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ミシェルは自室の窓辺で屋敷の入り口を見下ろしていた。
いつもならもうアスランが来ている時間なのだが、まだ来ていない。
約束の日を間違えているのかもしれないとも思ったのだが、ルリーンが『今日は陛下がいらっしゃるのでおしゃれしますよー』と気合を入れてミシェルを飾ったので間違えではない。
ルリーンが強請りアスランからプレゼントされたグリーンのドレスを着て、ただひたすら外を眺めている。
用事が出来て来ないのかもしれない。
来なかったとしてガッカリしないよう、ミシェルは心を構えた。
弁えぬ想いは抱いてはいけないと決めているからだ。
アスランの心のままに、来ればお相手をする。来なければそれだけのこと。
「陛下遅いですね」
ミシェルの様子を見に来たルリーンが声をかけるとミシェルは外から手元にあった本に視線を素早く移動させ、さも何でもないようにした。
「そうね。今日はいらっしゃらないかもしれないわね。お忙しいのでしょう」
しかしルリーンはちゃんとミシェルが待ち侘びていることがわかっていたし、それを否定するだろうこともわかっていた。
「今日は夕食もご一緒する予定でしたから、ゆっくりいらっしゃるのかもしれませんしね」
「そうね」
ルリーンの予想は外れた。
夕食の時間近くなっても、アスランは来なかった。
ミシェルがひとりで食べるから準備してほしいと伝えると、せっかく腕を振るって準備万端のコックはがっかりした。
ミシェルはいつもの変わらぬ態度で明るくした。
「ふたり分あるのなら、せっかくだしクロウと一緒に食べようかしら?」
アスランの代わりに執事がテーブルに着き向かい合わせてミシェルと食事など出来るはずがない。
「それだけは、ご勘弁くださいませ」
クロウはミシェルが努めて明るくしているのをわかってわざと慌てるような仕草をして見せたが、普段そんなことをしたことがないのでへたくそだった。
それでもミシェルは肩を揺らして笑って見せ、ひとりで席に着いた。
その時だった。
屋敷の外で馬の蹄の音が聞こえて食堂にいたミシェル、クロウ、ルリーンが一斉に耳を澄ます。
クロウが食堂を出て確認に行くと、ミシェルの鼓動が早くなる。
期待するな。きっと違う。
そう自分に言い聞かせても立ち上がらずにいることが精いっぱいだ。
ルリーンはミシェルの肩を撫でる。
廊下に足音が響く。
食堂に現れたのはアスランだった。
「王女、遅れて申し訳なかった。ギリギリで夕食には間に合ったようだ」
ミシェルは勢いで立ち上がり、膝を折って頭を下げた。
「陛下」
いつもならスラスラと出てくる挨拶が言えない。
アスランが現れた瞬間から、込み上げてくる喜びに胸が苦しくて言葉が出てこないのだ。
「いいか?」
アスランの息は少し弾んでいた。
馬を飛ばしてきたのだろうと思った。
実際敷地を大回りして歩いて四十分以上かかる距離を急ぐために、テイラーがあらかじめ用意しておいた馬で来たのだった。
アスランが部屋に籠りいつ動き出すかわからない。もしかしたら今日は出かけないかもしれないとも思ったがテイラーは外が黄昏色になってから万が一の備えに林の中を走れる馬を一頭、後で自分が使うと言って通用口に用意させておいた。
アスランはひとりで来たのだ。
テイラーは今頃ゆっくりと馬小屋から馬を用意し追う支度をしているはずだ。
アスランはミシェルの小さな頷きを確認して、向かいのテーブルに着く。
「お……お忙しかったのではないでしょうか?」
ミシェルが窺うように聞くと、アスランはナプキンを解きながらきっぱりと言った。
「まずは食事を楽しもう。その後で、少し話を聞いてもらえるか?」
いつものように優しく微笑むアスランに小さく返事を返し、ミシェルもナプキンを解いた。
食事中はいつものような本の感想や国の話をし、たまに後ろに控えているクロウやルリーンにも話しを振り楽しく時間が過ぎた。
コックを呼びアスランが料理を褒めたので、腕を振るったコックは喜び食堂は賑わった。
いつも以上にアスランが明るい気がしてミシェルも、そしてルリーンも小さな違和感を覚えた。
