牢獄王女の恋

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 コーデリアは闇で生まれ闇で育った。
 狭く汚く、寒く薄暗い半地下がコーデリアの世界のすべてだった。
 母と、日に二度食事を運んでくる看守。数週間に一度来る神父だけがコーデリアの知る人のすべてだ。
 それが八歳にもう少しでなろうという頃に母親が目を醒まさなかった。
 コーデリアの為に僅かな食事も少ししか取らず、栄養失調で死んだのだ。
 朝コーデリアが目が覚めても母が動かず、何度呼んでも起きない。
 骨と皮だけの身体に縋ってゆすって泣き喚いたが、起きなかった。
 食事を運んできた看守が確認し、そのまま連れて行った。
 コーデリアは小さな牢獄の中でひとりきりになった。
 ひとりきりになって寂しくて朝夕関わらず泣いて過ごしたが、ここに居ることが不幸だとは感じたことはなかった。
 外の世界を知らないコーデリアは他と比べようがなかったからだ。
 神父も来なくなった牢獄の中でひたすら窓から見える空を見て、窓を横切る鳥を待つだけの毎日だった。
 考えることもないし、感じるものもない。
 母が教えてくれた聖書の話や言葉を思い出しては、繰り返し口に出してみたりした。
 そうするとまた母を想って泣いて。しかし泣いてもなにも起こらないまま時間が過ぎていく。
 そんな毎日がコーデリアのすべてだった。

 それが突然。黒いマントの男が現れた。
 神の言葉を伝える使者、ガブリエルと名乗る男だ。
 天使が迎えに来たと本気で思った。
 神がどうして天使を遣わし自分に何を伝えようというのだろうと、その天使をまじまじと見つめた。
 すると男は、名前は天使と同じだが天使ではないと言う。
 しかしコーデリアの名を呼び暖かいマントで身体を包み抱きかかえて、いとも簡単にこのコーデリアの世界のすべてだった牢獄から連れ出した。
 出たいとも出られるとも思っていなかったこの世界から連れ出し、今まで吸ったことの無い空気を吸わせてくれた。
 なにがなんだかわからないうちに箱の中に入れられ、大きな動物がその箱を引いて走り出し、見たこともない景色は呆気にとられるほど神秘的だった。
 自分はこれからどうなるのだろうか? どこに連れていかれるのだろうか? 疑問はあるが、天使の名前を持つこのニコリとも笑わない男ガブリエルからは、あの牢獄の中にあった荒んだ雰囲気がひとつもしないことで恐怖を感じなかった。
 こんなに美味しい空気を吸わせてくれたことだけでもコーデリアには奇跡のようなことだ。それをガブリエルが与えてくれているものならガブリエルはやはり天使だ。神の御業でもなければこんなことは出来るはずがない。
 なにがなにやらわからないが、ただあの牢獄の中にいて同じ毎日を繰り返すのなら、こうして新鮮な空気を吸えただけで他の事はどうでもいいと思いながら天使ガブリエルに従った。



 天国のような明るく綺麗なものだらけの暖かい場所に連れていかれ、知らない男女に舐めるように見つめられ。話しは何を言っているのかひとつも理解が出来なかった。
 ガブリエルしか縋れるもののないこの場で、自分のためにこの人間たちがいることを理解しろと言われても簡単には理解出来なかった。
 母に教えられた『明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう』という言葉を思い出し、この言葉は今のような状況のことを言っているのかと思った。
 天使がいるからか不思議と不安な感じはしていない。急な事態すぎてそれを感じる余裕もなかったからかもしれない。
 先の恐れを考えるより今は天使の言うことを聞こうと思ったのだが、天使のいないところでの初めての経験はすんなり受け入れられなかった。
 身体が入るほど大きなバケツの中にふわふわした雲みたいなものから煙が出ていて、その中から溢れた水が熱くて驚いた。
 その中に入れと言われたが、濡れるし嫌だと感じた。
 すると今度は女が髪を切ると言い出し、指に填めたもので変な音を出して髪を切ったので背筋がゾッとした。
 これはきっと痛いことになる! そんな感じがする! と部屋の角に逃げた。
 もうひとりの女も来て『大丈夫だ』と何度も繰り返すのだが、嫌な物は嫌だ。本能が受け容れることを拒否した。
 天使ならなんとかしてくれるとガブリエルを呼んで欲しいと言うと来てくれた。
 自らでかいバケツの中に入り一緒に入るから大丈夫だと言う。確かに中に入っているのに痛そうでも熱そうでもない。
 伸ばされた手を掴むと、天使の手だからなのかフッと恐怖が消えた。導かれてバケツに入れられると、言っていた通り痛くも熱くもなく、暖かかった。
 ジャキジャキという音には背筋がゾッとしたが、これも痛くなかった。
 後のことはコーデリアが大人にならないとガブリエルでは出来ないということで最初の女に変わったが、ガブリエルが大丈夫だと言うのでなんとか受け入れた。
 女には体中をこすられて驚いたが、これほど爽快な気分になるのは生まれて初めてのことだ。
 自分からいい匂いがして肌はすべすべになり、色まで変わってしまった。
 自分はよっぽど汚れていたのだとやっと気が付いた。
 牢獄ではバケツを渡されるたびに母から教えられた通りに身体や髪を拭いていたが、それだけでは清潔になれなかったのだ。
 痒くて鬱陶しかった髪は腰まで切られて、絡まってばかりだったのに触るとすべすべして指まで通る。
 洗ったのはラリサという女だったが、怖くないと証明してくれたガブリエルのおかげだ。
 ガブリエルはやはり母が神に頼んで遣わした天使に間違いないと証明された。

