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クロフス公国の宮殿裏から一台の粗末な馬車が走り出た。
馬車と並走する二騎の騎馬兵と全速力で街を駆け抜けていく。
その後ろから松明を持った別の軍服を着た騎兵が追いかけて来る。
「急いで! このままだと追いつかれてしまう!」
「姫! 危険です! 顔を出してはいけません!」
まだ早い。まだ足りない。
時間を稼がなくてはならない。
松明の灯りが距離を詰めてくるのを必死に逃げる。
その馬車に乗っているのはクロフス公国公女スヴェトラーナと侍女のリサ。
馬車から顔を出すと慣れ親しんだ宮殿が闇夜にはっきりと見える。
もう落ちるのは時間の問題だ。
急がなくてはならない。一刻も早く宮殿から離れ時間を稼がなくてはならない。
****
クロフス公国は二年にも及ぶコースリー帝国との戦いが終結を迎えようとしていた。
コースリー軍がクロフスの首都キヌルにまで攻め込んで来たのが二日前、ここまで来たら覚悟を決めなくてはならない段に来て大公ボグダノヴィチは後悔の中にいた。
もうずいぶん前に大国ヒューブレインに助けを求めるべきだと家臣たちに進言されていたのに、何度もされていたのに拒み続けた。
ヒューブレインの冷徹と噂される若き王が援軍を寄越し参戦し勝てたとしても、次はヒューブレインの属国となって怯え続けるしかないなら最後まで戦う道を選んだのだ。
ヒューブレインに賭けていたらこの国が亡くなることだけは避けられたかもしれない。
そんなことを後悔しても今更だ。
自分の命の期限が切られている状況で、するべきことをしなくてはならない。
民を危険に晒し家臣の命を失い続けている状況ではあっても、家族の命を救いたい。
妻である大公妃エカチェリーナと十歳の息子のゴルジェイ、十八歳の娘のスヴェトラーナを逃がしたい。
西のコースリー帝国、北東にコースリーの同盟国グルシスタ王国。東南には大国ヒューブレイン王国、北にレイルズ皇国。
この四国に囲まれて逃げるとしたら一番近くこの戦争に関わりのないレイルズ皇国しかない。
レイルズはヒューブレインと同盟を結んでいてクロフスとは国交がない。だが貿易ルートはある。
受け入れてもらえるかはわからない。受け入れられたとしてもどんな待遇になるかもわからない。
しかしそこしか助かる道はない。
ボグダノヴィチは妻と子供たちに急いで支度をさせ、この国を出ろと伝えた。
ほぼ囲まれているこの状況でこの宮殿を抜け出すことさえ困難な状況にあって、宮殿を抜け国から無事に脱出出来る確率は高くない。
「私が囮になります。馬車で飛び出せば必ず気付いて追いかけて来るでしょう。だから私が先に馬車で出て東に向かい引き付けます。その隙にお母様とゴルジェイは闇に紛れて北へ向かってください」
スヴェトラーナが言い出したことで、大公妃エカチェリーナは泣き出した。
「そんなことおまえにさせられません!」
「お母様。もし別の者が囮になったとしても、見つかってそれで終わりです。しかし本物の公女であるわたしならもし掴まっても私だけが逃がされたのか、お母様やゴルジェイも逃げたのかを聞き出そうとするでしょう。わたしは口を割りません。その間時間が稼げるのです」
幼いゴルジェイを生かすためにはそれしか道はない。
ボグダノヴィチは決断した。
「スヴェトラーナ、お前には辛い道を行かせなくてはならん。父を許せ」
「私は必ずうまく逃げます。そしてレイルズでお母様とゴルジェイと合流します。お父様は……」
スヴェトラーナは父のこの先の運命を想い声を詰まらせた。
エカチェリーナもゴルジェイもボグダノヴィチの足元で泣き崩れている。
