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「グルシスタ王国から援軍の要請がきています」
ヒューブレイン王国、国王側近のブロンソン伯爵が若き国王アスランに伝えた。
アスランは夕食の最中で、それがわかっていて知らせてきたということは緊急性があるということだと理解はした。それでも訝し気にグレーの目をブロンソンに向けた。
グルシスタは内陸の隣国であるが、ヒューブレインの西にあるコースリーと同盟を結んでいてヒューブレインとは国交がない。
ヒューブレインとコースリーも国交がない。
ヒューブレインは超大国と言われる国で近隣諸国と比べても次の大国コースリーの倍の国土があり、海と山に恵まれる豊で経済も高い水準を持つ国だ。
軍事も世界最強と言われ、安易に攻め込めるものではない。
好戦国の隣国コースリーでさえ手出しも出来ないほどの強大な国なのだ。
しかし。隙あればと国境線では常ににらみ合っているのは事実。
そんなコースリーの同盟国である国交のないグルシスタから援助要請など…。
「コースリーから同盟を一方的に破棄され、国が攻め込まれそうなのだそうです。いかがいたしますか?」
ブロンソンは緊急ではあっても落ち着いた声で表情なく話をする。
アスランの父王の代からの側近で年齢も親子ほど離れているが、アドバイスを求められない限り王の決断に自身の思惑が投影されないよう感情を排除してアスランに接するのだった。
「グルシスタは小さく、貧しく、何もない国だ。援軍を出し助けたところでわが国に利はない。しかも、一歩間違えばコースリーとの開戦になってしまう恐れがある。安易に決断を下すことは出来ない」
アスランはとりあえずの頭にある情報で返事を返したが、やはりブロンソンの表情は変わらず。
「そうですか。ではその旨使者にお伝え致しましょう」
そう言って踵を返そうとした。
しかし。
王であるアスランがどうするかは最初から予想しての行動である。
「いや待て」
もともと本気で引き返すつもりのなかったブロンソンは、それが一連の儀式のようにアスランに向き直り無表情で続きを待った。
「グルシスタは助けるに足る国か? 信頼は出来るか? 罠ではないか?」
一応の確認として、グルシスタについて自身の知らない情報を得ようと聞く。
「それはわかりません。噂ではグルシスタの王は賢く人徳に優れた方で、国民から愛されている王であるようです。他国からは幸せの国と呼ばれているとも聞きます」
「小さく、貧しい国なのにか?」
「小さく貧しい国なのに、です」
経済で人の幸せは図れない。
しかし、近隣諸国のどこよりも国土が狭く、どこよりも貧しい発展途上の国が幸せの国とは…。
「助けよう。ガブロ将軍と相談しグルシスタに必要な援軍を送れ。コースリーとグルシスタに近い国境の兵も増員するように」
アスランは素早くブロンソンに決断を告げると食事を切り上げた。
「よろしいのですか? コースリーと開戦するかもしれませんよ?」
立ち上がるアスランに確認すると、
「コースリーが利口ならヒューブレイン相手に開戦するようなことは馬鹿なことはしないだろう。国土を半分にはしたくないだろうからな」
当たり前のように言ってから執務室へ向かった。
ブロンソンはアスランのすべての回答が想定済みだったため、すでにヒューブレインの軍のトップであるガブロ将軍にも連絡済みであった。
どのような国であろうと助けを求められれば助ける。国交のない国でも。
それが超大国であるヒューブレインの役割であるというのが国王アスランの考えであったからだ。
同盟国同士であれば、間に入り交渉を助ける。今回のようにそうでない場合もその時に出来る援助を考える。
戦争を回避させることに尽力する。
それが広大な国土と強大な軍事力と経済力、他国への大きな影響力を持つヒューブレインの責任だ。
父である先王からアスランが教えられたことだった。
世界の平和に貢献するのが大国の役割なのだと。
父が狩り場で心臓発作を起こし落馬して他界したのは、アスランが十九歳の時だった。
まだ王になるには若いアスランを幼い時からの父の教えが導いてくれた。
時に厳しく突き放しながらも常に寄り添い側近としてアスランの頭脳になってくれたブロンソンもいて、現在二十七歳のアスランは超大国の王としてふさわしくなろうとしていた。
助けた国に裏切られたこともあった。
友好国以外ではヒューブレインは悪の国だと言われなき噂を立てられていることも知っている。
もう他国に干渉したくないと言ったこともあった。
しかしそこでやめてしまえば成ったかもしれない平和が消えてしまうのだと。責任を放棄すればさぞ楽でしょうねとブロンソンに言われ、歯を喰いしばったこともある。
今回も裏切られるかもしれない。
コースリーがおとりに使っている可能性がないわけではない。
