人質王女の恋

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 部屋の中で誰かが動く気配がして、ミシェルは重い瞼をゆっくり開けた。
 見慣れない天井、さわり心地の違う寝具にここがどこだかを思い出す。
 窓が開けられ部屋が自然光で明るく、甘い香りがしてゆっくりと身体を起こす。

「ミシェル殿下、お目覚めになられましたか?」

 馴染みのない声の主は侍女のルリーンで、ミシェルは無意識にかぶったまま寝てしまったベールを整えた。

「夕べ、夕食のお時間にお声がけいたしましたが、ぐっすりお休みのようだったのでそのまま起こさずにおきました。お疲れは取れましたか?」

 喋りながらショコラの入ったカップの乗ったトレーが差し出された。
 ミシェルはカップを取りながら昨日の事を思い出す。
 ずっとあまり眠れていない上に長旅と緊張で疲れて、眠ったまま朝まで起きなかったのだった。

「夕食食べられなくてごめんなさい」
「いいえ。でも、お腹が空かれたのではないですか?」
「そうね。少し空いているわ」
「食欲があるのはいいことです。湯浴みのお仕度も整っておりますが、先に召し上がりますか? こちらまでお持ちいたしましょうか?」

 ミシェルは少し考えて、しなくてはならない事を先に済ます決断をした。

「先に、お風呂をいただきたいのだけど、あなたが手伝いを……」
「はい。お手伝い致します」
「それなら、その……ベールを取らないといけないのだけど……」

 ミシェルは言い淀んでしまう。
 グルシスタでも筆頭侍女には顔を見せていた。
 ずっと支度を手伝う侍女に隠すのは無理だったからだ。
 彼女は怪我する前からミシェルに付いていて怪我の手当もしていたから慣れてくれていたが、一度だけ、部屋に手紙を届けに来たメイドに見られてしまった事があった。
 メイドは驚き、ミシェルの顔の痣を見ながらその場に座り込んでしまった。
 大丈夫かと声をかけると、目を見開いて泣いてしまっていた。
 驚かせて申し訳ない気持ちとそれほど醜いのかと思い知らされたようで、ミシェルの胸は鉛を飲み込んだように重くなった。
 だから家族と侍女以外は誰にも見せないようにしてきたが、今回ヒューブレインに侍女は連れてこなかった。
 一緒に行くと泣いて言ってくれたが、彼女には老年で病気の母親がおり帰国がいつになるかもわからない人質生活に連れてくることはしたくなかった。
 いっその事すべてを自分で出来るのならいいのだが、王女の立場では許されない。
 この先ずっと世話をする侍女に顔を見せず生活することは出来ないのだ。
 ルリーンも泣きだしてしまうかもしれない。
 そうなったらミシェルはまた鉛を飲み込まなくてはならなくなる。
 そしてそれが溶けるのには、随分な時間がかかるのだった。
 驚くだろうがどうか泣きださないでほしい。
 泣かないでくれたらそれだけで、鉛はいくらかマシな重さになるから。
 そう願いながら先を続けようとすると。

「お顔の傷のことはブロンソン伯爵から聞いております。お気になさらずにお見せください」

 ルリーンはにっこりと微笑んで、何でもないように言った。
 聞いているとは言ってもどのくらいのものなのかはわかっていないはず。

「それが……とても大きいの。手のひらでは隠し切れないほどの大きな痣で、その……醜いのよ。だから、驚くと思うのだけど……、あの……」

 少しでもショックを和らげるために、出来るだけの説明をしようとするミシェル。
 しかしルリーンは首を振ってミシェルの話を遮った。

「それで、驚かれた方がいらっしゃったのですか?」
「え? ええ……いたわ。泣いてしまったの。わたしの顔が恐ろしくて……」
「それなら逆に。わたしがミシェル殿下のお顔を拝見しても驚かないことに、殿下は驚かないでください」
「ど、どういうこと?」
「わたしは医者の娘です。色んな傷や痣を見て育ちました。全身やけどで肌がただれ落ちている方の手当を手伝ったこともあります。ミシェル殿下のお顔全体が真っ黒になっていたって驚くことはありません。痣で驚くことは出来ません」
「お医者様のお父上が……」
「はい。それも人使いの荒い父で。わたしのオムツが取れたと同時に手伝いをさせたので、患者さんの方が小さなわたしに診られてハラハラドキドキ。病どころではなくなってしまうという事も。とんでもない医者ですよね」