食後ミシェルとアスランがサロンに移動しルリーン達が使用人の食堂に下がると、そこには遅れて到着していたテイラーがいた。
ルリーンはテイラーにアスランの様子が少しおかしい気がすることを訪ねたのだが、テイラーもアスランがどうして何時間も部屋に籠っていたのか何を考えていたのかはわからなかったのでルリーンの疑問に答えられなかった。
サロンではミシェルとアスランが並んで座っていた。
いつもなら向かい合わせに座るのだが、アスランが並んで座るようエスコートしたのだ。
手を伸ばせばすぐに触れる距離にいることに、ミシェルは緊張した。
座ってもすぐに話が始まらず沈黙が続くことで更に緊張が増す。
「王女。名前で、呼んでもいいか?」
やっと口を開いたアスランが思ってもなかったことを言い出したので、ミシェルはすぐに返事が出来なかった。
距離を縮めることを拒んでいたミシェルだったので、名前を呼ばれるようなことは
想像もしていなかったからだ。
「ミシェル」
逡巡するミシェルの返事を待たずに、アスランは名前を呼んだ。
低くて擦れた男らしいアスランの声がミシェルの名前を呼ぶと、ミシェルの身体が発火した。
ベールで隠れているが顔は真っ赤になり、呼ばれているのに声が出せず黙り込んで下を向いてしまった。
「ミシェルにも、わたし……いや、オレのことを、名前で呼んでほしい」
アスランはミシェルに引かれた線を消すように、わざと『オレ』と言い直した。
ミシェルはアスランの意図が解らず、なんとか絞り出した声で、アスランに従った。
「アスラン国王陛下……」
「名前だけを。アスランと、呼んでほしい」
アスランは迷いなくはっきりと要求するが、ミシェルにそんな呼び方が出来るはずがない。
「そのような、不敬なことは、わたしには出来かねます……」
「頼んでもか?」
「なぜそのような無茶をわたしに頼まれますか?」
ミシェルは顔を上げ、アスランの顔を見る。
どうしてそんなことを言い出すのか表情を見て探ろうと思ったのだが、意図は探れなかった。
それどころかアスランの顔が優しく甘くミシェルを見つめているので、顔を上げたことが失敗だったと気付く。
目が離せない。
今までだってアスランはいつも優しい微笑みでミシェルを見ていた。
けれど今はそこにミシェルを溶かす甘さが加わって、それはまるで……。
「好きな女性を名前で呼び、好きな女性に名前で呼ばれたい。オレはミシェルが好きだ。ミシェルに恋している。アスランと、ミシェルに呼ばれたい」
アスランは淀みなく気持ちをミシェルに伝えた。
ミシェルはその衝撃に息を呑んだ。
「国王ではなく、ひとりの男として、ひとりの女性に告白している。ミシェルが好きだ」
眩暈を起こしそうなる。
想いが溢れそうになって、それがいけない事だと叫ぶ自分によってなんとか崩れずに済んでいる。
「陛下……、おやめください。お戯れが過ぎます……」
ミシェルはアスランに囚われていた視線を必死で剥がし、俯いて言った。
「オレが戯れを言っているように見えるのか? ちゃんとこちらを向いてくれ」
スカートの上で硬く握りしめたミシェルの手に、アスランの手が重なる。
それに誘われてミシェルはやっと剥がした視線を再びアスランに向けそうになるのを堪える。
「頼む。好きなんだ。ミシェルを愛している。戯れだなんて言わないでくれ」
アスランの声は真剣で切実だった。
真実でミシェルを好きだと言ってくれていると全身で感じる。
「陛下は……。なにをお望みですか……」
「オレが君を好きだということを、信じてほしい。すぐには無理でも、オレを好きになってもらいたい」
アスランの言葉に曇りはない。
けれどミシェルの心は曇っていく。
「わたしは陛下のことを、寛大で賢明な素晴らしい国王であられるとご尊敬申し上げております。グルシスタの王女として感謝してもしきれない大恩があり、陛下がご所望であれば、わたしはどんなことでもさせていただかなければなりません……」
「そんな言い方はよしてくれ」
アスランの顔がゆがむ。
「そうではない! ただ好きなんだ。ミシェル、君を愛してはいけないのか?」
アスランの切実な声がミシェルの胸に突き刺さる。
ミシェルはその痛みで引き裂かれそうだった。
これは夢ではないだろうか?