グルシスタとコースリーの同盟の歴史は長い。
考えれば考えるほど、疑惑は思いつく。
しかし助けようと決めた。
裏切られたとしても対抗できるだけの力を持つヒューブレインだからこそ出来る。
これが役割なのだ。
かたは3日で着いた。
一方的に同盟を破棄し攻撃を開始してきたコースリーだったが、グルシスタ兵の後ろにはためくヒューブレイン軍の旗と最後尾がまったく見えない馬列を見て固まった。
その数時間後にはコースリーとヒューブレインの国境にヒューブレイン兵が集結していることを確認しコースリーはグルシスタから引いた。
おかげでグルシスタは最小の被害で終わらすことが出来た。
その後、コースリーはヒューブレインと戦う意思はないことを伝えてきた。
ヒューブレインは国境の兵をもとの人数まで減らし事を起こさず片づけた。
その五日後。
今回の謝辞の書かれた国王からの親書を持ってグルシスタのモロー公爵が国王名代としてヒューブレインを訪れた。
今後グルシスタと同盟を結んでほしいと頼みに来たのだ。
グルシスタは内陸の国で海はなく、塩や海産物は今までコースリーからの輸入に頼っていた。
それだけでなく、砂糖や肉や食料の多くも輸入がなくなれば苦しい状態だという。
今回のことで同盟が破棄され、グルシスタはなんとしてもヒューブレインと同盟を結び貿易を確保しなくてはならなかった。
もちろんアスランはそこまで予想していたし、この貧しい国を支援するためブロンソンや大臣たちと必要な予算を計算してあった。
少ないが得るものもある。
グルシスタは美しい織物で有名であったし、量は多くを期待できないが特産品である上質の綿と絹を輸入出来るのである。
アスラン自身は興味がないが国民は喜ぶ者も多いだろう。
アスランは謁見の間で親書を受け取り、後はブロンソンとの会談で話を詰めるよう言い後のことは任せて終わった。
その会談内容は書面にされアスランの元へ来ていたが、他の雑事に追われアスランがそれを読んだのは一週間後のことだった。
*****
「あと十日しかないじゃないか!」
ブロンソンに戸惑いをぶつけた。
と言うのも、執務室でいつものように報告を受けながら書類の整理をしているとまるで付け加えるかのようにさらりと。
「ミシェル様には緑の離宮を使っていただくよう整えておきました」
と言うのだ。
「ミシェル様? 誰だ? なにかあるのか?」
アスランの知り合いの女性にミシェルという名前のものはいない。
離宮を使う用事で誰かと何かの約束をした覚えもない。
街が丸ごと入るほど広く多くの貴族も暮らすこの宮殿で、誰がどこで何をしていようが大抵のことは報告はいらない。
宮殿の敷地内にある四つの離宮も、どうなっているかすら忘れていた。
それをわざわざブロンソンが報告してくるので、なにか特別なことを忘れているのかと思ったアスランだったが。
忘れているのではない。
まだ知らなかったのだ。
「グルシスタのミシェル王女が。そうですね、十日後に我が国にいらっしゃいます」
「王女が何しに来る? なぜ離宮を使う? 宮殿の客室を使えばいいだろう」
「どれほどの期間のご滞在になるか現状では測りかねますので、賓客扱いとは言え、宮殿の客室より落ち着いて過ごしていただけるかと」
アスランはブロンソンの話の内容が掴めなかった。
いつもするように訝し気な目でブロンソンを見返すと、ブロンソンは落ち着いた手つきではあっても素早く執務机の上にある書類ケースの中の書類を捲った。
「陛下……。お忙しいのは承知しておりますが、書類は溜めずに古い順で処理してくださいますように……」
探し出した一枚をアスランの前に差し出す。
それはグルシスタとの同盟条約を記したものだった。
グルシスタへの支援を約束してあり、グルシスタ側もヒューブレインからの条件に同意する内容であった。
取り決めの最後に、お互いの信頼と強固な同盟のため約束が確信できるまでグルシスタから客人を預かると記してあった。
つまり、信頼できるまで人質を預かるということだ。
人質については、前にも同盟のなかった国を助けた際に預かったことはあった。
もちろん人道に基づいて出来うる限りの待遇で迎えた。
もともと裏切られれば力で対抗できるので、これはただの形だけの慣例のようなものだった。
なので多くの場合王族ではなく、国に選ばれた貴族が長期滞在旅行感覚で大国の宮殿の暮らしを満喫して適当な期間で国へ帰る。
しかし、今回は違う。
王族、王女が来るとなればそれ相応の支度をしなくてはならない。
一貴族と国王の娘では格が違う。
「あと十日しかないじゃないか! というか、なんで王女が来るのだ。他に適当な者でいいと伝えなかったのか?」
「伝えました。しかし、適当なものはいないので王女を寄越すと返事がきました」
王の娘に比べたら他の者のほとんどが適当な者にならないのか?
