17 / 22
17
しおりを挟む
スヴェトラーナはただそこにいた。
座り込んだまま動けず、ただ空虚な視線が宙を漂っていた。
ヴィクトールが戻って驚いたのは茫然とした姿ではなく、スヴェトラーナが泣いていない事だった。
今頃泣きじゃくっているだろうと勝手に思い込んでいたのだが、一粒の涙の跡もない。
「姫、大丈夫ですか?」
大丈夫ではないとわかっていて声をかける。他に掛ける言葉がないからだ。
スヴェトラーナはヴィクトールの言葉に顔を上げ手を差し出した。
ヴィクトールがその手を取って立たせようとすると、それを払い再び手を差し出す。
意味が解らずスヴェトラーナの前に片膝を突くと、スヴェトラーナは空虚な目で見つめ口を開いた。
「ルカから預かったものを渡してください」
ヴィクトールは戸惑った。
スヴェトラーナが何を言っているのか、なにを指して手を出しているのかがわかったからだ。
どうしてそれがわかったのか、あんな酷いことをされてなぜそれがわかったのか。 ヴィクトールはスヴェトラーナを見つめそれを探るのだが、空虚な目はなにも語らない。
ただその姿が哀れで。ここまでになっても疑っていないことが哀れで。
ヴィクトールは約束を破りポケットから出したものをスヴェトラーナの手に乗せた。
「わかっていましたか」
「やはりそうだったと、今わかりました」
ヴィクトールは引っかかったのだ。
スヴェトラーナの誘導にまんまと引っかかり、出してはいけなかったものを渡してしまった。
大事ではないそれを床に落とし、スヴェトラーナは目を閉じ俯いた。
「ヴィクトール。ひとりにしてください」
放っておける状態ではないのはわかっていたが、自分がここに居るべきでもない。
信じるには難しい状況であったが、スヴェトラーナが自身を傷付けないよう願うしことしか今出来ることはなかった。
ヴィクトールは静かに部屋を出てドアを閉めたが、暫くそこから動かずにいた。
*****
イグナシオ侯爵邸でスヴェトラーナが部屋に案内されてから、ヴィクトールはルカから話しがあると言われた。
今後の身の振り方であろうと思いルカを連れて外に出た。
しかし話しはヴィクトールの思っていたものとまるで違った。
「申し訳ございません。俺は姫様に弁えない感情を持ちました」
ルカはヴィクトールの前に跪き頭を下げた。
ヴィクトールは驚いた。ルカの一方的な懸想であれば報告する必要はないのだ。
それをわざわざ報告してくるほどルカの忠誠心の強さに驚いた。
「そうか。その忠誠心は今後も姫様に役立ててもらいたかったが仕方ない。お前はここを離れる気なのだろうな?」
「はい。そのつもりです」
「それがいい。辛いだろうがお前のような真面目な男なら仕事もすぐに見つかるだろう。今回の慰労に当座の生活に困らないだけの金は渡せる」
ルカを同情し立ち上がるよう腕を引いて促したが、ルカは立ち上がらない。
まだ話しは終わりではないのだ。
「姫様も、俺を望んでくださいました。俺と共に生きると、言ってくださいました……」
ヴィクトールは思わずルカの腕を掴んでしまった。
「お前!」
「わかっています!」
顔を上げたルカの真剣な目がヴィクトールを貫く。
クロフスにいた時の働きを見て、ルカほどの真面目な男ならばスヴェトラーナを最後まで守って亡命を成功させるだろうとヴィクトールは思っていた。
ルカの態度は常に誠実だったから家臣の身分でスヴェトラーナに弁えないようなこともしないと、だから近衛兵隊員ではないのにこの作戦に抜擢したのだ。
期待を裏切ったルカを怒鳴りつけたかったが、ヴィクトールには出来なかった。
ルカの真剣な目に貫かれ痛切さを見たからだ。
「本当にわかっているのか? どうするつもりだ。答え次第でわたしはお前を許さないぞ」
若い男女がふたりきりで危険な旅をしたのだからお互いが拠り所となり情が湧くようなことになっても責めるのは気の毒だ。
しかしただの男女ではない、スヴェトラーナにもルカにも立場はわかっているはずだ。それくらい弁えているはずだ。
もちろんルカはわかっている。わかっているから隠さず話しているのだ。
今のルカの目は、ヴィクトールの言う『許さない』を受け取る覚悟があると伝えている。
「許していただけるとは思っていません。俺はどうなってもかまわないのです。そして姫様をそれに巻き込む気はひとつもありません。俺はひとりで去ります」