アスランが真実自分を好きだと言ってくれている。こんなことが現実だろうか?
ずっと押さえていた感情が溢れそうになる。
わたしも。わたしも陛下をお慕いしています!
けれどもう一方で冷静な自分が諫める。
それを伝えて、どうするというのか?
この美しい男に醜い顔を再びさらすことが出来るのか?
出来るはずがない。それほど惨めなことがあるだろうか。
先ほど発火した身体の熱が、冷水をかけられたように凍えていく。
「オレはミシェルを妻に迎えたい。本気だ」
ミシェルは瞼をきつく閉じて涙が零れないよう堪えた。
想いが決して叶わないことを、誰よりもわかっている。
「聞いてほしい。オレは、痣のことを知っている。それでも美しいことも知っているんだ。ミシェル、君ほど美しいと思う女性はいない。痣のあるありのままのミシェルを愛している。でも君が痣のことで深く傷ついていることも、そしてそれを隠しておきたいことも知っている。オレはそんな君を守りたいと思う。それは妻に望むことと矛盾することも、わかっている。でも、出来る方法がある。ミシェル、君がオレの妻になってくれるならなにがあろうと君を守る」
重ねられたアスランの手に力がこもる。
ミシェルの口元が緩んだからだ。
しかし、アスランの思いとは逆にミシェルは凍え切り、絶望の淵に立つ諦めのような心境で笑みを浮かべたのだ。
「妻になっても表に出なくていい。宮廷にいなくてもいい、他の街の城に住んでもいい。結婚式だって、もちろんしない。妃としての公務もやらなくていい。誰も寄せつけたりはしない。グルシスタにいた時と同じようにしていていい。君が許すまでそのベールを取ろうとは思わない。これ以上は触れない。ただ、ただオレの愛を受け取ってほしい。ミシェルがオレの妻になってくれたというその幸せがあれば、オレはそれでいい」
それほどにミシェルが好きだと心の叫びを伝えてくるアスランだったが、ミシェルはアスランに握られた手を解き、押し戻した。
アスランも解っている矛盾を解消するその手立ては、グルシスタの王族のひとりとして受け入れてはならない方法だ。
「陛下は、国王という存在を。その妃の存在を、どのようにお考えでしょうか? わたしは王女としてグルシスタで民の前に出られぬことを恥じていました。そしてこの先も民の前に出られぬことに罪悪感を持ち続けるでしょう。王女という身分でもこのような存在は恥じねばならないのです。王女よりも深く国民の為に生き、王を支えなくてはならない立場の妃が同じようになど出来るはずもありません。それを陛下が許しても他が許しません。わたし自身も、もしそのようなことをする妃になったとしたら、自分を許さないでしょう」
それが思い遣りだとしても、妃としての務めをなさない妃になるなど王族の役割を知るミシェルが受け入れられるはずがない。
「わたしは表に堂々と立つことは出来ません。この醜い痣を晒す強さがわたしにはないのです。そしてわたしを守るためと言い妃の務めを放棄することを許すような王を、わたしは尊敬することは出来ません。王族としての矜持を捨て国民を顧みない妃となることも、尊敬できない方の妻になることも、わたしには出来ません。わたしが陛下の妻になることはどのような道を作ろうとも出来ないことなのです」
ミシェルは凍える身体の最後の力を振り絞り立ち上がった。
「身に余るご厚意を賜りましたことに、心から感謝申し上げます。しかしそれに答えることは出来ません。これ以上陛下には、わたしのようなものに煩っていただきたくございません。もうこちらへはお越しになりませんようお願い申し上げます」
深く膝を折り頭を下げると、テーブルに置かれたハンドベルを鳴らしクロウを呼ぶ。
ミシェルは座ったまま立ち上がらないでいるアスランを見ることが出来なかった。
せめてもの去勢で真っ直ぐ背筋をのばした。
部屋に入ったクロウはいつものふたりとは違う空気にたじろいだ。
「陛下をお見送りして」
それだけ言うと、不敬にも見送りもせずに部屋へ向かった。
急がなくてはいけなかった。
もう耐えきるのも限界だった。
部屋のドアを閉めた途端ソファーまでも間に合わず、ミシェルは床に崩れ落ちた。