「緑の離宮は小さすぎるだろう。花の離宮も使ってないだろう? そっちにしたらどうだ?」
祖父王の代に王の愛人が使っていた造りの小さい緑の離宮より花の離宮は一昨年アスランの母が亡くなるまで使っていたので、広くて美しい。
「それが、グルシスタに必要な物を問い合わせましたら王女はあまり華やかなことは好まないようで、静かに生活が出来る場所と侍女を一人付けてくれたら十分だと言うのです。宮廷の中庭に面した花の離宮より木々で隠された緑の離宮の方が落ち着かれるかと」
ブロンソンの返答に思わず眉間にしわが寄った。
一国の王の娘が人質として、助けられたとしてもほとんど知らない国に来なくてはならず、いつ帰れるかもわからないのに。
「向こうから連れてくる者はいないのか?」
たった独りでくるなんてことは……。
「はい。王女単身で来られるそうです。国境までわたしがお迎えに上がり、そこで祖国の皆さまとお別れになり。おひとりで来て、おひとりでこちらで生活されます」
あるのか! そんなことがあるのか!
ひどい話だ……。いや、ひどいのはこちらか? 人質だからそうしなくてはならないと思い込んでいるのではないのか?
「王女だぞ? 何人でも側用人を連れてきてもかまわないと伝えなかったのか?」
「お伝えしましたが単身でいらっしゃるとのご返答でした。慣れない他国での生活にご負担の無いよう、侍女や執事もわたしが選抜しご用意を終えております」
グルシスタとは王女にそんな扱いをする国なのか?
王族が他国に行くのに侍女も着かないなど、そんな雑な扱いは初めて聞いたぞ?
「それは本当に王女なのか?」
「はい。グルシスタ王国オーギュスト国王の第二子で第一王女のミシェル・テレサ・ド=グルシスタ殿下でございます」
アスランは開いた口がふさがらなかった。
が、決まってしまっていることは仕方ない。
ブロンソンがおかしなことをするはずもない。
とにかく十日後に王女を迎え入れなくてはならない。
人質としてはこれ以上ない人選ではあるが、供もおらず単身他国に来る王女とは。
用意をする人材も金もないのか。
大国ヒューブレインでの厚遇を当てにして人質生活を満喫するつもりなのか。
最初は慎ましいふりをしてもワガママを言い出してくるかもしれない。
それを拒否すれば王女への無礼な冷遇を言いふらし、ヒューブレインの非人道を宣伝し貶めることもできる。
まったく面倒なことになった。
王女が来るのでは放置することは出来ない。
やれ茶会だ、舞踏会だとそんなことばかり要求されたのではたまったものじゃない。
アスランは面倒を思い深いため息をついた。
とにかく、決まってしまっているものは仕方がない。
出来るだけ短い期間で適当にご帰国いただけるようにするしかない。
ヒューブレイン王国、国王側近のブロンソン伯爵が若き国王アスランに伝えた。
アスランは夕食の最中で、それがわかっていて知らせてきたということは緊急性があるということだと理解はした。それでも訝し気にグレーの目をブロンソンに向けた。
グルシスタは内陸の隣国であるが、ヒューブレインの西にあるコースリーと同盟を結んでいてヒューブレインとは国交がない。
ヒューブレインとコースリーも国交がない。
ヒューブレインは超大国と言われる国で近隣諸国と比べても次の大国コースリーの倍の国土があり、海と山に恵まれる豊で経済も高い水準を持つ国だ。
軍事も世界最強と言われ、安易に攻め込めるものではない。
好戦国の隣国コースリーでさえ手出しも出来ないほどの強大な国なのだ。
しかし。隙あればと国境線では常ににらみ合っているのは事実。
そんなコースリーの同盟国である国交のないグルシスタから援助要請など…。
「コースリーから同盟を一方的に破棄され、国が攻め込まれそうなのだそうです。いかがいたしますか?」
ブロンソンは緊急ではあっても落ち着いた声で表情なく話をする。
アスランの父王の代からの側近で年齢も親子ほど離れているが、アドバイスを求められない限り王の決断に自身の思惑が投影されないよう感情を排除してアスランに接するのだった。
「グルシスタは小さく、貧しく、何もない国だ。援軍を出し助けたところでわが国に利はない。しかも、一歩間違えばコースリーとの開戦になってしまう恐れがある。安易に決断を下すことは出来ない」
アスランはとりあえずの頭にある情報で返事を返したが、やはりブロンソンの表情は変わらず。
「そうですか。ではその旨使者にお伝え致しましょう」
そう言って踵を返そうとした。
