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舞踏会に行くドレスを選んだのはルリーンだった。
ハイネックのアクアブルーの長袖ドレス。
謁見に着て行った、アスランと初めて逢った時のドレスだ。
「今のミシェル殿下に飾るものは必要ありません。ありのままの殿下で誰よりもお美しいので」
ミシェルもこのドレスがいいと思った。
飾り立てることに慣れていない自分がヒューブレインの貴族女性のような恰好をしても、同じようには振舞えないことがわかっていたからだ。
髪型も、少しねじりはくわえられたがハーフアップに結って庭の花を挿しただけだ。
ブロンソンが持ってきた仮面は顔の上半分を隠す形のもので、銀に白い絵の具で細かく花や螺旋が描かれているものだった。
顔に着け後ろに刺した花の下で結んで固定すると、いつもの顔を隠したミシェルの顔になる。
*****
サロンで初めてベールを取った翌日。
ミシェルは初めてベールを取って朝食を摂った。
ベールを取って化粧で痣を隠した姿でダイニングに現れたミシェルを見たクロウは一瞬固まってしまった。
前日に帰国が決まって、もうこんな日は来ないかもしれないと思っていたからだ。
少し緊張しながら恥ずかしそうにミシェルが微笑むと、クロウは年甲斐もなく泣きそうになった。
さらにその翌日から、メイドや下僕の前でもベールを取って過ごした。その話を聞いたコックも食堂をこっそり覗きにきた。
短い期間で、ミシェルは使用人たちに心から愛され敬われていた。
ミシェルがベールを取って過ごせることを喜び、こんなにも美しい王女に使えていたことを歓喜し勇気を称えた。
当のミシェルはクロウの前に出るまでに自室のドアを出たり入ったりと十回ほど繰り返し、階段の昇り降りも五回。更にダイニングの入り口の前で数分間ルリーンの手を握りながら過ごしクロウの前に出るまでに相当の勇気を必要としたのだったが、クロウが泣きそうになったことを必死の繕いで隠し何でもないように普段通りにしてくれたので他の者たちの前に出る勇気も持てるようになった。
後でルリーンからクロウが感動して泣いていたと聞かされて驚いたくらい、ミシェルの前のクロウは普段と変わらなかった。
ミシェルが人前に出ることがどうしてこんなに難しかったのか。
化粧で隠れていることはわかっていてもずっと見てきた痣のある顔は頭にイメージとして付きすぎているが故に、もしかしたら透けて見えてしまうかもしれないというありもしない懸念が足を止めさせてしまうのだ。
ちゃんと隠れている。何度も繰り返し自分に言い聞かせるのだが、本当は痣が消えているわけではないので不安になってしまうのだった。
さらに。これはこの屋敷、使用人たちの前だから出来たことで。アスランの前、ましてや大勢の知らない人のいる前でとなるとミシェルに必要な勇気は計り知れないとルリーンもミシェル本人もわかっていた。
そのうえミシェルはメイクをした顔を沢山の人の前で晒すことが成功なわけではなく、アスランにこれはメイクだということも伝えアスランがそれでも良いと言ってくれたら痣のある素顔も晒す覚悟も必要なのだ。
あんな酷い断り方をして、それでもまだ間に合うだろうか?
間に合ったとしても、本当に醜い痣のある女性を一生傍に置こうと決めてくれるだろうか?