いつもならもうアスランが来ている時間なのだが、まだ来ていない。
約束の日を間違えているのかもしれないとも思ったのだが、ルリーンが『今日は陛下がいらっしゃるのでおしゃれしますよー』と気合を入れてミシェルを飾ったので間違えではない。
ルリーンが強請りアスランからプレゼントされたグリーンのドレスを着て、ただひたすら外を眺めている。
用事が出来て来ないのかもしれない。
来なかったとしてガッカリしないよう、ミシェルは心を構えた。
弁えぬ想いは抱いてはいけないと決めているからだ。
アスランの心のままに、来ればお相手をする。来なければそれだけのこと。
「陛下遅いですね」
ミシェルの様子を見に来たルリーンが声をかけるとミシェルは外から手元にあった本に視線を素早く移動させ、さも何でもないようにした。
「そうね。今日はいらっしゃらないかもしれないわね。お忙しいのでしょう」
しかしルリーンはちゃんとミシェルが待ち侘びていることがわかっていたし、それを否定するだろうこともわかっていた。
「今日は夕食もご一緒する予定でしたから、ゆっくりいらっしゃるのかもしれませんしね」
「そうね」
ルリーンの予想は外れた。
夕食の時間近くなっても、アスランは来なかった。
ミシェルがひとりで食べるから準備してほしいと伝えると、せっかく腕を振るって準備万端のコックはがっかりした。
ミシェルはいつもの変わらぬ態度で明るくした。
「ふたり分あるのなら、せっかくだしクロウと一緒に食べようかしら?」
アスランの代わりに執事がテーブルに着き向かい合わせてミシェルと食事など出来るはずがない。
「それだけは、ご勘弁くださいませ」
クロウはミシェルが努めて明るくしているのをわかってわざと慌てるような仕草をして見せたが、普段そんなことをしたことがないのでへたくそだった。
それでもミシェルは肩を揺らして笑って見せ、ひとりで席に着いた。
その時だった。
屋敷の外で馬の蹄の音が聞こえて食堂にいたミシェル、クロウ、ルリーンが一斉に耳を澄ます。
クロウが食堂を出て確認に行くと、ミシェルの鼓動が早くなる。
期待するな。きっと違う。
そう自分に言い聞かせても立ち上がらずにいることが精いっぱいだ。
ルリーンはミシェルの肩を撫でる。
廊下に足音が響く。
食堂に現れたのはアスランだった。
「王女、遅れて申し訳なかった。ギリギリで夕食には間に合ったようだ」
ミシェルは勢いで立ち上がり、膝を折って頭を下げた。
「陛下」
いつもならスラスラと出てくる挨拶が言えない。
アスランが現れた瞬間から、込み上げてくる喜びに胸が苦しくて言葉が出てこないのだ。
「いいか?」
アスランの息は少し弾んでいた。
馬を飛ばしてきたのだろうと思った。
実際敷地を大回りして歩いて四十分以上かかる距離を急ぐために、テイラーがあらかじめ用意しておいた馬で来たのだった。
アスランが部屋に籠りいつ動き出すかわからない。もしかしたら今日は出かけないかもしれないとも思ったがテイラーは外が黄昏色になってから万が一の備えに林の中を走れる馬を一頭、後で自分が使うと言って通用口に用意させておいた。
アスランはひとりで来たのだ。
テイラーは今頃ゆっくりと馬小屋から馬を用意し追う支度をしているはずだ。
アスランはミシェルの小さな頷きを確認して、向かいのテーブルに着く。
「お……お忙しかったのではないでしょうか?」
ミシェルが窺うように聞くと、アスランはナプキンを解きながらきっぱりと言った。
「まずは食事を楽しもう。その後で、少し話を聞いてもらえるか?」
いつものように優しく微笑むアスランに小さく返事を返し、ミシェルもナプキンを解いた。
食事中はいつものような本の感想や国の話をし、たまに後ろに控えているクロウやルリーンにも話しを振り楽しく時間が過ぎた。
コックを呼びアスランが料理を褒めたので、腕を振るったコックは喜び食堂は賑わった。
いつも以上にアスランが明るい気がしてミシェルも、そしてルリーンも小さな違和感を覚えた。
食後ミシェルとアスランがサロンに移動しルリーン達が使用人の食堂に下がると、そこには遅れて到着していたテイラーがいた。