「ならばそうしろ。今すぐに行け」
「いいえ。それは出来ません。俺が何も言わずに消えれば団長や他の誰かのせいになってしまうかもしれません。姫様が俺を追ってしまうかもしれません」
「お前との繋がりがそれほど強いと言っているのか?」
「この十日間の過酷な状況の中、姫様は俺には不相応なほどの愛情をくださいました。俺の想いも、充分すぎるほど受け止めてくださいました。未だ旅の途中という悪夢の中にいる状態では追ってくださるかもしれません。だから目を、醒ましていただかなくてはならないのです」
ルカはヴィクトールに自分が考えた作戦を伝えた。
スヴェトラーナに裏切る姿を見せることで旅を終わらせ目を醒ませる方法を。
宝石はヴィクトールが預かって欲しい。スヴェトラーナに必要だと思った時、幸せになったと思った時に返して欲しい。
怒鳴り声の合図を決め乗り込んできて欲しいというところまで説明を聞き、信頼を裏切られた怒りはあってもこれほどスヴェトラーナを想っているのならルカにとって苦しすぎる方法だとヴィクトールは思った。
「姫様がこの国で保護を約束されたのなら貴族の方との結婚も考えられます。そうなったら立場も確立され穏やかにお暮しになれるでしょう。俺はそれを望んでいます。今回俺が姫様を傷つけることで一時嘆かれるかもしれませんが、それも長い時間ではないでしょう。たった十日のことですから簡単に忘れられましょう。姫様の傷が癒えるその短い期間だけ、団長には姫様を慰めて守っていただきたいのです。俺は金も頂くつもりはありません。なのでこの願いだけは守るとお約束していただけないでしょうか」
ルカの真摯にヴィクトールは心を打たれた。
「それは、いつから考えていた?」
「姫様が俺を受け止めてくださっても、いけない事だとわかっていましたから。きっと大公妃様たちは生きていらっしゃると信じていましたし、団長なら何としてでも保護を受け入れさせると疑いませんでした。姫様の幸せが俺の幸せです。そうなるように団長が尽くして下さることも、疑いません」
ヴィクトールは哀れなルカに悲しくなった。
もちろん立場からは言えないが、お前はそれで本当にいいのかと聞きたい思いに駆られた。
「俺は自分をわかっています。俺のような最下層のものが弁えない幸せを望むことは間違いです。今回のことは、もし神様っていう方がいらっしゃるのなら俺にくれた過ぎた褒美なのかもしれません。俺にはもう充分です。充分すぎるほどです」
ルカが必死に笑って見せるので、ヴィクトールはもうなにも言えなくなった。
ルカの願いを叶えると約束だけして、目頭を押さえてその場を去った。
座り込んだまま動けず、ただ空虚な視線が宙を漂っていた。
ヴィクトールが戻って驚いたのは茫然とした姿ではなく、スヴェトラーナが泣いていない事だった。
今頃泣きじゃくっているだろうと勝手に思い込んでいたのだが、一粒の涙の跡もない。
「姫、大丈夫ですか?」
大丈夫ではないとわかっていて声をかける。他に掛ける言葉がないからだ。
スヴェトラーナはヴィクトールの言葉に顔を上げ手を差し出した。
ヴィクトールがその手を取って立たせようとすると、それを払い再び手を差し出す。
意味が解らずスヴェトラーナの前に片膝を突くと、スヴェトラーナは空虚な目で見つめ口を開いた。
「ルカから預かったものを渡してください」
ヴィクトールは戸惑った。
スヴェトラーナが何を言っているのか、なにを指して手を出しているのかがわかったからだ。
どうしてそれがわかったのか、あんな酷いことをされてなぜそれがわかったのか。 ヴィクトールはスヴェトラーナを見つめそれを探るのだが、空虚な目はなにも語らない。
ただその姿が哀れで。ここまでになっても疑っていないことが哀れで。
ヴィクトールは約束を破りポケットから出したものをスヴェトラーナの手に乗せた。
「わかっていましたか」
「やはりそうだったと、今わかりました」
ヴィクトールは引っかかったのだ。
スヴェトラーナの誘導にまんまと引っかかり、出してはいけなかったものを渡してしまった。
大事ではないそれを床に落とし、スヴェトラーナは目を閉じ俯いた。
「ヴィクトール。ひとりにしてください」
放っておける状態ではないのはわかっていたが、自分がここに居るべきでもない。