 ミシェルが怖がらずにベールが取れるように、ルリーンは笑いを交え和ませながら喋り手を握った。

「ここはミシェル殿下にとっては外国でわたしは外国人。しかも殿下のお立場は人質のようなものです。簡単にはわたしたちのことも信用できないですよね。お会いして交わした会話も、まだほんの少しですし。なので信用なんかしていただかなくていいのです。ですが、お手伝いはさせてください。わたしたちはミシェル殿下にもう国に帰りたくない! と言ってしまいたくなるくらいのお世話をする用意があります。それだけはご覚悟ください。では、お腹が鳴る前に湯浴みを致しましょう」





 ルリーンの明るさがミシェルの怯えを消してくれた。
 浴室でベールを取ってもルリーンは言った通り全く驚かず。
 それどころか。

「ミシェル殿下は肌がとてもお綺麗でいらっしゃいます。隠しておくなんて本当にもったいないくらい、白くて透き通っていらっしゃる」

 などと褒めるのだ。

「ルリーン! そんなはずないわ。こんなに真っ黒なのよ……」
「黒いのは痣の部分です。それ以外は本当にきめも細かくて美しいです」

 ルリーンはマッサージをしながら痣を触って確かめ、ミシェルは最近では誰にも触られなかった顔を触られるのがくすぐったかった。

「今日は陛下にお会いするのですもの。念入りにマッサージして血行良くしておきましょう」

 言われて思い出したが、ヒューブレインの国王との謁見があるのだった。

「アスラン国王陛下は、どんなお方なの?」

 鉛を飲まずに済み、暖かい湯とマッサージでほぐれていた心と身体にゆっくりと緊張が戻る。

「とっても人気がありますよ。特に女性に。背が高くてハンサムで、ご視察なんかでお城から出られるときはどこへ行っても黄色い歓声が追いかけて大変です。もともとヒューブレインは豊かな国でしたけど、アスラン国王陛下が即位されてからは同盟国も増えて貿易のおかげで経済もよくなりましたし。福祉や治安改善にも力を入れられているんですよ。ストリートの子供もきちんと保護していますし、望めば教育も受けられるんです。読み書きが出来る子供が増えることは国の為にもなりますからね」
「それは素晴らしい王なのね」
「はい! 各国各地の姫様たちが妻の座を狙って列をなしているのだそうですよ」

 ルリーンがアスランのことを誇らしげに話すので、愛されている王であることがわかる。
 ブロンソンもアスランのことは公平でお優しい方だとミシェルに伝えていた。
 グルシスタをほぼ無条件で助けてくれる国の王なのだ、悪い人ではないはずだ。
 それでも緊張はしてしまうのだけど。
 風呂から上がって身体を拭き、髪を簡単に整え部屋着のドレスを着てベールを被り、昨日は眠ってしまい行けなかったダイニングへ行く。

「おはようございますミシェル殿下」

 執事のクロウはミシェルの支度を確認してルリーンを見た。
 ルリーンが僅かに頷いて見せたので、クロウはルリーンがミシェルの支度を手伝うことが出来たのだとわかった。
 王女なのだから侍女が手伝うのは当然だが、昨日もベールを付けて寝たと報告を受けていたので痣を見せることを嫌がりルリーンに支度を手伝わせないかもしれないと危惧していた。
 ルリーンなら大丈夫と思ってはいたが、クロウは安堵した。

 ミシェルは執事のクロウの挨拶を受け朝食をしっかり食べ、午後の謁見の迎え時間を確認してから部屋に戻る。
 礼服のドレスは一着だけ。
 ハイネックのアクアブルーのドレスの胸元にダイヤで飾られたクロス型のブローチを付け、ハーフアップした髪の上にベールを被った。
 どうせベールで隠れてしまうし知っている侍女でもなるべく痣を見られないようにしていたので、ミシェルはここ三年髪や肌の手入れも短時間で凝った髪型もしようとしなかった。しかし。

「簡単になんていけません。こんな美しい髪を何もしないのはもったいなすぎます」

 ルリーンは譲らず、止めるミシェルの言う事を聞かずに細く髪の束を作り、ねじりながら編んで頭の後ろで丸くまとめる複雑な髪型を作り隠れる顔にも化粧を施した。
 それが本当に楽しそうに髪や頬、鼻・唇と褒めながらするのでミシェルは恥ずかしくなってしまったが、心なしか楽しい気分にもなった。
 ミシェルの顔には確実に醜い痣が大きくあるのだがルリーンがそれをまるで無視するので、痣が出来る前に戻ったように単純におしゃれを楽しんでしまったのだ。
 更に被ってから頭のてっぺんで止めるだけのベールにドレスと同系色のリボンをピンで止め、左右に垂らして飾ってくれた。