ルリーンはテイラーにアスランの様子が少しおかしい気がすることを訪ねたのだが、テイラーもアスランがどうして何時間も部屋に籠っていたのか何を考えていたのかはわからなかったのでルリーンの疑問に答えられなかった。
サロンではミシェルとアスランが並んで座っていた。
いつもなら向かい合わせに座るのだが、アスランが並んで座るようエスコートしたのだ。
手を伸ばせばすぐに触れる距離にいることに、ミシェルは緊張した。
座ってもすぐに話が始まらず沈黙が続くことで更に緊張が増す。
「王女。名前で、呼んでもいいか?」
やっと口を開いたアスランが思ってもなかったことを言い出したので、ミシェルはすぐに返事が出来なかった。
距離を縮めることを拒んでいたミシェルだったので、名前を呼ばれるようなことは
想像もしていなかったからだ。
「ミシェル」
逡巡するミシェルの返事を待たずに、アスランは名前を呼んだ。
低くて擦れた男らしいアスランの声がミシェルの名前を呼ぶと、ミシェルの身体が発火した。
ベールで隠れているが顔は真っ赤になり、呼ばれているのに声が出せず黙り込んで下を向いてしまった。
「ミシェルにも、わたし……いや、オレのことを、名前で呼んでほしい」
アスランはミシェルに引かれた線を消すように、わざと『オレ』と言い直した。
ミシェルはアスランの意図が解らず、なんとか絞り出した声で、アスランに従った。
「アスラン国王陛下……」
「名前だけを。アスランと、呼んでほしい」
アスランは迷いなくはっきりと要求するが、ミシェルにそんな呼び方が出来るはずがない。
「そのような、不敬なことは、わたしには出来かねます……」
「頼んでもか?」
「なぜそのような無茶をわたしに頼まれますか?」
ミシェルは顔を上げ、アスランの顔を見る。
どうしてそんなことを言い出すのか表情を見て探ろうと思ったのだが、意図は探れなかった。
それどころかアスランの顔が優しく甘くミシェルを見つめているので、顔を上げたことが失敗だったと気付く。
目が離せない。
今までだってアスランはいつも優しい微笑みでミシェルを見ていた。
けれど今はそこにミシェルを溶かす甘さが加わって、それはまるで……。
「好きな女性を名前で呼び、好きな女性に名前で呼ばれたい。オレはミシェルが好きだ。ミシェルに恋している。アスランと、ミシェルに呼ばれたい」
アスランは淀みなく気持ちをミシェルに伝えた。
ミシェルはその衝撃に息を呑んだ。
「国王ではなく、ひとりの男として、ひとりの女性に告白している。ミシェルが好きだ」
眩暈を起こしそうなる。
想いが溢れそうになって、それがいけない事だと叫ぶ自分によってなんとか崩れずに済んでいる。
「陛下……、おやめください。お戯れが過ぎます……」
ミシェルはアスランに囚われていた視線を必死で剥がし、俯いて言った。
「オレが戯れを言っているように見えるのか? ちゃんとこちらを向いてくれ」
スカートの上で硬く握りしめたミシェルの手に、アスランの手が重なる。
それに誘われてミシェルはやっと剥がした視線を再びアスランに向けそうになるのを堪える。
「頼む。好きなんだ。ミシェルを愛している。戯れだなんて言わないでくれ」
アスランの声は真剣で切実だった。
真実でミシェルを好きだと言ってくれていると全身で感じる。
「陛下は……。なにをお望みですか……」
「オレが君を好きだということを、信じてほしい。すぐには無理でも、オレを好きになってもらいたい」
アスランの言葉に曇りはない。
けれどミシェルの心は曇っていく。
「わたしは陛下のことを、寛大で賢明な素晴らしい国王であられるとご尊敬申し上げております。グルシスタの王女として感謝してもしきれない大恩があり、陛下がご所望であれば、わたしはどんなことでもさせていただかなければなりません……」
「そんな言い方はよしてくれ」
アスランの顔がゆがむ。
「そうではない! ただ好きなんだ。ミシェル、君を愛してはいけないのか?」
アスランの切実な声がミシェルの胸に突き刺さる。
ミシェルはその痛みで引き裂かれそうだった。
これは夢ではないだろうか?