「陛下はミシェル殿下の痣を一度見て知っています。それでも妻になってくれって言ったんですよ?陛下の覚悟は疑うところじゃないです」
ルリーンは励ますのだがもともと容姿に自信があったわけでもなく、自分自身の価値にも自信のないミシェルなので簡単にはそれを飲み込めない。
さらにルリーンは『わたし、だけじゃなくこの屋敷の者も、陛下の妻になるのはミシェル殿下じゃなきゃいやです。この国の王妃になるのはミシェル殿下がいいんです!』などと言い出すので、ミシェルはそのことも考えなくてはならなかった。
グルシスタにとって考えればこれは何の問題もなく、むしろ歓迎する慶事だ。
しかしヒューブレインにとってはグルシスタのような小国の王女との婚姻はなんのプラスでもない。
国民がルリーンのように歓迎してくれるかどうかもわからない。
不安が募るほどに、必死で飽き集めた決意が萎んでいく。
ミシェルの心が手に取るようにわかっているルリーンだったが、現実をしっかり覚悟しミシェルが決断して成功して欲しいのだ。
ミシェルはその器なのだと、確固とした自信を着けて欲しいのだ。
アスランと結婚し王妃になるということは国民にとっても大事。
王女と王妃ではその地位も役割も期待も桁違いだ。貴族たちからの嫉妬や圧力、誘惑も想像を超えるはず。
アスランとの結婚の先にあるものも見据えれば、確固たる自信はどうしても必要なものだ。
帰国までは最低でも一年はあると先例から踏んでいたのでそれまでに治療と共に自信も付けていくよう尽くすつもりだったが、帰国の決まった今、時間もなければこの舞踏会のチャンスを逃すことは出来ない。
侍女の身でありながら優しく厳しく、常に寄り添いミシェル尽くしたルリーン。
国の為に。アスランの為に。
何よりも、心から幸せになってほしいと願うミシェルの為に。
*****
迎えの馬車が来るまでまだだいぶ時間があった。
ミシェルがちゃんと気持ちを整えてから出発出来るように、ルリーンが早めに支度をしたのだ。
一番安心できる自室のカウチソファーでルリーンはミシェルの許可を得て横に寄り添って座り、手を握った。
あまり考えさせすぎてもイメージ通りにはならないことが多いので良くないとルリーンは思ったが、ミシェルは考えていたのではなくただ祈っていた。
自分がこれからしようとすることがどんな結果になろうとも、やり遂げる勇気が失われませんように。
どんな結果であろうとも、アスランがアスランの為に決断出来ますように。
どんな結果に終わっても、ルリーンの元に笑顔で戻れますように。
ミシェルは長い沈黙からやっと顔を上げるとルリーンに向き直り微笑んだ。
「どんな結果になろうと、一緒に海を見に行きましょう。クロウたちも一緒よ、みんなで行くのよ。ここのみんなで。笑顔で行くの。約束よ」
ルリーンは確信した。ミシェルはきっとやり遂げられると。
「はい。約束です」
ミシェルの決心がついたタイミングで馬の蹄の音が近づいてくるのに気が付く。 まだ迎えの予定時間よりも早い。
屋敷の前で止まる馬車をルリーンが窓から見下ろすと、中から出てきたのはテイラーだった。
アスランの侍従であるテイラーが来たことでルリーンに僅かな不安が走った。
今夜の招待はアスランからではない。
招待状はアスランの名前が入っているが、アスラン本人がミシェルを招待したのではなくブロンソンの配慮だとミシェルもルリーンも気が付いていた。
それなのにテイラーが迎えの従者として来る理由は。
ひとつ。アスランがミシェルを招待したいとテイラーを寄越した。
ふたつ。ブロンソンからミシェルが来るかもしれないことを知って止めに来た。
みっつ。何も知らずに別の要件で来た。
みっつ目の何も知らず別の要件……ということはないだろうと思った。馬車が来賓用の豪華な物だったからだ。
ひとつ目なら大歓迎だがふたつ目だった場合、自分が少々テイラーと戦わなくてはならないとルリーンは構えた。
「殿下、少しお待ちくださいね。迎えの者を確認してまいります」
テイラーと口論して自分が負けるとは微塵も思っていないルリーンだが、テイラーがミシェルを傷つけるようなことがあれば武力行使も厭わないつもりで階下へ向かう。
アスランの供でなくひとりで来た場合、普段なら裏の使用人用出入り口から入ってくるテイラーだが今日は正面でクロウが出迎えた。
「テイラーさん」
「ルリーン。ミシェル殿下をお迎えに上がったんだけど。行く前に少しお話しさせてもらいたいんだ」
『お迎えに上がった』と言ったのでミシェルを止めに来たわけではないと解り一応安心したが、なんの話しがしたいというのか?
決心がついた今、それを揺るがしたくない。
「ルリーン、頼むよ。ミシェル殿下と話をさせてくれ」
テイラーは見たことのないような真剣な表情だ。
「その話しの内容をわたしが聞いてから、殿下にお通しします。それでもいいですか?」
「君たちにも味方になって協力して欲しい」
ルリーンはクロウと顔を見合わせ、クロウの執務室で話しを聞くことになった。
「ブロンソン伯爵にミシェル殿下へ招待状を渡したっていう話を聞いて……」
テイラーはブロンソンの意図は最後にミシェルに楽しい思い出をくらいなのかもしれないと思っていた。
しかし、もし今アスランがミシェルの姿を見たらどうなるだろうか?
