亡国の公女の恋

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 スヴェトラーナはただそこにいた。
 座り込んだまま動けず、ただ空虚な視線が宙を漂っていた。
 ヴィクトールが戻って驚いたのは茫然とした姿ではなく、スヴェトラーナが泣いていない事だった。
 今頃泣きじゃくっているだろうと勝手に思い込んでいたのだが、一粒の涙の跡もない。

「姫、大丈夫ですか?」

 大丈夫ではないとわかっていて声をかける。他に掛ける言葉がないからだ。
 スヴェトラーナはヴィクトールの言葉に顔を上げ手を差し出した。
 ヴィクトールがその手を取って立たせようとすると、それを払い再び手を差し出す。
 意味が解らずスヴェトラーナの前に片膝を突くと、スヴェトラーナは空虚な目で見つめ口を開いた。

「ルカから預かったものを渡してください」

 ヴィクトールは戸惑った。
 スヴェトラーナが何を言っているのか、なにを指して手を出しているのかがわかったからだ。
 どうしてそれがわかったのか、あんな酷いことをされてなぜそれがわかったのか。 ヴィクトールはスヴェトラーナを見つめそれを探るのだが、空虚な目はなにも語らない。
 ただその姿が哀れで。ここまでになっても疑っていないことが哀れで。
 ヴィクトールは約束を破りポケットから出したものをスヴェトラーナの手に乗せた。

「わかっていましたか」
「やはりそうだったと、今わかりました」

 ヴィクトールは引っかかったのだ。
 スヴェトラーナの誘導にまんまと引っかかり、出してはいけなかったものを渡してしまった。
 大事ではないそれを床に落とし、スヴェトラーナは目を閉じ俯いた。

「ヴィクトール。ひとりにしてください」

 放っておける状態ではないのはわかっていたが、自分がここに居るべきでもない。
 信じるには難しい状況であったが、スヴェトラーナが自身を傷付けないよう願うしことしか今出来ることはなかった。
 ヴィクトールは静かに部屋を出てドアを閉めたが、暫くそこから動かずにいた。




 *****




 イグナシオ侯爵邸でスヴェトラーナが部屋に案内されてから、ヴィクトールはルカから話しがあると言われた。
 今後の身の振り方であろうと思いルカを連れて外に出た。
 しかし話しはヴィクトールの思っていたものとまるで違った。

「申し訳ございません。俺は姫様に弁えない感情を持ちました」

 ルカはヴィクトールの前に跪き頭を下げた。
 ヴィクトールは驚いた。ルカの一方的な懸想であれば報告する必要はないのだ。
 それをわざわざ報告してくるほどルカの忠誠心の強さに驚いた。

「そうか。その忠誠心は今後も姫様に役立ててもらいたかったが仕方ない。お前はここを離れる気なのだろうな?」
「はい。そのつもりです」
「それがいい。辛いだろうがお前のような真面目な男なら仕事もすぐに見つかるだろう。今回の慰労に当座の生活に困らないだけの金は渡せる」

 ルカを同情し立ち上がるよう腕を引いて促したが、ルカは立ち上がらない。
 まだ話しは終わりではないのだ。

「姫様も、俺を望んでくださいました。俺と共に生きると、言ってくださいました……」

 ヴィクトールは思わずルカの腕を掴んでしまった。

「お前!」
「わかっています!」

 顔を上げたルカの真剣な目がヴィクトールを貫く。
 クロフスにいた時の働きを見て、ルカほどの真面目な男ならばスヴェトラーナを最後まで守って亡命を成功させるだろうとヴィクトールは思っていた。
 ルカの態度は常に誠実だったから家臣の身分でスヴェトラーナに弁えないようなこともしないと、だから近衛兵隊員ではないのにこの作戦に抜擢したのだ。
 期待を裏切ったルカを怒鳴りつけたかったが、ヴィクトールには出来なかった。
 ルカの真剣な目に貫かれ痛切さを見たからだ。

「本当にわかっているのか? どうするつもりだ。答え次第でわたしはお前を許さないぞ」

 若い男女がふたりきりで危険な旅をしたのだからお互いが拠り所となり情が湧くようなことになっても責めるのは気の毒だ。
 しかしただの男女ではない、スヴェトラーナにもルカにも立場はわかっているはずだ。それくらい弁えているはずだ。
 もちろんルカはわかっている。わかっているから隠さず話しているのだ。
 今のルカの目は、ヴィクトールの言う『許さない』を受け取る覚悟があると伝えている。

「許していただけるとは思っていません。俺はどうなってもかまわないのです。そして姫様をそれに巻き込む気はひとつもありません。俺はひとりで去ります」
「ならばそうしろ。今すぐに行け」
「いいえ。それは出来ません。俺が何も言わずに消えれば団長や他の誰かのせいになってしまうかもしれません。姫様が俺を追ってしまうかもしれません」
「お前との繋がりがそれほど強いと言っているのか?」
「この十日間の過酷な状況の中、姫様は俺には不相応なほどの愛情をくださいました。俺の想いも、充分すぎるほど受け止めてくださいました。未だ旅の途中という悪夢の中にいる状態では追ってくださるかもしれません。だから目を、醒ましていただかなくてはならないのです」

 ルカはヴィクトールに自分が考えた作戦を伝えた。
 スヴェトラーナに裏切る姿を見せることで旅を終わらせ目を醒ませる方法を。
 宝石はヴィクトールが預かって欲しい。スヴェトラーナに必要だと思った時、幸せになったと思った時に返して欲しい。
 怒鳴り声の合図を決め乗り込んできて欲しいというところまで説明を聞き、信頼を裏切られた怒りはあってもこれほどスヴェトラーナを想っているのならルカにとって苦しすぎる方法だとヴィクトールは思った。

「姫様がこの国で保護を約束されたのなら貴族の方との結婚も考えられます。そうなったら立場も確立され穏やかにお暮しになれるでしょう。俺はそれを望んでいます。今回俺が姫様を傷つけることで一時嘆かれるかもしれませんが、それも長い時間ではないでしょう。たった十日のことですから簡単に忘れられましょう。姫様の傷が癒えるその短い期間だけ、団長には姫様を慰めて守っていただきたいのです。俺は金も頂くつもりはありません。なのでこの願いだけは守るとお約束していただけないでしょうか」

 ルカの真摯にヴィクトールは心を打たれた。

「それは、いつから考えていた?」
「姫様が俺を受け止めてくださっても、いけない事だとわかっていましたから。きっと大公妃様たちは生きていらっしゃると信じていましたし、団長なら何としてでも保護を受け入れさせると疑いませんでした。姫様の幸せが俺の幸せです。そうなるように団長が尽くして下さることも、疑いません」

 ヴィクトールは哀れなルカに悲しくなった。
 もちろん立場からは言えないが、お前はそれで本当にいいのかと聞きたい思いに駆られた。

「俺は自分をわかっています。俺のような最下層のものが弁えない幸せを望むことは間違いです。今回のことは、もし神様っていう方がいらっしゃるのなら俺にくれた過ぎた褒美なのかもしれません。俺にはもう充分です。充分すぎるほどです」

 ルカが必死に笑って見せるので、ヴィクトールはもうなにも言えなくなった。
 ルカの願いを叶えると約束だけして、目頭を押さえてその場を去った。
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