。目がどこにあるのかなんてわからないのに、アレが、虚空をただひたすらに見据えていることがわかって最高に嫌だった。
『楽しい話って……つか、まさか、おれのせいで、』
「いやーどうかな……別に、木ノ下くんいなくてもさ、隣の部屋は相変わらず幽霊部屋だし。ていうかね、さっき巻と一緒に冷蔵庫の裏のお札を確認したんだけど。あのー……なんか、泥みたいな。真っ黒いどろっとした液体でべっちゃべちゃに濡れててね? それが、お守りピアスの奥襟さんが亡くなったせいなのか、それとも全然関係ないのかわからないけど、わりとまずいんじゃないのかなーと思ったところでさ……もうこれ、木ノ下くんとか霊媒とか関係ないんじゃないかなーとか、思い始めてきたよ俺は」
『……アパート自体が、ヤバくなってきてるって、ことですか?』
「かもね。さっき帰ってくるとき、俺の真上の部屋の人が引っ越し作業してたよ。三○一号室かな」
『あ……おれ、先週、その部屋の前でなんか白い人がぐらんぐらん揺れてるの見ました』
「ね。やっぱり、たぶん、全体的におかしくなってるんじゃないかなって。だからというか、いやわかんないけど、俺がキミに関わっているのは俺の意思だしただの下心だから、気にしないで、あと気にしてくれるなら楽しい話をしてくれたらすごくありがたい」
『楽しい話、って、言われても』
 いきなり言われても、まあ、パッと出て来ないものだろう。
 悲しい時に明るい話をしようとしても難しいし、笑っている時に泣ける話を思い出そうとしても難しい。そういうもんだ。でも、このまま怖い怖いと震えていても、絶対によくない。
 窓ガラスに張り付いているアレが、部屋の中に入って来ないとは限らない。
 べた、べた、にゅう、っと少しずつ。アレは、こちらに近づいている気がする。何の目的かはわからない。なんでここにいるのかもわからない。アレと言葉を交わせるとも思えない。
 巻が帰ってくるまで。それまで正気を保っていればいい。
 コツコツと窓ガラスを叩くような音も、部屋の寒さも、たぶん気のせいだと思いこむ他ない。
「楽しい話……えーと、そうだな……木ノ下くん、いま、一人なんだよね」
『え、あ、はい。教授とは別の部屋なので』
「すごくダメな大人的にはテレフォンセックスを提案したいところだけど巻がいつ帰ってくるかわっかんな――木ノ下くんなんかすごい音したけど」
『………小指をベッドサイドの棚にぶつけただけです何言ってるんですか桑名さんもう白い人いなくなったんですか?』
「いや、いる。なんかもう人かなぁ? みたいな状態。豆腐かバターかそんな感じ。あんま見ていたくもないんだけど、目を離した隙に、パッと消えて目の前に瞬間移動とかされても嫌だし、視界の端に捉え続けてるって感じかな」
『あー……わかります。見るのも怖いけど、見ないのも、怖い……』
 まさに、それだ。
 直視するのは怖い。漠然とした恐怖がある。けれど、視界に入らない場所も怖い。そこに、何がいるのかわからない。
 今ここに木ノ下くんが居れば、彼を安心させるためなんていう名目で思いっきり抱きしめるのに。俺はいつも、木ノ下くんを気遣うふりをして、自分の恐怖心を紛らわせていたのかもしれない。勿論、彼の事は本気で好きだけど。そこは紛れもない事実だけど。
 みたいなことをテンパってる脳みそのままあんまり考えることなくつらつらと口に出したら、電話向こうの木ノ下くんが息を飲んだような気配がした。ほんとかわいい。はーもう、ほんとかわいい。こんな反応されたら俺はどんどんエロ親父になってしまう。
『桑名さん、怖いってホントですか……よく、そんな、ホイホイと恥ずかしい言葉……』