最後に踊れることを喜ぶだろうか?その方が辛くなるのではないだろうか?
ミシェル程アスランに合う女性はいないし、この先現れるかもわからない。
しかし今のミシェルではだめだ……。
テイラーはこの時、一つの可能性を諦めていたことに気が付いた。
痣のあるミシェルでもアスランは愛している。
痣のあるミシェルでも素晴らしい女性だとテイラーもわかっている。
痣のあるミシェルでも、国民は……?
ミシェルの痣の理由を知らせて国民の前に姿を見せて、それが出来たなら?
謁見の間で見た痣は本当に酷かった。男でもあれだけの大きな痣なら隠したくなる。女性ならなおさらだ。
それを人前で晒せと、今だってルリーンの前でしか取ることのないベールを万人の前で晒せと言えるのか?
でも、あの痣は国民の命を守った証だ。
誇るべきではないか?
「女性なら隠したいのはわかる! それは本当に! ミシェル殿下がグルシスタの王女というだけなら、隠してあげたい! でも、ヒューブレインの王妃になるなら……」
テイラーの最後の言葉を待たずルリーンはニヤリと笑った。
「顔を出して欲しいと、頼みに来たんですね?」
「それさえできれば! 陛下の想いは叶う。オレも、ミシェル殿下は王妃に相応しいと思っている。ミシェル殿下を知れば、きっと誰だって思うさ! そうだろう?」
クロウが深く頷きルリーンを見る。
ルリーンも深く頷き、立ち上がった。
「サロンで待っていてください」
新しい心強い作戦要員の参加で、ルリーンは鼻息荒くミシェルの待つ部屋へ急いだ。
ミシェルが現れると、テイラーはミシェルがソファーに座る前から挨拶もそこそこに焦るように話し出した。
「失礼無礼も、無茶も承知で申し上げます。ミシェル殿下、どうかそのお顔を陛下の前で、いえ、国民の前で見せて欲しいのです。あなたに陛下の妻になってほしいのです。この国の王妃になってほしいのです。どうか!」
平身低頭で一気に喋ってからミシェルを伺うと、ミシェルは微笑んでいた。
「テイラーさん。今日いきなり来て顔を見せろと言っても無理な話です。いきなりなんて殿下のお心は簡単に整いません。言われてすぐに出来ていたら、ベールを被り続けていませんよ」
ミシェルが答える前にルリーンが口を挿む。
「わかってるルリーン。本当に無茶なお願いだとわかっています。しかし……」
「いいえ。わかってないわテイラーさん。ミシェル殿下がどれほどの勇気を準備し続けたのか。一朝一夕で出来ることではありませんでした。殿下がどれほどの決意をもって努力したか」
「そうか……そうだよな。急に来てこんなお願いしたって……。え? 準備? した?」
ルリーンの言葉を理解出来ないで諦めかけたテイラーに、一筋の光が走った。
ルリーンはミシェルを待ち、ミシェルは深く深呼吸をして小さく頷いた。
ミシェルの背中に回ったルリーンが頭の後ろに手を伸ばすと、ミシェルは顔に着けていた仮面に手を添える。
唇をキュっと結んで、ゆっくりと。ミシェルは自らの手で仮面を取ってテイラーに顔を晒した。
「おぉ……神様……」
テイラーの口から零れ出た神への称賛。
それさえなければと思っていたあの醜い痣が消えているのだ。
神の御業でなければこの奇跡の説明がつかないではないか。
少し緊張した面持ちのミシェルだが、ルリーンにしてみたらここでテイラーの前で仮面を外せたのは成功へのリハーサルのようだった。
心を許している使用人たちではなく、面識はあってもアスランと一緒の時に少しだけしか話しもしたことのないテイラーの前で取れた。
いい順序のリハーサルが出来た。
「あの……痣は……消えたのですか……?」
テイラーは放心状態でミシェルの美しい顔から目が離せないでいる。
不躾なのも気づかないほどミシェルの顔をまじまじと見て、これが現実なのかを確かめてしまう。
「いいえ。消えてはいないの。ルリーンのお化粧で隠しているだけなの」
腰がぬけそうなテイラーに座ることを進めルリーンが経緯を説明した。
「ルリーン、君は……すごいな」
神の御業ならぬ、ルリーンの御業を心から称賛した。
少し照れるルリーンだったが、自分の腕に自信があるので謙遜はしない。
それに、仕事は終わっていない。ここからが勝負なのだ。
「テイラーさんなら、舞踏会に殿下と一緒に入り込めますよね」
普通なら侍従は招待者と同じように舞踏会に参加したりは出来ない。アスランの傍に控えてはいるが、仮面を着けることもしないしアスランから離れて行動したりはしない。