「こうなってしまった責任を取らねばならない。私の決断がこの事態を招いたのだ。悲しむな。必ず生き延びてこのクロフス公家の血を絶やさぬようにしてくれ。それがお前たちのやらねばならぬことだ」
スヴェトラーナもボグダノヴィチに縋った。家族が抱き合い、ボグダノヴィチの最後の愛情を受け取った。
「さあ、ゆっくりはしていられません。急いで支度を!」
近衛兵団団長ヴィクトールの声に引きはがされ、これがボグダノヴィチとの今生の別れとなった。
「スヴェトラーナ。必ず! 必ず逃げ切って、レイルズで逢いましょう」
「お姉さま、必ず!」
スヴェトラーナは母と弟を強く抱きしめ約束した。
三人の亡命を要請するために二人の兵が先にレイルズに出発した。
エカチェリーナとゴルジェイには侍女の他にヴィクトール以下近衛兵六人が付き添い、スヴェトラーナには侍女の他に団長ヴィクトールが選んだ近衛兵二人と警備兵ひとりが付き添うことになった。
それ以上の兵を付けることも出来ない状態なのだ。
「姫様には特別に優れた者を付けます。危険な旅になりますが、必ず彼がお守り致します」
ヴィクトールに言われ、スヴェトラーナは頷いた。
荷物は多く持って行けない。最小限を肩に斜めに担げる鞄に詰め込み、これから必要になるかもしれない金貨と宝石を詰め込めるだけ巾着袋に入れ、入りきらない分はそのままコルセットの胸の中に押し込んだ。
持っている中で一番動きやすそうなドレスにマントを纏い、スヴェトラーナは気持ちを決めた。
この先は決して振り返ることが許されない。
気持ちが振り返ったら自分の命はそこで終わる。
父への想いも、母や弟の心配も。生まれ育ったこの宮殿に引かれる後ろ髪もその場に置いて、スヴェトラーナは暗く寒い隠れ通路を侍女と三人の兵達と進んだ。
使用人の通用口に用意された黒い幌の粗末な馬車に乗り込む。
「リサ、付き添ってくれてありがとう」
「どこまででも、姫様と一緒ですよ」
幼い頃から傍にいてくれるリサの手を握り、時を待つ。
「姫様、走ります」
馬車の外から騎馬兵の声が聞こえ、スヴェトラーナは緊張と戦いながら頷いた。
「はっ!」
馬車の従者が馬に鞭を打つ。
ガクンと後ろに揺れてから馬車が走り出した。
通用口を勢いよく飛び出し騒音を立てて城の裏門へ向かって走る。
「馬車が出て来たぞ!」
叫ぶ声が聞こえて、馬の蹄の音に混ざって足音が向かって来るのも聞こえる。
金属音が鳴り剣がぶつかり合う音だと気付く。馬車を通すためにコースリーの兵を薙ぎ倒しているのだ。
馬車にも馬や人がぶつかり、その度に大きく揺れる。
一番人気のないところを狙ったつもりだが、それでもすんなり出してはくれない。
「ひぃ!」
馬車の幌に銃の玉が撃ち込まれ、リサが悲鳴を上げた。
スヴェトラーナはリサを抱きしめ、歯を喰いしばった。
まだ抜けられないのか?
背後から剣が突き刺さり幌が破れる。
「頭を下げて! 床に蹲ってください!」
外から怒鳴り声が聞こえる。
スヴェトラーナはリサを抱え椅子から滑り降りて馬車の床に蹲る。
揺れが激しい。リサはすでに泣き出している。
しかしここで終わるわけには行かない。
ここで終わってしまったら、この後エカチェリーナたちが出られなくなる。
馬車の窓が割れ、リサが再び悲鳴を上げる。
蹲る頭上にガラスが降り、スヴェトラーナはリサに覆いかぶさる。
「姫様! 姫様!」
パニックを起こしているリサが叫ぶ。
自分の役割はスヴェトラーナを守ることなのに守られている。しかし動くことが出来ない。
「いいの! 舌を噛むから黙ってなさい!」
早く!早くここを抜け出させて!
リサに覆いかぶさりながらスヴェトラーナは祈った。
たった数十メートルがこんなにも長いのか!