「怖いのは本当だしまだいるよ豆腐バターさん。怖いから、楽しい話しようと思って、つまりほら、俺の楽しい話なんて大概は木ノ下くん関連だし。あー……どうしようホラーと遠距離木ノ下くんが相まってなんかわけわかんなくなってきたな。そういえばさっき俺、どこまで話したっけ。お札がどろどろってのと、上の階の住人が引っ越したってのと――」
『え。まだなんかあるんですか……?』
「うん、あのー。まあ要するに、除霊は振出しに戻ったみたいだから、これはいっそ、思い切って環境を変えてみるのもいいんじゃないのかな、という話をさっき巻としてたんだけど」
『環境』
「そう。環境。木ノ下くん、俺と一緒に引っ越しませんか?」
『ふぁ?』
「……今の声かわいいね。通話って録音ボタンあったっけ?」
『え。え? 桑名さん、冗談は、』
「いや全然冗談じゃないよ。結局除霊もうまくいってない。除霊してくれていた人は亡くなってしまった。誰が貼ったかもわからないお札もダメっぽい。もうこれ以上ここにいても悪くなるだけなんじゃないかと俺は思う。木ノ下くん最近本当にモノが食えなくなったでしょう。痩せすぎだよ。心配で大学までついていきそうになる。もういっそ引っ越して様子を見るのどうよ、って提案します」
 実は、奥襟さんの話を聞く前から、俺は引っ越しを考えていた。
 あまりにも木ノ下くんの消耗が激しすぎる。
 何か食べれば髪の毛が混じるような食事で、栄養が取れるとは思えない。最近はほとんど食べ物を見るのも嫌なようで、げっそりとまではいかないけれどかなりやせ細っていた。
 だでさえ細い方なのに、このままでは本気で命が危ない。
 それに加え、心霊現象も笑いごとでは済まされない状態になっている。風呂場に引きずり込まれて溺れそうになったり、駅のホームで電車の方に引っ張られたり。怖いのを我慢していればいい、というレベルを超えている。
 部屋がどうとか、霊媒がどうとか、そんなことはもう一旦考えない事にして、単純に広い部屋を探す気持ちで引っ越そうと思った。
 この決断で、これ以上の霊現象を呼んでしまうのか、それともぱったりそういうものと無縁になるのか、それはわからない。悪い方向に転んでしまう場合もあるだろう。けれど、このまま何もしない状態でも、もしかしたら死ぬかもしれない。状況はかなり劣悪だと思う。
『……引っ越すのはいいとして……桑名さんも、一緒に引っ越しすることは、ないんじゃないですか? おれは、勿論、一緒に居てくれたらありがたい、ですけど』
「俺と一緒じゃやっぱりまずい? 男同士でルームシェアっての、なくはないだろうけどやっぱり年が離れすぎてるかなぁ……あ。なんならまた隣の部屋でもいいよ。同じアパート内ならそんなに離れてる感じもないだろうし、って、これは流石にストーカーっぽい?」
『…………お隣とかご近所さんだとおれはずっと桑名さんちに入り浸ってる気がします……』
「俺の思惑通りだよ。じゃあやっぱり広めの部屋を一つ探そうか。本当は全部片付いたらきちんと告白しなおして、その後に一緒に住みませんかって格好良く同棲けしかける予定だったんだけど。……ちょっと待ってる場合じゃないかな、と思うし」
『あの……本当に、迷惑じゃないですか?』
「うん? うん。本当に、迷惑じゃないよ。だって俺、きみが教授と一緒に一泊だっていうのも、部屋が別で教授はきみの先生であって既婚者だってきっちり頭では理解していても、木ノ下くんと一泊ホテル旅行なんてほんと俺が代わりたいってギリギリ嫉妬してるくらいだから」
『………………』
「木ノ下くん?」
『桑名さんの、そのー……ストレートにくそみたいに甘いとこ、あー…………すき、です』
「………………わー」
 びっくりして変な反応してしまって、慌てて俺は電話を掴み直した。
 好きって言われた。うわーうわー好きって言われたんだけど!