今日はミシェルに逢いに来るために用事があると頼んで第二侍従のトマスにそれを任せている。
普段アスランの傍に常にいるテイラーのことは多くの貴族が知っているので、素顔では会場を自由には歩けない。けれど、仮面を着ければ。
招待状の確認はあっても中に入ってしまえば誰が誰なのかはわからなくなる。
テイラーなら招待状などなくても宮殿のどこからでもその場にたどり着けるし、仮面さえつければ紛れ込むのは簡単だ。
「ミシェル殿下を貴族たちから守って、陛下の前まで確実に連れて行ってください。わたしたちでは出来ないけど、テイラーさんなら。出来ますよね」
ルリーンのして欲しいことは理解した。
もはやこれはテイラーにしか出来ない使命だ。
「出来る。ミシェル殿下、陛下のところまで必ず私がお連れします」
「ありがとうテイラー。本当に心強いわ」
ミシェルの心の準備も、テイラーへのリハーサルでさらに万全になってきている。
あと必要なものは。
「仮面を何とかしないとな……」
「それなら、ございます。ここの前所有者が飾られていたものがございます」
黙って控えていたクロウがすでに準備していたかのように暖炉の上にある仮面をテイラーに渡した。
ルリーンがミシェルを呼びに行っている間にこの事態を予測し持ってきておいたのだった。
「さすがクロウさん」
ルリーンとクロウはミシェルの為にブロンソンが用意した最強コンビだ。
二人のコンビプレイにテイラーも納得だ。
「では。ミシェル殿下、参りましょう」
ハイネックのアクアブルーの長袖ドレス。
謁見に着て行った、アスランと初めて逢った時のドレスだ。
「今のミシェル殿下に飾るものは必要ありません。ありのままの殿下で誰よりもお美しいので」
ミシェルもこのドレスがいいと思った。
飾り立てることに慣れていない自分がヒューブレインの貴族女性のような恰好をしても、同じようには振舞えないことがわかっていたからだ。
髪型も、少しねじりはくわえられたがハーフアップに結って庭の花を挿しただけだ。
ブロンソンが持ってきた仮面は顔の上半分を隠す形のもので、銀に白い絵の具で細かく花や螺旋が描かれているものだった。
顔に着け後ろに刺した花の下で結んで固定すると、いつもの顔を隠したミシェルの顔になる。
*****
サロンで初めてベールを取った翌日。
ミシェルは初めてベールを取って朝食を摂った。
ベールを取って化粧で痣を隠した姿でダイニングに現れたミシェルを見たクロウは一瞬固まってしまった。
前日に帰国が決まって、もうこんな日は来ないかもしれないと思っていたからだ。
少し緊張しながら恥ずかしそうにミシェルが微笑むと、クロウは年甲斐もなく泣きそうになった。
さらにその翌日から、メイドや下僕の前でもベールを取って過ごした。その話を聞いたコックも食堂をこっそり覗きにきた。
短い期間で、ミシェルは使用人たちに心から愛され敬われていた。
ミシェルがベールを取って過ごせることを喜び、こんなにも美しい王女に使えていたことを歓喜し勇気を称えた。
当のミシェルはクロウの前に出るまでに自室のドアを出たり入ったりと十回ほど繰り返し、階段の昇り降りも五回。更にダイニングの入り口の前で数分間ルリーンの手を握りながら過ごしクロウの前に出るまでに相当の勇気を必要としたのだったが、クロウが泣きそうになったことを必死の繕いで隠し何でもないように普段通りにしてくれたので他の者たちの前に出る勇気も持てるようになった。
後でルリーンからクロウが感動して泣いていたと聞かされて驚いたくらい、ミシェルの前のクロウは普段と変わらなかった。
ミシェルが人前に出ることがどうしてこんなに難しかったのか。
化粧で隠れていることはわかっていてもずっと見てきた痣のある顔は頭にイメージとして付きすぎているが故に、もしかしたら透けて見えてしまうかもしれないというありもしない懸念が足を止めさせてしまうのだ。
ちゃんと隠れている。何度も繰り返し自分に言い聞かせるのだが、本当は痣が消えているわけではないので不安になってしまうのだった。
さらに。これはこの屋敷、使用人たちの前だから出来たことで。アスランの前、ましてや大勢の知らない人のいる前でとなるとミシェルに必要な勇気は計り知れないとルリーンもミシェル本人もわかっていた。
そのうえミシェルはメイクをした顔を沢山の人の前で晒すことが成功なわけではなく、アスランにこれはメイクだということも伝えアスランがそれでも良いと言ってくれたら痣のある素顔も晒す覚悟も必要なのだ。
あんな酷い断り方をして、それでもまだ間に合うだろうか?