信じるには難しい状況であったが、スヴェトラーナが自身を傷付けないよう願うしことしか今出来ることはなかった。
ヴィクトールは静かに部屋を出てドアを閉めたが、暫くそこから動かずにいた。
*****
イグナシオ侯爵邸でスヴェトラーナが部屋に案内されてから、ヴィクトールはルカから話しがあると言われた。
今後の身の振り方であろうと思いルカを連れて外に出た。
しかし話しはヴィクトールの思っていたものとまるで違った。
「申し訳ございません。俺は姫様に弁えない感情を持ちました」
ルカはヴィクトールの前に跪き頭を下げた。
ヴィクトールは驚いた。ルカの一方的な懸想であれば報告する必要はないのだ。
それをわざわざ報告してくるほどルカの忠誠心の強さに驚いた。
「そうか。その忠誠心は今後も姫様に役立ててもらいたかったが仕方ない。お前はここを離れる気なのだろうな?」
「はい。そのつもりです」
「それがいい。辛いだろうがお前のような真面目な男なら仕事もすぐに見つかるだろう。今回の慰労に当座の生活に困らないだけの金は渡せる」
ルカを同情し立ち上がるよう腕を引いて促したが、ルカは立ち上がらない。
まだ話しは終わりではないのだ。
「姫様も、俺を望んでくださいました。俺と共に生きると、言ってくださいました……」
ヴィクトールは思わずルカの腕を掴んでしまった。
「お前!」
「わかっています!」
顔を上げたルカの真剣な目がヴィクトールを貫く。
クロフスにいた時の働きを見て、ルカほどの真面目な男ならばスヴェトラーナを最後まで守って亡命を成功させるだろうとヴィクトールは思っていた。
ルカの態度は常に誠実だったから家臣の身分でスヴェトラーナに弁えないようなこともしないと、だから近衛兵隊員ではないのにこの作戦に抜擢したのだ。
期待を裏切ったルカを怒鳴りつけたかったが、ヴィクトールには出来なかった。
ルカの真剣な目に貫かれ痛切さを見たからだ。
「本当にわかっているのか? どうするつもりだ。答え次第でわたしはお前を許さないぞ」
若い男女がふたりきりで危険な旅をしたのだからお互いが拠り所となり情が湧くようなことになっても責めるのは気の毒だ。
しかしただの男女ではない、スヴェトラーナにもルカにも立場はわかっているはずだ。それくらい弁えているはずだ。
もちろんルカはわかっている。わかっているから隠さず話しているのだ。
今のルカの目は、ヴィクトールの言う『許さない』を受け取る覚悟があると伝えている。
「許していただけるとは思っていません。俺はどうなってもかまわないのです。そして姫様をそれに巻き込む気はひとつもありません。俺はひとりで去ります」
「ならばそうしろ。今すぐに行け」
「いいえ。それは出来ません。俺が何も言わずに消えれば団長や他の誰かのせいになってしまうかもしれません。姫様が俺を追ってしまうかもしれません」
「お前との繋がりがそれほど強いと言っているのか?」
「この十日間の過酷な状況の中、姫様は俺には不相応なほどの愛情をくださいました。俺の想いも、充分すぎるほど受け止めてくださいました。未だ旅の途中という悪夢の中にいる状態では追ってくださるかもしれません。だから目を、醒ましていただかなくてはならないのです」
ルカはヴィクトールに自分が考えた作戦を伝えた。
スヴェトラーナに裏切る姿を見せることで旅を終わらせ目を醒ませる方法を。
宝石はヴィクトールが預かって欲しい。スヴェトラーナに必要だと思った時、幸せになったと思った時に返して欲しい。
怒鳴り声の合図を決め乗り込んできて欲しいというところまで説明を聞き、信頼を裏切られた怒りはあってもこれほどスヴェトラーナを想っているのならルカにとって苦しすぎる方法だとヴィクトールは思った。
「姫様がこの国で保護を約束されたのなら貴族の方との結婚も考えられます。そうなったら立場も確立され穏やかにお暮しになれるでしょう。俺はそれを望んでいます。今回俺が姫様を傷つけることで一時嘆かれるかもしれませんが、それも長い時間ではないでしょう。たった十日のことですから簡単に忘れられましょう。姫様の傷が癒えるその短い期間だけ、団長には姫様を慰めて守っていただきたいのです。俺は金も頂くつもりはありません。なのでこの願いだけは守るとお約束していただけないでしょうか」
ルカの真摯にヴィクトールは心を打たれた。