 少し寝たら別の場所へ行かなくてはならないと言われた。
 ガブリエルがそこへコーデリアを連れて行くという。
 あの元の場所に戻ることを考えたら、それだけはいやだと本能的に思った。
 こんな場所があることを知ってしまったら、もうあそこへ戻るのは恐怖に近い。
 もうすでにコーデリアの選択肢は大天使ガブリエルに付いて行くことしかない。
 本物の白というのを初めて見たが、汚れがひとつもないふわふわのベッドで寝ていいと言われてやっぱり天使が連れて来てくれたところはちがう! と思った。
 座ってみると身体が沈んで、転がってもどこにも硬さを感じない。
 ラリサがかけてくれる布団も湿っておらずふわふわと軽くて柔らかくて、なんだこれは! と、この世のものかと疑った。
 風呂に入ったせいで身体は人生で初めて体験する暖かさに保たれ、フカフカの上の気持ち良さもあって瞼がすぐに落ちた。
 目が覚めて元の場所に戻るくらいならこのまま一生目を醒ましたくないと思って意識を失ったが、目が覚めてももとの場所には戻っていなくて本当によかった。
 しかも身体の痛みで目が覚めたのではなく、優しいラリサの声で起こされた。
 ベッドの上で暖かくて柔らかいパンと、初めての熱い飲み物を貰った。
 飲み物はあまりの熱さに驚いたが、飲むと身体の中に熱が染みわたった。
 こんなものがこの世に存在するとは。夢中で食べて夢中で飲んだ。
 着替えると言われたが、着て来たものではなくいい匂いのする新しい服を与えられた。
 見たことの無い色も付いていて、こんなものを自分が着ていいのかと不安になった。
 ガブリエルが姿を見せたのでほっとした。よかった天使は天に戻っていなかった、本当に自分を元の場所ではないどこかへ連れて行ってくれるのだ。
 また箱の中、馬車というものに入れられ、ガブリエルとラリサでガブリエルの言う本当の家というところに行くらしい。天使の住処に連れて行ってもらえるということだ。
 あの場所から遠くに離れられるのは大歓迎だ。昨夜も思ったが、もう絶対にあそこには戻りたくなかった。
 揺れる馬車の中から外を見た。夜と違って明るいからよく見える。
 歩いている人もいて、母やコーデリアと同じ格好しているものはひとりもいなかった。
 見たことのない服や、今コーデリアがしているような恰好で歩いている。
 不思議だった。誰もが当たり前のように過ごしている。
 こんなに明るくて美味しい空気の中にいるのに、誰もそれを全身で感じていない。
 こんな広い世界にいて喜びを感じていない。
 コーデリアは目に映るすべてに感動してしまうし、自分のいた世界の狭さに驚愕した。
 時々止まっては出される食べ物は柔らかくて、信じられないような甘いものまであった。
 夢中で食べる度にガブリエルが『落ち着け』と言うのだが、これを口にして落ち着くのは無理だ。
 天使の食べ物は人間にとってはごちそうだとガブリエルは知らないようだ。自分は天使に仕えたことのない人間なのでラリサのようにこの食べ物に慣れていないのだから仕方ない。
 興奮は次から次へと訪れ、それが止め処ない。
 これはなんだ。あれは何をしているのか。それはどうなっているのか。なにかを知りたいと思うこともコーデリアには初めてだ。
 あの元の場所では知りたいことは何もなかったし、疑問を持つこともなかった。
 許容を超えた思考がパンクしそうだったが、頭より先に腹が壊れた。
 あの元の場所でも何度か経験したことのある痛みが、腹の中をキリキリとグニョグニョと暴れまわる。
 痛みに加えて下痢と嘔吐で身体の力が奪われていく。
 ラリサが口も尻も拭いてくれて水も飲ませてくれるが、それはまた下痢と嘔吐で出て行く。
 意識が朦朧としてきたところでガブリエルが来て背中を撫でてくれた。
 痛みはあるし気分も悪いのだが、天使が来て撫でてくれ楽になったような錯覚があった。
 もちろんそれは錯覚だったので、楽になった気がして油断した途端にガブリエルの膝に吐いてしまった。
 そこからはあまり記憶がないが、一晩中暖かい手が側にあって、それに縋っていいと言われている気がした。
 握ると握り返してくれたし、優しかった。
 次の日も同じようにしてくれたので嬉しくなった。
 腹の痛みもなくなり、本当の家に向かって再び馬車に乗って走った。

「ここがお前が当分の間住む家だ」

 ここに着く途中も何度か見た草というものが敷かれたただただ広い空間に、天使の住処だと言う建物があった。
 白くて飾りがいっぱい付いた建物に入れられると、中も当然広い。
 足元はフカフカが敷き詰められ、綺麗なものや不思議なものも沢山置いてある。
 人間や知らない場所の大きな絵画というものもいっぱいあって、目がチカチカした。
 これからはここで寝起きするという部屋も、あの元居た場所の何倍も大きくて、フカフカのベッドはガブリエルと最初に逢った時に泊まったベッドと同じで大きくて白かった。
 当分の間とはどれくらいのことだろうかと思ったが、『明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう』だ。
 天使に従うしか、今はない。
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