「姫! 抜けました!」
怒鳴り声と共に馬車が加速する。
スヴェトラーナはリサをそのままにして起き上がり椅子に膝を突いて割れた窓から顔を出した。
後ろから松明がいくつも追いかけて来るのが見える。
「急いで! このままだと追いつかれてしまう!」
「姫! 危険です! 顔を出してはいけません!」
タイヤから煙が出そうなほどの勢いで街を駆け抜けていく。
左右にいた騎馬兵のひとりが叫ぶ。
「行け! ここを食い止める!」
「待ってください! だめです!」
スヴェトラーナも叫ぶが、剣を持った手を高く上げ並走から下がっていく。
「姫! 顔を出さないでください!」
「だめです! まだ行けます! まだ一緒に!」
「お願いです! 顔を中に!」
並走する騎馬兵が馬車に寄り手を伸ばし、窓から顔を出し下がっていく兵に叫ぶスヴェトラーナの肩を押して中に入れる。
「彼の命を無駄にしないでください! 中に入って!」
あの騎馬兵は助からない。
命がけで足止めに行ったのだ。
スヴェトラーナを逃がすために。その後に逃げるエカチェリーナたちのために命を捨てたのだ。
馬車の中で拳を固く握る。
泣いてはいけない。泣いていい時じゃない。
あの騎馬兵のように、自分も守らなくてはいけないのだ。守るためにこうしているのだ。
「このままじゃだめだ、すぐに追いつかれる!」
外から怒鳴り声が聞こえる。
並走していた騎馬兵が従者の横へ行き何かを言っているが、スヴェトラーナには会話まで聞き取れない。
リサの手を握りながら、祈る。
なんとしてもこの場を切り抜けたい。捕まるとしても、まだ早い。こんなんじゃ時間稼ぎに足りない。
「姫! 馬車を捨てます!」
割れた窓の外から騎馬兵が叫ぶ。
「捨ててどうするのです!」
「二手に別れて逃げます! 追っ手を分散します! あの先の角を曲がったら俺の馬に乗り移って下さい!」
スヴェトラーナはリサを振り返った。
ガタガタと震えている。
覚悟して付いてきたつもりでも、ここまでの恐怖は想像を超えていたのだ。
「合流先も決めてあります! 上手く行けば逢えます!」
スヴェトラーナはリサの手を握った。
「必ず逢えます! 必ず!」
「ひ……姫様……!」
ドレスの胸に手を入れ指に当たった宝石を引っ張り出しリサの手に握らす。
「もし逢えなかったらこれを売って遠くに逃げて! リサ! わかりましたね!」
リサの顔は涙で濡れ、震える手は必死にスヴェトラーナの手を握り返していた。
もう角まであと少しだ。
スヴェトラーナはリサを抱きしめた。
「生きるのよ。逃げるのよ」
泣くことしかできないリサは言葉も出ない。
最後まで共にすると誓ったが、ここまでだ。
「姫!」
猛スピードで曲がったせいで強烈な遠心力が抱きしめたリサと共にスヴェトラーナの身体を馬車の壁に激突させる。
痛みを感じている余裕もなく振り返ると、馬車のドアが開き中に手が差し伸べられる。
「姫! 手を! 早く!」
スヴェトラーナは必死で腕を伸ばし、その腕を掴んだ手が身体ごと引っ張る。
「姫様ぁ!」
後ろからリサの絞り出した叫びが聞こえたが、スヴェトラーナは引かれるまま身体を騎馬兵へ預け、抱えられるように馬に乗り移った。
騎馬兵の足が乱暴に馬車のドアを蹴って閉め馬車はそのまま真っ直ぐ進んで走り、スヴェトラーナの乗った馬は脇道へ曲がって行く。
騎馬兵にしがみつき、リサの涙を振り払った。
リサにはもう逢えないだろうと思った。
リサもきっと、もう二度と逢えないと解っていたと思う。
二度目の角を曲がってから、馬が止まる。
「馬を捨てます」
騎馬兵は馬から降りスヴェトラーナを抱えて下ろすと、馬の尻と叩いて走り去らせた。
そのまま手を掴んで走り出し、スヴェトラーナは黙って従い走った。
更に何度か角を曲がった細い路地にある建物の前で止まり騎馬兵がドアを叩く。
誰も出てこない事をドアに耳を付けて確認し、膝で蹴破る。
「姫、入って下さい」