「それは、いつから考えていた?」
「姫様が俺を受け止めてくださっても、いけない事だとわかっていましたから。きっと大公妃様たちは生きていらっしゃると信じていましたし、団長なら何としてでも保護を受け入れさせると疑いませんでした。姫様の幸せが俺の幸せです。そうなるように団長が尽くして下さることも、疑いません」
ヴィクトールは哀れなルカに悲しくなった。
もちろん立場からは言えないが、お前はそれで本当にいいのかと聞きたい思いに駆られた。
「俺は自分をわかっています。俺のような最下層のものが弁えない幸せを望むことは間違いです。今回のことは、もし神様っていう方がいらっしゃるのなら俺にくれた過ぎた褒美なのかもしれません。俺にはもう充分です。充分すぎるほどです」
ルカが必死に笑って見せるので、ヴィクトールはもうなにも言えなくなった。
ルカの願いを叶えると約束だけして、目頭を押さえてその場を去った。
1
お気に入りに追加
264
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ふたりは片想い 〜騎士団長と司書の恋のゆくえ〜
長岡更紗
恋愛
王立図書館の司書として働いているミシェルが好きになったのは、騎士団長のスタンリー。
幼い頃に助けてもらった時から、スタンリーはミシェルのヒーローだった。
そんなずっと憧れていた人と、18歳で再会し、恋心を募らせながらミシェルはスタンリーと仲良くなっていく。
けれどお互いにお互いの気持ちを勘違いしまくりで……?!
元気いっぱいミシェルと、大人な魅力のスタンリー。そんな二人の恋の行方は。
他サイトにも投稿しています。
【完結】蒼き騎士と男装姫〜国を救いたい悪役令嬢は、騎士姿で真実の愛を見つけることができますか??
来海ありさ
恋愛
悪役令嬢なのに、なぜ男装!?
冷酷な王子、ミステリアスな従者、色気ダダ漏れの神官の息子など、国を守り断罪回避のため騎士姿で奮闘する「最低姫」が、気づいたら攻略対象者たちの恋愛フラグに巻き込まれていく転生ストーリー。果たして主人公は、真実の愛を見つけることができるのか?? ジレジレ溺愛ストーリー
◇◇
騎士の国ウンディーネ国の王女アーシャは、その可憐な美少女の外見を持ちながらも「最低姫」と言われていた!
だが、ある日、国の守り石である青の石の色が失われた時、前世の記憶を思いだし、ここが乙女ゲーム「蒼き騎士たちと聖女」だと思い出す。
「え、私が悪役令嬢?この国は滅び私は殺されちゃうの?」
そうはさせない!
最低姫が騎士の姿で国を救うため立ち上がる。気づいたら攻略対象者たちの恋愛フラグに巻き込まれていました!? 果たして主人公は、真実の愛を見つけることができるのか??
【完結】婚約者が好きなのです
maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。
でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。
冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。
彼の幼馴染だ。
そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。
私はどうすればいいのだろうか。
全34話(番外編含む)
※他サイトにも投稿しております
※1話〜4話までは文字数多めです
注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
人質王女の恋
小ろく
恋愛
先の戦争で傷を負った王女ミシェルは顔に大きな痣が残ってしまい、ベールで隠し人目から隠れて過ごしていた。
数年後、隣国の裏切りで亡国の危機が訪れる。
それを救ったのは、今まで国交のなかった強大国ヒューブレイン。
両国の国交正常化まで、ミシェルを人質としてヒューブレインで預かることになる。
聡明で清楚なミシェルに、国王アスランは惹かれていく。ミシェルも誠実で美しいアスランに惹かれていくが、顔の痣がアスランへの想いを止める。
傷を持つ王女と一途な国王の恋の話。
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる