亡国の公女の恋

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 暗闇の中、微動だにしない沈黙の長い時間が過ぎて行った。
 互いの小さな息遣いだけが聞こえ外からの音が無くなって暫く、やっと騎馬兵の男が動き出した。
 ゆっくりと、最小限の動作音だけで部屋の中を探る。
 キッチンにあるポットの中の匂いを嗅ぎ手のひらに零し舐めてから、コップに注ぎスヴェトラーナに差し出す。

「冷たいままで申し訳ありません」
「ありがとう」

 受け取ろうと頭では思っているはずなのだが、長い緊張状態のせいで身体が動かない。
 差し出されたままの水を掴むためなんとか腕を持ち上げようとする様子を見て、騎馬兵の男は目の前に片膝を突きそっとスヴェトラーナの手を取り包むように両手のなかにコップを握らせた。
 騎馬兵の男は立ち上がると再び部屋を探る。
 棚にある食べ物を物色し布巾に包みマントを脱ぐと、背中に背負った荷袋の中に入れた。
 騎馬兵の男は軍服を着ておらず、身分を隠して旅をするためなのだろう擦り切れ薄汚れたフロックコートの首に木綿のスカーフを巻いて一般的な平民の姿だ。
 しかし腰には服装に合わない剣帯ベルトが巻かれ剣が下がっており、反対側にはマスケット銃も差し込まれている。
 コートではなくマントだったのは、防寒だけではなくこれを隠すためだったのだ。
 この家の主も戦場と化した街から逃げたのだろう。スヴェトラーナたちもそうして逃れる平民のふりをしてこの国を出るのだ。
 スヴェトラーナはふと自分の服装を見る。
 一番動きやすそうでシンプルな服を着て来たつもりだったがそれでも貴族、もしくはその程度に裕福な女性に見えてしまう。
 自分の服を見下ろすスヴェトラーナに気が付き、騎馬兵の男は奥の部屋を探りに行った。
 この家に女性が住んでいたならドレスが残っているかもしれないと思ったからだ。
 ありがたいことに女性物のドレスはあった。サイズは少し大きそうだが、着られそうだ。

「姫様、この服に着替えましょう」

 騎馬兵の男に渡され、やっと動くようになった手で受け取る。
 着古された木綿のドレスにウールのコート。薄汚れたマントに傷だらけでつま先の皮が剥げたブーツ。
 今までスヴェトラーナが触れたこともないようなものだ。

「このような恰好をお願いすることをお許しください」

 騎馬兵の男が申し訳なさそうに謝る。
 謝る必要などないのだ。これはスヴェトラーナを守るためのものだ。

「いいのです。探してくれてありがとう。向こうで着てきます」

 奥の部屋へ移動すると、着ていた紺のシルクのドレスを脱いで着替えた。
 幅が少し大きく丈は少し短い。ウエストが緩く足首が隠れない。
 着替えて戻ると騎馬兵がエプロンと木綿の布をスヴェトラーナに渡した。

「これでウエストを締めれば身体に合わせられますし、こっちは首に巻いてください。街の女は皆そんな恰好をしています」

 言われた通りにエプロンを着け、首に木綿を巻いた。
 結い上げられた金色の絹糸のような真っ直ぐな長い髪を解き、雑にまとめて後ろでひとつに縛った。
 スヴェトラーナの姿を切ない表情で騎馬兵の男が見下ろした。
 気が付かなかったが、目の前に立つ騎馬兵の男はすらりと背が高い。
 目の慣れた暗闇にすっきりとした短髪と生真面目そうな顔が見える。
 宮殿の兵士なので不思議ではないが、見覚えのある顔だと思った。
 スヴェトラーナのグリーンの瞳に見上げられ、騎馬兵の男はやっと自分が何者かを伝えていないことに気が付いたようだった。
 咄嗟に片膝を床に突き頭を下げる。

「宮殿警備騎馬第一部隊隊員ルカ・ビンセヴと申します。姫様をレイルズまでお守りするよう近衛兵団ヴィクトール団長より命じられました。命に代えても姫様をレイルズまでお連れします」
「一緒に来てくれてありがとう」
「いえ。光栄な任務と心得ております」

 ルカは深く頭を下げ、ゆっくりと立ち上がった。
 スヴェトラーナはルカを見上げ見つめたが、ルカはそれを見返すことが出来なかった。
 後ろめたさがあったからだ。

 ルカが目を合わさない理由にスヴェトラーナは思い当たることがある。
 ここに来てから考えていたことに関係していると思った。

「リサたちとは、どこで落ち合う予定ですか?」

 聞いてはみたが、ルカが答えられないことに薄々気付いている。

「リサたちは、囮になったのですね。落ち合う場所は決めていないのですね」

 ルカは黙って俯いた。
 リサを乗せた馬車は真っ直ぐ進み、その後をコースリーの兵士が追って行った。
 おかげでスヴェトラーナたちは追われなかった。

「嘘を吐いて申し訳ありません。しかしあの時は、ああ言わなければ姫様が侍女の方を逃がしご自身が囮になって馬車を降りて下さらないのではないかと、切羽詰まっていました……。でも!適当なところで馬車を捨て二人が逃げられた可能性もあります。上手く行っていれば、きっと今頃……」

 ルカが勘違いしていると、スヴェトラーナは思った。
 ルカは嘘を吐き侍女を見捨て仲間の命も犠牲にしたことをスヴェトラーナが悲しみ、叱責するかもしれないと考えているのではないかと思った。
 しかしスヴェトラーナはルカを叱責したりする気はない。
 ルカが思っているような人間ではないことを申し訳なく思った。