中を見渡して確認してからスヴェトラーナを入れ、閉めたドアの横にある重そうな棚を渾身の力で移動させドアが開かないよう塞いだ。
中は鎧戸も締まっているせいか暗く、静寂に床の軋む音とふたりの荒れた息使いが大きく響いた。
「夜明け前には出発しますが、少しここで隠れて時間を稼ぎます」
騎馬兵の男は言いながらスヴェトラーナの手を取り、暗闇でなにがあるかわからない部屋を進み椅子までたどり着かせた。
「ここに座って休んでください」
この暗さの中でよく椅子のある場所が解るのか不思議だったが、最初にドアを開けた時にうっすらと見えた配置を覚えて案内したのだった。
外に耳を澄ませると遠くで馬の蹄の音がする。
スヴェトラーナは身体を緊張させる。
「一軒ずつ開けて回ったりはしないと思うので。もし見つかっても必ずお守りします。信じてください」
小声で言われ気配のする方を見るが、まだ目が慣れておらず顔は見えない。
「わかりました……」
スヴェトラーナも小声で返事をし、お互いに耳を澄ませながら黙って緊張していた。
微動だにしない時間が外から聞こえる音と共にに過ぎていく。
少しずつ慣れた目が騎馬兵の男の姿を確認できるまでになり、スヴェトラーナの側で立つその緊張した横顔を見つめた。
彼も命がけなのだ。
残るも去るも、行く先には命がかかっている。
この国の命が消える運命なのは確実で、あとはどれだけ足掻けるかだ。
スヴェトラーナは足掻くと決めた。
消える運命の父のために。母と弟を守るために。
この国があったという証のために。
自分のために運命を受け入れた人のために。
この騎馬兵の男のためにも。
馬車と並走する二騎の騎馬兵と全速力で街を駆け抜けていく。
その後ろから松明を持った別の軍服を着た騎兵が追いかけて来る。
「急いで! このままだと追いつかれてしまう!」
「姫! 危険です! 顔を出してはいけません!」
まだ早い。まだ足りない。
時間を稼がなくてはならない。
松明の灯りが距離を詰めてくるのを必死に逃げる。
その馬車に乗っているのはクロフス公国公女スヴェトラーナと侍女のリサ。
馬車から顔を出すと慣れ親しんだ宮殿が闇夜にはっきりと見える。
もう落ちるのは時間の問題だ。
急がなくてはならない。一刻も早く宮殿から離れ時間を稼がなくてはならない。
****
クロフス公国は二年にも及ぶコースリー帝国との戦いが終結を迎えようとしていた。
コースリー軍がクロフスの首都キヌルにまで攻め込んで来たのが二日前、ここまで来たら覚悟を決めなくてはならない段に来て大公ボグダノヴィチは後悔の中にいた。
もうずいぶん前に大国ヒューブレインに助けを求めるべきだと家臣たちに進言されていたのに、何度もされていたのに拒み続けた。
ヒューブレインの冷徹と噂される若き王が援軍を寄越し参戦し勝てたとしても、次はヒューブレインの属国となって怯え続けるしかないなら最後まで戦う道を選んだのだ。
ヒューブレインに賭けていたらこの国が亡くなることだけは避けられたかもしれない。
そんなことを後悔しても今更だ。
自分の命の期限が切られている状況で、するべきことをしなくてはならない。
民を危険に晒し家臣の命を失い続けている状況ではあっても、家族の命を救いたい。
妻である大公妃エカチェリーナと十歳の息子のゴルジェイ、十八歳の娘のスヴェトラーナを逃がしたい。
西のコースリー帝国、北東にコースリーの同盟国グルシスタ王国。東南には大国ヒューブレイン王国、北にレイルズ皇国。
この四国に囲まれて逃げるとしたら一番近くこの戦争に関わりのないレイルズ皇国しかない。
レイルズはヒューブレインと同盟を結んでいてクロフスとは国交がない。だが貿易ルートはある。
受け入れてもらえるかはわからない。受け入れられたとしてもどんな待遇になるかもわからない。
しかしそこしか助かる道はない。
ボグダノヴィチは妻と子供たちに急いで支度をさせ、この国を出ろと伝えた。
ほぼ囲まれているこの状況でこの宮殿を抜け出すことさえ困難な状況にあって、宮殿を抜け国から無事に脱出出来る確率は高くない。
「私が囮になります。馬車で飛び出せば必ず気付いて追いかけて来るでしょう。だから私が先に馬車で出て東に向かい引き付けます。その隙にお母様とゴルジェイは闇に紛れて北へ向かってください」
スヴェトラーナが言い出したことで、大公妃エカチェリーナは泣き出した。
「そんなことおまえにさせられません!」
「お母様。もし別の者が囮になったとしても、見つかってそれで終わりです。しかし本物の公女であるわたしならもし掴まっても私だけが逃がされたのか、お母様やゴルジェイも逃げたのかを聞き出そうとするでしょう。わたしは口を割りません。その間時間が稼げるのです」
幼いゴルジェイを生かすためにはそれしか道はない。
ボグダノヴィチは決断した。
「スヴェトラーナ、お前には辛い道を行かせなくてはならん。父を許せ」
「私は必ずうまく逃げます。そしてレイルズでお母様とゴルジェイと合流します。お父様は……」
スヴェトラーナは父のこの先の運命を想い声を詰まらせた。
エカチェリーナもゴルジェイもボグダノヴィチの足元で泣き崩れている。
「こうなってしまった責任を取らねばならない。私の決断がこの事態を招いたのだ。悲しむな。必ず生き延びてこのクロフス公家の血を絶やさぬようにしてくれ。それがお前たちのやらねばならぬことだ」
スヴェトラーナもボグダノヴィチに縋った。家族が抱き合い、ボグダノヴィチの最後の愛情を受け取った。
「さあ、ゆっくりはしていられません。急いで支度を!」
近衛兵団団長ヴィクトールの声に引きはがされ、これがボグダノヴィチとの今生の別れとなった。
「スヴェトラーナ。必ず! 必ず逃げ切って、レイルズで逢いましょう」
「お姉さま、必ず!」
スヴェトラーナは母と弟を強く抱きしめ約束した。
三人の亡命を要請するために二人の兵が先にレイルズに出発した。
エカチェリーナとゴルジェイには侍女の他にヴィクトール以下近衛兵六人が付き添い、スヴェトラーナには侍女の他に団長ヴィクトールが選んだ近衛兵二人と警備兵ひとりが付き添うことになった。
それ以上の兵を付けることも出来ない状態なのだ。
「姫様には特別に優れた者を付けます。危険な旅になりますが、必ず彼がお守り致します」
ヴィクトールに言われ、スヴェトラーナは頷いた。
荷物は多く持って行けない。最小限を肩に斜めに担げる鞄に詰め込み、これから必要になるかもしれない金貨と宝石を詰め込めるだけ巾着袋に入れ、入りきらない分はそのままコルセットの胸の中に押し込んだ。
持っている中で一番動きやすそうなドレスにマントを纏い、スヴェトラーナは気持ちを決めた。
この先は決して振り返ることが許されない。
気持ちが振り返ったら自分の命はそこで終わる。
父への想いも、母や弟の心配も。生まれ育ったこの宮殿に引かれる後ろ髪もその場に置いて、スヴェトラーナは暗く寒い隠れ通路を侍女と三人の兵達と進んだ。
使用人の通用口に用意された黒い幌の粗末な馬車に乗り込む。
「リサ、付き添ってくれてありがとう」
「どこまででも、姫様と一緒ですよ」
幼い頃から傍にいてくれるリサの手を握り、時を待つ。
「姫様、走ります」
馬車の外から騎馬兵の声が聞こえ、スヴェトラーナは緊張と戦いながら頷いた。
「はっ!」
馬車の従者が馬に鞭を打つ。
ガクンと後ろに揺れてから馬車が走り出した。
通用口を勢いよく飛び出し騒音を立てて城の裏門へ向かって走る。
「馬車が出て来たぞ!」
叫ぶ声が聞こえて、馬の蹄の音に混ざって足音が向かって来るのも聞こえる。
金属音が鳴り剣がぶつかり合う音だと気付く。馬車を通すためにコースリーの兵を薙ぎ倒しているのだ。
馬車にも馬や人がぶつかり、その度に大きく揺れる。
一番人気のないところを狙ったつもりだが、それでもすんなり出してはくれない。
「ひぃ!」
馬車の幌に銃の玉が撃ち込まれ、リサが悲鳴を上げた。
スヴェトラーナはリサを抱きしめ、歯を喰いしばった。
まだ抜けられないのか?
背後から剣が突き刺さり幌が破れる。
「頭を下げて! 床に蹲ってください!」
外から怒鳴り声が聞こえる。
スヴェトラーナはリサを抱え椅子から滑り降りて馬車の床に蹲る。
揺れが激しい。リサはすでに泣き出している。
しかしここで終わるわけには行かない。
ここで終わってしまったら、この後エカチェリーナたちが出られなくなる。
馬車の窓が割れ、リサが再び悲鳴を上げる。
蹲る頭上にガラスが降り、スヴェトラーナはリサに覆いかぶさる。
「姫様! 姫様!」
パニックを起こしているリサが叫ぶ。
自分の役割はスヴェトラーナを守ることなのに守られている。しかし動くことが出来ない。
「いいの! 舌を噛むから黙ってなさい!」
早く!早くここを抜け出させて!
リサに覆いかぶさりながらスヴェトラーナは祈った。
たった数十メートルがこんなにも長いのか!
「姫! 抜けました!」
怒鳴り声と共に馬車が加速する。
スヴェトラーナはリサをそのままにして起き上がり椅子に膝を突いて割れた窓から顔を出した。
後ろから松明がいくつも追いかけて来るのが見える。
「急いで! このままだと追いつかれてしまう!」
「姫! 危険です! 顔を出してはいけません!」
タイヤから煙が出そうなほどの勢いで街を駆け抜けていく。
左右にいた騎馬兵のひとりが叫ぶ。
「行け! ここを食い止める!」
「待ってください! だめです!」
スヴェトラーナも叫ぶが、剣を持った手を高く上げ並走から下がっていく。
「姫! 顔を出さないでください!」
「だめです! まだ行けます! まだ一緒に!」
「お願いです! 顔を中に!」
並走する騎馬兵が馬車に寄り手を伸ばし、窓から顔を出し下がっていく兵に叫ぶスヴェトラーナの肩を押して中に入れる。
「彼の命を無駄にしないでください! 中に入って!」
あの騎馬兵は助からない。
命がけで足止めに行ったのだ。
スヴェトラーナを逃がすために。その後に逃げるエカチェリーナたちのために命を捨てたのだ。
馬車の中で拳を固く握る。
泣いてはいけない。泣いていい時じゃない。
あの騎馬兵のように、自分も守らなくてはいけないのだ。守るためにこうしているのだ。
「このままじゃだめだ、すぐに追いつかれる!」
外から怒鳴り声が聞こえる。
並走していた騎馬兵が従者の横へ行き何かを言っているが、スヴェトラーナには会話まで聞き取れない。
リサの手を握りながら、祈る。
なんとしてもこの場を切り抜けたい。捕まるとしても、まだ早い。こんなんじゃ時間稼ぎに足りない。
「姫! 馬車を捨てます!」
割れた窓の外から騎馬兵が叫ぶ。
「捨ててどうするのです!」
「二手に別れて逃げます! 追っ手を分散します! あの先の角を曲がったら俺の馬に乗り移って下さい!」
スヴェトラーナはリサを振り返った。
ガタガタと震えている。
覚悟して付いてきたつもりでも、ここまでの恐怖は想像を超えていたのだ。
「合流先も決めてあります! 上手く行けば逢えます!」
スヴェトラーナはリサの手を握った。
「必ず逢えます! 必ず!」
「ひ……姫様……!」
ドレスの胸に手を入れ指に当たった宝石を引っ張り出しリサの手に握らす。
「もし逢えなかったらこれを売って遠くに逃げて! リサ! わかりましたね!」