間に合ったとしても、本当に醜い痣のある女性を一生傍に置こうと決めてくれるだろうか?
「陛下はミシェル殿下の痣を一度見て知っています。それでも妻になってくれって言ったんですよ?陛下の覚悟は疑うところじゃないです」
ルリーンは励ますのだがもともと容姿に自信があったわけでもなく、自分自身の価値にも自信のないミシェルなので簡単にはそれを飲み込めない。
さらにルリーンは『わたし、だけじゃなくこの屋敷の者も、陛下の妻になるのはミシェル殿下じゃなきゃいやです。この国の王妃になるのはミシェル殿下がいいんです!』などと言い出すので、ミシェルはそのことも考えなくてはならなかった。
グルシスタにとって考えればこれは何の問題もなく、むしろ歓迎する慶事だ。
しかしヒューブレインにとってはグルシスタのような小国の王女との婚姻はなんのプラスでもない。
国民がルリーンのように歓迎してくれるかどうかもわからない。
不安が募るほどに、必死で飽き集めた決意が萎んでいく。
ミシェルの心が手に取るようにわかっているルリーンだったが、現実をしっかり覚悟しミシェルが決断して成功して欲しいのだ。
ミシェルはその器なのだと、確固とした自信を着けて欲しいのだ。
アスランと結婚し王妃になるということは国民にとっても大事。
王女と王妃ではその地位も役割も期待も桁違いだ。貴族たちからの嫉妬や圧力、誘惑も想像を超えるはず。
アスランとの結婚の先にあるものも見据えれば、確固たる自信はどうしても必要なものだ。
帰国までは最低でも一年はあると先例から踏んでいたのでそれまでに治療と共に自信も付けていくよう尽くすつもりだったが、帰国の決まった今、時間もなければこの舞踏会のチャンスを逃すことは出来ない。
侍女の身でありながら優しく厳しく、常に寄り添いミシェル尽くしたルリーン。
国の為に。アスランの為に。
何よりも、心から幸せになってほしいと願うミシェルの為に。
*****
迎えの馬車が来るまでまだだいぶ時間があった。
ミシェルがちゃんと気持ちを整えてから出発出来るように、ルリーンが早めに支度をしたのだ。
一番安心できる自室のカウチソファーでルリーンはミシェルの許可を得て横に寄り添って座り、手を握った。
あまり考えさせすぎてもイメージ通りにはならないことが多いので良くないとルリーンは思ったが、ミシェルは考えていたのではなくただ祈っていた。
自分がこれからしようとすることがどんな結果になろうとも、やり遂げる勇気が失われませんように。
どんな結果であろうとも、アスランがアスランの為に決断出来ますように。
どんな結果に終わっても、ルリーンの元に笑顔で戻れますように。
ミシェルは長い沈黙からやっと顔を上げるとルリーンに向き直り微笑んだ。
「どんな結果になろうと、一緒に海を見に行きましょう。クロウたちも一緒よ、みんなで行くのよ。ここのみんなで。笑顔で行くの。約束よ」
ルリーンは確信した。ミシェルはきっとやり遂げられると。
「はい。約束です」
ミシェルの決心がついたタイミングで馬の蹄の音が近づいてくるのに気が付く。 まだ迎えの予定時間よりも早い。