アスランが真実自分を好きだと言ってくれている。こんなことが現実だろうか?
ずっと押さえていた感情が溢れそうになる。
わたしも。わたしも陛下をお慕いしています!
けれどもう一方で冷静な自分が諫める。
それを伝えて、どうするというのか?
この美しい男に醜い顔を再びさらすことが出来るのか?
出来るはずがない。それほど惨めなことがあるだろうか。
先ほど発火した身体の熱が、冷水をかけられたように凍えていく。
「オレはミシェルを妻に迎えたい。本気だ」
ミシェルは瞼をきつく閉じて涙が零れないよう堪えた。
想いが決して叶わないことを、誰よりもわかっている。
「聞いてほしい。オレは、痣のことを知っている。それでも美しいことも知っているんだ。ミシェル、君ほど美しいと思う女性はいない。痣のあるありのままのミシェルを愛している。でも君が痣のことで深く傷ついていることも、そしてそれを隠しておきたいことも知っている。オレはそんな君を守りたいと思う。それは妻に望むことと矛盾することも、わかっている。でも、出来る方法がある。ミシェル、君がオレの妻になってくれるならなにがあろうと君を守る」
重ねられたアスランの手に力がこもる。
ミシェルの口元が緩んだからだ。
しかし、アスランの思いとは逆にミシェルは凍え切り、絶望の淵に立つ諦めのような心境で笑みを浮かべたのだ。
「妻になっても表に出なくていい。宮廷にいなくてもいい、他の街の城に住んでもいい。結婚式だって、もちろんしない。妃としての公務もやらなくていい。誰も寄せつけたりはしない。グルシスタにいた時と同じようにしていていい。君が許すまでそのベールを取ろうとは思わない。これ以上は触れない。ただ、ただオレの愛を受け取ってほしい。ミシェルがオレの妻になってくれたというその幸せがあれば、オレはそれでいい」
それほどにミシェルが好きだと心の叫びを伝えてくるアスランだったが、ミシェルはアスランに握られた手を解き、押し戻した。
アスランも解っている矛盾を解消するその手立ては、グルシスタの王族のひとりとして受け入れてはならない方法だ。
「陛下は、国王という存在を。その妃の存在を、どのようにお考えでしょうか? わたしは王女としてグルシスタで民の前に出られぬことを恥じていました。そしてこの先も民の前に出られぬことに罪悪感を持ち続けるでしょう。王女という身分でもこのような存在は恥じねばならないのです。王女よりも深く国民の為に生き、王を支えなくてはならない立場の妃が同じようになど出来るはずもありません。それを陛下が許しても他が許しません。わたし自身も、もしそのようなことをする妃になったとしたら、自分を許さないでしょう」
それが思い遣りだとしても、妃としての務めをなさない妃になるなど王族の役割を知るミシェルが受け入れられるはずがない。
「わたしは表に堂々と立つことは出来ません。この醜い痣を晒す強さがわたしにはないのです。そしてわたしを守るためと言い妃の務めを放棄することを許すような王を、わたしは尊敬することは出来ません。王族としての矜持を捨て国民を顧みない妃となることも、尊敬できない方の妻になることも、わたしには出来ません。わたしが陛下の妻になることはどのような道を作ろうとも出来ないことなのです」
ミシェルは凍える身体の最後の力を振り絞り立ち上がった。
「身に余るご厚意を賜りましたことに、心から感謝申し上げます。しかしそれに答えることは出来ません。これ以上陛下には、わたしのようなものに煩っていただきたくございません。もうこちらへはお越しになりませんようお願い申し上げます」
深く膝を折り頭を下げると、テーブルに置かれたハンドベルを鳴らしクロウを呼ぶ。
ミシェルは座ったまま立ち上がらないでいるアスランを見ることが出来なかった。
せめてもの去勢で真っ直ぐ背筋をのばした。
部屋に入ったクロウはいつものふたりとは違う空気にたじろいだ。
「陛下をお見送りして」
それだけ言うと、不敬にも見送りもせずに部屋へ向かった。
急がなくてはいけなかった。
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