リサの顔は涙で濡れ、震える手は必死にスヴェトラーナの手を握り返していた。
もう角まであと少しだ。
スヴェトラーナはリサを抱きしめた。
「生きるのよ。逃げるのよ」
泣くことしかできないリサは言葉も出ない。
最後まで共にすると誓ったが、ここまでだ。
「姫!」
猛スピードで曲がったせいで強烈な遠心力が抱きしめたリサと共にスヴェトラーナの身体を馬車の壁に激突させる。
痛みを感じている余裕もなく振り返ると、馬車のドアが開き中に手が差し伸べられる。
「姫! 手を! 早く!」
スヴェトラーナは必死で腕を伸ばし、その腕を掴んだ手が身体ごと引っ張る。
「姫様ぁ!」
後ろからリサの絞り出した叫びが聞こえたが、スヴェトラーナは引かれるまま身体を騎馬兵へ預け、抱えられるように馬に乗り移った。
騎馬兵の足が乱暴に馬車のドアを蹴って閉め馬車はそのまま真っ直ぐ進んで走り、スヴェトラーナの乗った馬は脇道へ曲がって行く。
騎馬兵にしがみつき、リサの涙を振り払った。
リサにはもう逢えないだろうと思った。
リサもきっと、もう二度と逢えないと解っていたと思う。
二度目の角を曲がってから、馬が止まる。
「馬を捨てます」
騎馬兵は馬から降りスヴェトラーナを抱えて下ろすと、馬の尻と叩いて走り去らせた。
そのまま手を掴んで走り出し、スヴェトラーナは黙って従い走った。
更に何度か角を曲がった細い路地にある建物の前で止まり騎馬兵がドアを叩く。
誰も出てこない事をドアに耳を付けて確認し、膝で蹴破る。
「姫、入って下さい」
中を見渡して確認してからスヴェトラーナを入れ、閉めたドアの横にある重そうな棚を渾身の力で移動させドアが開かないよう塞いだ。
中は鎧戸も締まっているせいか暗く、静寂に床の軋む音とふたりの荒れた息使いが大きく響いた。
「夜明け前には出発しますが、少しここで隠れて時間を稼ぎます」
騎馬兵の男は言いながらスヴェトラーナの手を取り、暗闇でなにがあるかわからない部屋を進み椅子までたどり着かせた。
「ここに座って休んでください」
この暗さの中でよく椅子のある場所が解るのか不思議だったが、最初にドアを開けた時にうっすらと見えた配置を覚えて案内したのだった。
外に耳を澄ませると遠くで馬の蹄の音がする。
スヴェトラーナは身体を緊張させる。
「一軒ずつ開けて回ったりはしないと思うので。もし見つかっても必ずお守りします。信じてください」
小声で言われ気配のする方を見るが、まだ目が慣れておらず顔は見えない。
「わかりました……」
スヴェトラーナも小声で返事をし、お互いに耳を澄ませながら黙って緊張していた。
微動だにしない時間が外から聞こえる音と共にに過ぎていく。
少しずつ慣れた目が騎馬兵の男の姿を確認できるまでになり、スヴェトラーナの側で立つその緊張した横顔を見つめた。
彼も命がけなのだ。
残るも去るも、行く先には命がかかっている。
この国の命が消える運命なのは確実で、あとはどれだけ足掻けるかだ。
スヴェトラーナは足掻くと決めた。
消える運命の父のために。母と弟を守るために。
この国があったという証のために。
自分のために運命を受け入れた人のために。
この騎馬兵の男のためにも。
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