屋敷の前で止まる馬車をルリーンが窓から見下ろすと、中から出てきたのはテイラーだった。
アスランの侍従であるテイラーが来たことでルリーンに僅かな不安が走った。
今夜の招待はアスランからではない。
招待状はアスランの名前が入っているが、アスラン本人がミシェルを招待したのではなくブロンソンの配慮だとミシェルもルリーンも気が付いていた。
それなのにテイラーが迎えの従者として来る理由は。
ひとつ。アスランがミシェルを招待したいとテイラーを寄越した。
ふたつ。ブロンソンからミシェルが来るかもしれないことを知って止めに来た。
みっつ。何も知らずに別の要件で来た。
みっつ目の何も知らず別の要件……ということはないだろうと思った。馬車が来賓用の豪華な物だったからだ。
ひとつ目なら大歓迎だがふたつ目だった場合、自分が少々テイラーと戦わなくてはならないとルリーンは構えた。
「殿下、少しお待ちくださいね。迎えの者を確認してまいります」
テイラーと口論して自分が負けるとは微塵も思っていないルリーンだが、テイラーがミシェルを傷つけるようなことがあれば武力行使も厭わないつもりで階下へ向かう。
アスランの供でなくひとりで来た場合、普段なら裏の使用人用出入り口から入ってくるテイラーだが今日は正面でクロウが出迎えた。
「テイラーさん」
「ルリーン。ミシェル殿下をお迎えに上がったんだけど。行く前に少しお話しさせてもらいたいんだ」
『お迎えに上がった』と言ったのでミシェルを止めに来たわけではないと解り一応安心したが、なんの話しがしたいというのか?
決心がついた今、それを揺るがしたくない。
「ルリーン、頼むよ。ミシェル殿下と話をさせてくれ」
テイラーは見たことのないような真剣な表情だ。
「その話しの内容をわたしが聞いてから、殿下にお通しします。それでもいいですか?」
「君たちにも味方になって協力して欲しい」
ルリーンはクロウと顔を見合わせ、クロウの執務室で話しを聞くことになった。
「ブロンソン伯爵にミシェル殿下へ招待状を渡したっていう話を聞いて……」
テイラーはブロンソンの意図は最後にミシェルに楽しい思い出をくらいなのかもしれないと思っていた。
しかし、もし今アスランがミシェルの姿を見たらどうなるだろうか?
最後に踊れることを喜ぶだろうか?その方が辛くなるのではないだろうか?
ミシェル程アスランに合う女性はいないし、この先現れるかもわからない。
しかし今のミシェルではだめだ……。
テイラーはこの時、一つの可能性を諦めていたことに気が付いた。
痣のあるミシェルでもアスランは愛している。
痣のあるミシェルでも素晴らしい女性だとテイラーもわかっている。
痣のあるミシェルでも、国民は……?
ミシェルの痣の理由を知らせて国民の前に姿を見せて、それが出来たなら?
謁見の間で見た痣は本当に酷かった。男でもあれだけの大きな痣なら隠したくなる。女性ならなおさらだ。
それを人前で晒せと、今だってルリーンの前でしか取ることのないベールを万人の前で晒せと言えるのか?
でも、あの痣は国民の命を守った証だ。
誇るべきではないか?