「わかっていました。わかっていてなにも言わずあなたの馬に乗り移りました。リサの運命を決めたのはわたしです。あなたがそのことで罪悪感を持つことはありませんし、あなたのおかげでわたしはまだ生きています。わかっていて聞いたことを許して下さい」

 確認したかったのだ。
 自分が自分の命のためにリサを捨てたことを胸に確実に刻むために。
 この国のために戦争で大勢の国民が死んだ。
 スヴェトラーナの命のために自分の命を捨て、運命を変えた者たちも。
 間違いなくスヴェトラーナが背負わなくてはならないものだ。
 それでも生きると決めたのだから。
 無かったことや知らないふりはしてはいけない。
 胸に刻みつけて行かなくてはいけないスヴェトラーナが背負うべき傷と痛みだ。
 ルカが嘘を吐いたことに罪悪感を持つことは間違っている。
 全てスヴェトラーナの命の為にしたことなのだから。

 なんの言い訳もせず真っ直ぐに全てを背負おうとするスヴェトラーナを、ルカは気の毒に思った。
 十八歳の女性が背負うには人の命は重すぎる。
 大公には責任がないとは言えない。
 しかしこの戦争の最大の原因は強欲なコースリーがクロフスを欲しがったせいだ。 何度も協議を申し入れたが、勝てると踏んで一切応じなかった。
 容赦なく土地を奪い乱暴な勢いでこの国を蹂躙しようとしたコースリーが悪いのだ。
 決してスヴェトラーナのせいではない。
 だからそんなに背負おうとすることはないのだと、ルカは言ってあげたかった。
 しかしそれは出来なかった。
 スヴェトラーナの姿勢が、そんな言葉はいらないと言っているように見えたからだ。




 *****




 ルカがゆっくりと慎重にドアの前に置いた重い棚を押してどける。
 外はまだ薄暗い。夜明けまで時間がありそうだ。
 一刻も早く宮殿のある首都キヌルから出るために、コースリーの兵士たちも休んでいるだろうこの時間から動くことにしたのだ。

「なるべく裏道を通って街を抜けます。キヌルを抜けても安全とは言えませんが、今日中に出ましょう」

 荷物を担ぎフードを被って進むルカにスヴェトラーナは従って歩く。
 早い足取りで後ろのスヴェトラーナを気遣いながら歩くルカは緊張していた。
 体中の神経を外へ向け警戒しながら進む。
 路地を走るネズミの音にも敏感に反応するルカの背中を、スヴェトラーナも緊張しながら見ていた。
 ヴィクトールが『特別に優秀』と言っていたのはルカのことなのだろうかと考えながら。
 しかしそれならなぜ彼は近衛兵団員ではないのだろうか?
 国中の最も優秀な剣士が揃っているのが近衛兵団だ。
 しかしルカは宮殿警備騎馬隊員と言っていた。
 警備騎馬隊員が優秀じゃないわけではないが、『特別』かどうかというなら近衛兵の方が特別優秀だろう。
 スヴェトラーナを安心させるためにヴィクトールは言ったのだろうか?
 スヴェトラーナは軍や兵士の事をあまり知らない。
 関わることは殆どなかったし、戦う姿は闘技場で年に一度行われる剣技大会での練習試合でしか見たことがなかった。

「街を抜けたら遠回りになりますが林に入って進みます。もしかしたら簡単には馬車も馬も調達出来ないかもしれません。姫様には暫く歩いていただかなくてはなりませんが、足は大丈夫でしょうか?」

 ルカが振り向いて確認する。他人の靴なのでサイズが少し大きいのを気にしているようだ。
 しかし歩けないと言える状況でもない。

「大丈夫です。馬車や馬では目につく可能性も上がります。歩いて行けます」

 スヴェトラーナの言葉に安心したようにルカは息を吐いた。

「辛くなったらすぐに仰ってください。無理をして動けなくなってしまう方が危険なので」

 もしかしたら公女を歩かせることに迷いがあったのだろうか?
 スヴェトラーナは馬車で優雅にレイルズまで辿り着けるなどという甘いことは考えていない。
 すでに公女という身分さえこの国では風前の灯だ。
 まだ明け方前ということもあって、こんなにも順調に進めるのかと思うほど人と行きかわず距離を進んだ。
 白々と空が明るくなり始めても民家に気配はない。そのほとんどが主人の逃げた空き家だったのだろう。
 民家が少なくなって道が開けてくる。
 スヴェトラーナはもう見えなくなった宮殿と家族の事を考えながら歩いていた。
 夜中に大きな音は聞こえなかった。囲まれていたがまだ宮殿は落ちていないのだろう。
 もし落ちていればコースリーの兵士たちが祝杯を挙げ街が静かな訳がない。
 今日が山場だ。今日がこの国の終わる日なのだろう。
 母と弟は無事脱出出来ただろうか。
 父はどんな最後を迎えるだろうか。
 コースリーの兵士が大公の尊厳を守ってくれるだろうか。
 城に残った者たちはどうなるのだろうか。
 複雑な感情と苦しい状況を考えながら歩いていたせいで、呼ばれるのに気付くのが遅れた。

「姫様。あの先に見える林の入り口まで俺の手を掴んでもらえますか? 暫く隠れる建物がないので、万が一の時に反応が遅れないように掴んでいて欲しいのです」

 スヴェトラーナは頷いてルカの左手を片手で握り、もう片手で手首も掴んだ。

「今は何も考えないで、俺を離さないでください」

 ルカの大きな手が力強くスヴェトラーナの手を握る。
 今はとにかくこの遮るものが無いこの場所を抜けなければ。
 姿から公女には見えないだろうが、平民なら安全だと考えてはいけない。
 街が空になるほど民が逃げ出したのは、それほどコースリー兵が乱暴で恐ろしいからだ。
 スヴェトラーナは無意識にルカの手を強く握ってしまっていた。
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