「少しの飾りですけどこうしたら絶対かわいらしくなると思って、昨日の夜から準備していたんです」
「ありがとう、ルリーン。あなたを好きになれそうだわ」
「まぁ、殿下。好きになっていただくにはまだまだ早いですわ。ご覚悟くださいと申し上げました。まだ一日目。この程度は序の口にもなっていません」
「ふふふ……。まだ一日目だけど言うわ。侍女があなたで嬉しいわ」
「もったいないお言葉でございます」

 人質二日目にして、ミシェルはこんなに笑顔になれるとは思ってもいなかった。
 ルリーンにこれからの生活の希望をもらった気がした。





 昨日は外から見ただけだったが宮殿は中に入ると一層豪華で、高い天井の壁画の神々は今にも動き出しそうなほど美しく。金の飾りにいくつも吊るされたシャンデリアが煌めいている。
 ブロンソンの案内でステンドグラスが宝石のように美しい礼拝堂に寄ってから謁見室に向かう。

「昨晩はよくお休みになられましたか? お疲れは取れましたか?」
「ええ、十分休みました……」

 ブロンソンに話しかけられても返事が上手く出来ないくらいの圧巻の豪華さに、ミシェルは足を止めずに歩くのが精いっぱいだった。
 控えの間で待つ間なんとか興奮と緊張を和らげようと努力したが、部屋に飾られた絵画も素晴らしく感嘆を止めることが出来なかった。
 すぐには呼ばれなくていいと思っている時ほどその時間は早く過ぎてしまう。
 ブロンソンの案内で謁見室へ導かれる。
 深呼吸を一つして中へ入ると広い部屋がグルシスタでは見たこともない大きな一枚ガラス窓から射す日差しで明るく照らされ。その最奥の一段上がった王座に座る国王アスランと、段を降りて少し離れた左右に衛兵一人ずつその横に侍従が控えていた。
 ミシェルはブロンソンの後を付いて行き、王座の手前でドレスのスカートを摘まんで膝を折り頭を下げた。

「グルシスタ王国第一王女、ミシェル・テレサ・ド=グルシスタ殿下にございます」

 ブロンソンがミシェルを紹介し、ミシェルはそのままの姿勢で挨拶をする。

「本日は謁見を賜り恐悦至極に存じます。この度の我が国グルシスタ王国への寛大なるご支援、父である国王オーギュストに変わり御礼申し上げたく存じます」

 一通りの挨拶とグルシスタへの援軍と支援の感謝を述べ、ゆっくりと顔を上げると明るい部屋のおかげでベール越しでもミシェルからはっきりとアスランの姿が見えた。
 白のドレスシャツに黒のフロックコートとヴェスト、グレーのブリーチズに黒のロングブーツを履いた足は長く、座っていても長身でスリムなのがわかる。
 短くした黒髪を後ろに撫で付け、すっきりとした美しく精悍な顔立ちは格にふさわしい威厳があった。

「よく来てくれた。国の事は安心していい。出来る支援をしていくつもりだ」

 声は低く少しハスキーで男らしく、見た目の印象をいい意味で裏切った。
 緊張で早い鼓動がさらに早くなる。

「……グルシスタの王女として、国王オーギュストとその民に代わり心より感謝申し上げます」

 声が震えそうになる。
 ルリーンの言っていた通りだった。
 こんな美しい男性だったら、王でなくとも妻になりたい女性は後を絶たないだろう。
 ミシェルはアスランの真っ直ぐな視線に息をのんで苦しくなっていたが、アスランが別の意味でミシェルの呼吸を止めた。

「そちらの国ではそれでよいのかもしれないが、わが国では王の前では顔を隠さないのが礼儀としてある。そのベールを取る気はないのか?」

 やってしまった!
 ミシェルは咄嗟にドレスのスカートを摘まみ、深く膝を折って頭を下げた。

「も……! 申し訳ございません! ご無礼をお許しください!」

 最初に説明しなくてはいけなかったのに。ブロンソンにも言われていたのに。ミシェルはアスランに見とれて挨拶もやっとでベールの説明のことを忘れていた。

「万が一ではあるが、本物の王女じゃないため顔を隠していると考えることもできる」
「そ、そのようなことは決して! ……わけあってこのように顔を隠しておりますが、わたしは紛うことなきグルシスタ国王オーギュストの娘で、王女のミシェルでございます!」