 いや、わかる。わかっていた。わりと俺は木ノ下くんの固い心を勝手にこじ開けていた自覚はあるし、なんだかんだとほだしていた自覚もある。それなりに好かれている自信すらあった。でも、やっぱり、言葉にして自主的に伝えてもらうのはそんな暗黙の雰囲気なんかとはわけが違う。
 テンパって頭に血が上って、何か言葉を探しているところでドアのチャイムが鳴った。
 いきなりの音に驚く。バッと顔を上げると、気味の悪い事に、窓のアレはいなくなっていた……というか、カーテンがきっちりと閉められていた。ただ、なぜか部屋の電気が消えている。電気が消えた瞬間の記憶が、まったく記憶がない。
「ちょっと、あの、巻だと思うたぶん、あー、もうちょっとしたらかけ直すから、木ノ下くん一人で大丈夫? ダメだったらいつでも電話してきてっていうかもうほんと今からそっち行きたいよなんで明日仕事なんだよちくしょう。……一回切るけど。ほんとちょっと待ってて。あとさっきのもう一回言って」
『え。さっきの……あ。あー。かえってからじゃ、だめですか……』
「あーそれもいいな。今の声かわいかったからそれでもいいな。とりあえず切るよ、ごめん、また後で」
 ピンポーン、と、もう一度鳴る。
 何故か消えた部屋の電気をつけなおし、部屋の中になにも佇んでいない事を確かめ、インターフォンを取るとやはり巻の声が聞こえた。
『くーわーなーくーん。あーそーびーまーしょー』
「その口調怖いからやめろ。お前うちの鍵もってなかったっけ?」
『持ってないわよーきみらがイチャイチャしてるとこにのほほーんと突撃したくないから俺ぁいつだってインターフォン越しの男でいいのよ。でも弁当冷めるから開けてちょーらい』
「いまいく」
 うちのインターフォンは電話型で声だけしか聞こえない。
 誰かが訪ねてくる、というシチュエーションはわりと怖い。木ノ下くんは何度か、良くないものを招き入れている。でもまあ、これだけ殊勝に喋れるのならば本物の巻だろう。
 ――と、安心して扉を開いた俺が馬鹿だった。

 コンビニの袋をぷらぷらと揺らす巻の後ろで、白い服で曖昧な顔のでかい女が、立ったまま痙攣していた。

「っあーもうコンビニ遠いなほんとおまえんち。スーパーは近いのにさぁ。現代男子たるものやっぱコンビニが徒歩五分圏内っていうのは住居選びの条件として――」
「―――――巻、いいから入れ!」
「っ、ちょ、何、ふぁ!? いっててててて痛い痛い掴むな馬鹿やめてお嫁にいけなくな、るぅぅぅぅぅちょっとなにあれえええええ!?」
 ドアに引っ張り込むタイミングで、巻が後ろを振り返ったらしい。俺が鍵をかける直前、それはべったりとドアに張り付く距離まで迫ってきていた筈だ。
 暫く、無言だった。さすがの巻も、顔面が固まっている。
「…………なに、お前、あれなの? 木ノ下ちゃんが居なくても引き寄せちゃう感じになっちゃったの? 霊感は移るっていうけどさぁ、霊媒も移るわけ? っつーか今の何よなんか……溶けた紙粘土みたいな、お顔だったけど。消えた、の?」
「……知らんよ。スコープ覗いてみたら?」
「エンリョシテオキマス」
 飯食う前にキモ冷えたと言う巻と同じく、先ほど上がったはずの体温は、またすっかり冷えてしまっていた。
 結局その後、これと言っておかしなことはなかったが、もう外に出るのは嫌だとうるさい巻は我が家に泊まって行った。
 いっそ新居には巻の部屋も作るかと再度電話した木ノ下くんに笑いかければ、巻さんにはお世話になっているけれど住むのは桑名さんと二人がいいですと恥ずかしそうに告げられ冷えた身体が単純に火照ってしまった。
 お互いの電話口から、あの雨の音はもう聞こえなかった。


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