「女性なら隠したいのはわかる! それは本当に! ミシェル殿下がグルシスタの王女というだけなら、隠してあげたい! でも、ヒューブレインの王妃になるなら……」
テイラーの最後の言葉を待たずルリーンはニヤリと笑った。
「顔を出して欲しいと、頼みに来たんですね?」
「それさえできれば! 陛下の想いは叶う。オレも、ミシェル殿下は王妃に相応しいと思っている。ミシェル殿下を知れば、きっと誰だって思うさ! そうだろう?」
クロウが深く頷きルリーンを見る。
ルリーンも深く頷き、立ち上がった。
「サロンで待っていてください」
新しい心強い作戦要員の参加で、ルリーンは鼻息荒くミシェルの待つ部屋へ急いだ。
ミシェルが現れると、テイラーはミシェルがソファーに座る前から挨拶もそこそこに焦るように話し出した。
「失礼無礼も、無茶も承知で申し上げます。ミシェル殿下、どうかそのお顔を陛下の前で、いえ、国民の前で見せて欲しいのです。あなたに陛下の妻になってほしいのです。この国の王妃になってほしいのです。どうか!」
平身低頭で一気に喋ってからミシェルを伺うと、ミシェルは微笑んでいた。
「テイラーさん。今日いきなり来て顔を見せろと言っても無理な話です。いきなりなんて殿下のお心は簡単に整いません。言われてすぐに出来ていたら、ベールを被り続けていませんよ」
ミシェルが答える前にルリーンが口を挿む。
「わかってるルリーン。本当に無茶なお願いだとわかっています。しかし……」
「いいえ。わかってないわテイラーさん。ミシェル殿下がどれほどの勇気を準備し続けたのか。一朝一夕で出来ることではありませんでした。殿下がどれほどの決意をもって努力したか」
「そうか……そうだよな。急に来てこんなお願いしたって……。え? 準備? した?」
ルリーンの言葉を理解出来ないで諦めかけたテイラーに、一筋の光が走った。
ルリーンはミシェルを待ち、ミシェルは深く深呼吸をして小さく頷いた。
ミシェルの背中に回ったルリーンが頭の後ろに手を伸ばすと、ミシェルは顔に着けていた仮面に手を添える。
唇をキュっと結んで、ゆっくりと。ミシェルは自らの手で仮面を取ってテイラーに顔を晒した。
「おぉ……神様……」
テイラーの口から零れ出た神への称賛。
それさえなければと思っていたあの醜い痣が消えているのだ。
神の御業でなければこの奇跡の説明がつかないではないか。
少し緊張した面持ちのミシェルだが、ルリーンにしてみたらここでテイラーの前で仮面を外せたのは成功へのリハーサルのようだった。
心を許している使用人たちではなく、面識はあってもアスランと一緒の時に少しだけしか話しもしたことのないテイラーの前で取れた。
いい順序のリハーサルが出来た。
「あの……痣は……消えたのですか……?」
テイラーは放心状態でミシェルの美しい顔から目が離せないでいる。
不躾なのも気づかないほどミシェルの顔をまじまじと見て、これが現実なのかを確かめてしまう。
「いいえ。消えてはいないの。ルリーンのお化粧で隠しているだけなの」
腰がぬけそうなテイラーに座ることを進めルリーンが経緯を説明した。
「ルリーン、君は……すごいな」
神の御業ならぬ、ルリーンの御業を心から称賛した。
少し照れるルリーンだったが、自分の腕に自信があるので謙遜はしない。
それに、仕事は終わっていない。ここからが勝負なのだ。
「テイラーさんなら、舞踏会に殿下と一緒に入り込めますよね」
普通なら侍従は招待者と同じように舞踏会に参加したりは出来ない。アスランの傍に控えてはいるが、仮面を着けることもしないしアスランから離れて行動したりはしない。
今日はミシェルに逢いに来るために用事があると頼んで第二侍従のトマスにそれを任せている。
普段アスランの傍に常にいるテイラーのことは多くの貴族が知っているので、素顔では会場を自由には歩けない。けれど、仮面を着ければ。
招待状の確認はあっても中に入ってしまえば誰が誰なのかはわからなくなる。
テイラーなら招待状などなくても宮殿のどこからでもその場にたどり着けるし、仮面さえつければ紛れ込むのは簡単だ。
「ミシェル殿下を貴族たちから守って、陛下の前まで確実に連れて行ってください。わたしたちでは出来ないけど、テイラーさんなら。出来ますよね」
ルリーンのして欲しいことは理解した。
もはやこれはテイラーにしか出来ない使命だ。
「出来る。ミシェル殿下、陛下のところまで必ず私がお連れします」
「ありがとうテイラー。本当に心強いわ」
ミシェルの心の準備も、テイラーへのリハーサルでさらに万全になってきている。
あと必要なものは。
「仮面を何とかしないとな……」
「それなら、ございます。ここの前所有者が飾られていたものがございます」
黙って控えていたクロウがすでに準備していたかのように暖炉の上にある仮面をテイラーに渡した。
ルリーンがミシェルを呼びに行っている間にこの事態を予測し持ってきておいたのだった。
「さすがクロウさん」
ルリーンとクロウはミシェルの為にブロンソンが用意した最強コンビだ。
二人のコンビプレイにテイラーも納得だ。
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