 ミシェルは王女であることを疑われたことで自分の失態に息も絶え絶えだった。

「三年前に怪我をした際に出来てしまった痣が顔に大きくあります。そのためベールで隠しております。国王陛下の御前でのご無礼、どうか、どうかお許しくださいませ……」

 精一杯の気持ちで弁解と謝罪をしたが、アスランは冷静な声で返した。

「痣くらいは気にしない。我が国で預かる以上なんの疑いもなくしたい。ベールを取られよ」
「とても、とても醜いのです。陛下のお目汚しになります……」
「かまわない」

 もし先にきちんと説明していたとしても、アスランの物言いではベールは取らなくてはならなかっただろう。
 これ以上どう説明しても容赦はないだろうと悟り、ミシェルはゆっくり顔と身体を上げた。
 ベールの内側に手を入れ、今朝飲み込まずに済んだ鉛を飲む覚悟をして顔にかかったベールを上げ頭の後ろに下した。
 覚悟は決めたがベールを上げた顔でアスランを見ることは出来ず、足元だけを見つめた。
 アスランなのか侍従なのか衛兵なのか。誰かの息を呑む音がして、ミシェルは羞恥に唇を結んだ。

「間違いなく、ミシェル王女なのだな?」
「そうでございます。国でお調べいただいてもかまいません……」

 自分を叱咤しなんとか言い切ったが、最後は声は震えて消え入りそうだった。
 自分の醜い姿を美しいアスランに見せているのが恥ずかしくて切なくなった。
 ベールを上げてからとてつもない時間が経っているように感じられる。
 握った手が震え飲み込んだ鉛のせいで胸は重く鼻の奥がツンとなり、もう少しで泣きだしてしまいそうだった。

「わかった。信じよう。ベールを下ろしてかまわない」

 やっと許しが出て、ミシェルは震える指でベールを顔に戻した。

「ありがたく存じます」

 絞りだした声はもう擦れて、これ以上は一言も発することは出来そうにない。

「なにかあればブロンソン伯爵に相談してくれ。国にいるときと同じように自由に過ごしてかまわない。ブロンソン伯爵、頼んだぞ」
「かしこまりました」

 ミシェルは再度深く膝を折り、ブロンソンに促され謁見の間を後にした。
 来るときは下を向くのが難しいほど宮殿の景色を瞬きも忘れて見ていたミシェルだったが、帰りはまったく違った。
 下を向いた顔はそこで固まってしまったかのように上げることは出来ず、ブロンソンから話し掛けられても小さな返事をひとつするだけで精一杯だった。
 ブロンソンは緑の離宮までミシェルを馬車で送り、ミシェルは下を向いたまま礼を言うとそのまま出迎えたクロウの横を通り過ぎ私室に籠った。
 自分の失態でグルシスタに恥をかかせてしまった。
 醜い顔を見られてしまった。
 アスランの顔は見られなかったが、泣き出してしまったメイドの恐れた顔と同じだったろうか?
 それとももっと酷い、汚物を見るようだったろうか?
 ミシェルは恥ずかしく、自分がみっともなくて仕方なかった。
 止められない涙がベールの中から零れ落ち、そのままの姿でソファに伏せてクッションを濡らした。

 そこへ、カチャカチャと音を鳴らしてルリーンが入ってきた。
 昨日も今朝もルリーンはお茶や朝食の支度をしてくれたが、こんな風に音を立てたりはしなかった。
 ポットからお茶を入れ、焼き菓子と一緒にミシェルの前に並べた。

「ミシェル殿下、今下でブロンソン伯爵から事の次第を聞きました」

 その声はとがっていて、ミシェルは涙で濡れた顔を上げた。
 涙のせいでベールまで濡れてしまい、ルリーンはハンカチを取り出しカウチに座り直したミシェルの前で膝をつき差し出した。

「ここにはわたし以外の者は入って来ません。ミシェル殿下、ベールを取っても大丈夫です。目を見てお話しさせてください」

 朝の支度でルリーンには大丈夫なことはわかっていたが、ミシェルは躊躇した。
 しかしルリーンはミシェルの承諾も得ずに手を伸ばし、止める間もなくベールを取って手を伸ばせばすぐに取れるようミシェルの横に置いた。
 ミシェルは露わになった痣を隠すように俯きながら、受け取ったハンカチで涙をぬぐった。

「大失敗してしまったの……」

 泣いている言い訳をしたのだったが、ルリーンは先ほどベールを取った時の優しさをその顔から消し目を吊り上げてミシェルを覗き込んだ。

「ミシェル殿下、わたしは今からとんでもなく不敬なことを言いますけどお許しください」

 声にも棘が生えたので、ミシェルは身構えた。

「まーったく! 我が国の王はなんて人なんでしょうね! わたし、ブロンソン伯爵に事の顛末を聞いて恥ずかしくなりました。アホなのでしょうか? 陛下はアホなのでしょうか?」

 不敬なこととはミシェルに対してではなく、アスランに対してだった。
 ルリーンはミシェルの目の前の絨毯に膝をついて座ったままで、こぶしを振って怒りだしたのだ。

「ミシェル殿下も先に説明はすべきだったとは思います。が! 昨日人質としてこちらに着いて、気疲れもあったでしょう。翌日には他国の王様に一人でお会いするなんて、緊張するに決まっています。しかも、顔に痣があることを説明したのに陛下だけでなく、衛兵も侍従もいる前で取って見せろだなんて! 女性ですよ! か弱き女性にそんな無体を言うなんてどうかしています。何も考えてないんでしょうか? 想像力は無いんでしょうか? アホなんでしょうか?」

 あまりの言い様にミシェルは唖然とし、思わず顔を上げてしまった。

「もうがっかりですよ。今朝ミシェル殿下に素晴らしい方だと言ってしまったことが恥ずかしくなりました。がっかり陛下のせいでミシェル殿下がこの国とこの国の人間を嫌いになってしまわないか、それが心配で腹立たしくて!」

 ルリーンの怒りは収まる様子を見せず、握ったこぶしはアスランを殴るためのものに見えてミシェルは思わずそのこぶしを掴んだ。

「ルリーン! なんてことを言うの。国王陛下の事をそんな風に言ってはいけないわ」
「面と向かっては言いません。でも言ってやりたい気持ちは全身に漲っています!」
「わたしが失敗してしまったの。なんの説明もせずベール越しにご挨拶してしまったのよ。こんなものを被って顔を隠すなんて怪しいと思われても仕方のないことだわ……」
「いいえ。ブロンソン伯爵が責任をもってお預かりした殿下を怪しむなんて、それはブロンソン伯爵に対しても信用してないと言っているようなものじゃないですか。ブロンソン伯爵は信用出来るお方ですし、正真正銘王女だと判っていたはずです。それを興味本位でベールを取らせるなど紳士に有るまじき行為です。陛下はアホです」
「ルリーン……」
「わたしブロンソン伯爵には言ってしまいました。なぜ陛下をお止めしなかったのですか? って。陛下の非紳士な行いはヒューブレインの恥になりますって」
「なんてことを! そんな事を言って、あなたが怒られてしまうじゃないの」
「かまいません。ブロンソン伯爵は怒りませんでしたし、もしかしたら後でクロウさんには怒られるかもしれませんが、後ろを向いたら舌をペロッと出してやります。ミシェル殿下の心に負った痛みに比べたら、たとえ百叩きにあったってマシでしょう! それに、伯爵に言ったこと、わたしは間違っているとは思いません。王様であっても女性の心を傷つけていいとは思いません」

 ミシェルはルリーンの手を強く握った。
 ミシェルのために、ミシェル代わってルリーンは怒っているのだ。
 目の前にいないとはいえ国王に対する暴言は許されない。
 侍女がそんなことを言うのをミシェルは叱らなくてはいけない立場なのだが、出来なかった。
 会って二日目のこの侍女はミシェルの心の鉛をこんなにも簡単に溶かすのだ。
 妹のアンヌとでさえベールを取ってお喋りなどしたことがないのに、それを簡単に取って。まるで痣など無い普通の女の子のように視線を交わして会話をし、ミシェルの代わりにこぶしを振って怒るのだ。

「ありがとう」

 ミシェルは涙目で微笑んでルリーンを見つめた。
 ルリーンもまた、ミシェルを見つめ返し微笑んだ。

「お見かけする機会なんてわたしにはそうはありませんけど、もし陛下の姿が見えたら心の中で『アホー』って叫んでやりますので、ミシェル殿下も一緒に叫んでくださいね」
「えっ? そんなこと出来ないわ!」

 ミシェルはとうとう笑い出してしまった。
 笑うことがこんなに簡単に出来るなんて!
 さっきまでこの世の終わりのような暗く沈んだ顔が、たったの十分で変わってしまった。

「出来ますよ。ふたりで陛下の後姿に『アホー』って叫ぶんです。あ! 心の中で、ですよ! 本当の声は出したらいけないですからね。練習しましょう!」
「練習はしないけど、お茶をいただくわ」

 ミシェルは後でクロウに、ルリーンを叱らないでほしいと頼みに行こうと決めた。

「ルリーンは、もしかしたらわたしの魔法使いなのかも?」
「あー……バレてしまいました。実はわたし、ミシェル殿下に魔法を使うためにここにいるんですよ」

 ミシェルは笑って納得した。
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