しかし。
王であるアスランがどうするかは最初から予想しての行動である。
「いや待て」
もともと本気で引き返すつもりのなかったブロンソンは、それが一連の儀式のようにアスランに向き直り無表情で続きを待った。
「グルシスタは助けるに足る国か? 信頼は出来るか? 罠ではないか?」
一応の確認として、グルシスタについて自身の知らない情報を得ようと聞く。
「それはわかりません。噂ではグルシスタの王は賢く人徳に優れた方で、国民から愛されている王であるようです。他国からは幸せの国と呼ばれているとも聞きます」
「小さく、貧しい国なのにか?」
「小さく貧しい国なのに、です」
経済で人の幸せは図れない。
しかし、近隣諸国のどこよりも国土が狭く、どこよりも貧しい発展途上の国が幸せの国とは…。
「助けよう。ガブロ将軍と相談しグルシスタに必要な援軍を送れ。コースリーとグルシスタに近い国境の兵も増員するように」
アスランは素早くブロンソンに決断を告げると食事を切り上げた。
「よろしいのですか? コースリーと開戦するかもしれませんよ?」
立ち上がるアスランに確認すると、
「コースリーが利口ならヒューブレイン相手に開戦するようなことは馬鹿なことはしないだろう。国土を半分にはしたくないだろうからな」
当たり前のように言ってから執務室へ向かった。
ブロンソンはアスランのすべての回答が想定済みだったため、すでにヒューブレインの軍のトップであるガブロ将軍にも連絡済みであった。
どのような国であろうと助けを求められれば助ける。国交のない国でも。
それが超大国であるヒューブレインの役割であるというのが国王アスランの考えであったからだ。
同盟国同士であれば、間に入り交渉を助ける。今回のようにそうでない場合もその時に出来る援助を考える。
戦争を回避させることに尽力する。
それが広大な国土と強大な軍事力と経済力、他国への大きな影響力を持つヒューブレインの責任だ。
父である先王からアスランが教えられたことだった。
世界の平和に貢献するのが大国の役割なのだと。
父が狩り場で心臓発作を起こし落馬して他界したのは、アスランが十九歳の時だった。
まだ王になるには若いアスランを幼い時からの父の教えが導いてくれた。
時に厳しく突き放しながらも常に寄り添い側近としてアスランの頭脳になってくれたブロンソンもいて、現在二十七歳のアスランは超大国の王としてふさわしくなろうとしていた。
助けた国に裏切られたこともあった。
友好国以外ではヒューブレインは悪の国だと言われなき噂を立てられていることも知っている。
もう他国に干渉したくないと言ったこともあった。
しかしそこでやめてしまえば成ったかもしれない平和が消えてしまうのだと。責任を放棄すればさぞ楽でしょうねとブロンソンに言われ、歯を喰いしばったこともある。
今回も裏切られるかもしれない。
コースリーがおとりに使っている可能性がないわけではない。
グルシスタとコースリーの同盟の歴史は長い。
考えれば考えるほど、疑惑は思いつく。
しかし助けようと決めた。
裏切られたとしても対抗できるだけの力を持つヒューブレインだからこそ出来る。
これが役割なのだ。
かたは3日で着いた。
一方的に同盟を破棄し攻撃を開始してきたコースリーだったが、グルシスタ兵の後ろにはためくヒューブレイン軍の旗と最後尾がまったく見えない馬列を見て固まった。
その数時間後にはコースリーとヒューブレインの国境にヒューブレイン兵が集結していることを確認しコースリーはグルシスタから引いた。
おかげでグルシスタは最小の被害で終わらすことが出来た。
その後、コースリーはヒューブレインと戦う意思はないことを伝えてきた。
ヒューブレインは国境の兵をもとの人数まで減らし事を起こさず片づけた。
その五日後。
今回の謝辞の書かれた国王からの親書を持ってグルシスタのモロー公爵が国王名代としてヒューブレインを訪れた。
今後グルシスタと同盟を結んでほしいと頼みに来たのだ。
グルシスタは内陸の国で海はなく、塩や海産物は今までコースリーからの輸入に頼っていた。
それだけでなく、砂糖や肉や食料の多くも輸入がなくなれば苦しい状態だという。
今回のことで同盟が破棄され、グルシスタはなんとしてもヒューブレインと同盟を結び貿易を確保しなくてはならなかった。
もちろんアスランはそこまで予想していたし、この貧しい国を支援するためブロンソンや大臣たちと必要な予算を計算してあった。
少ないが得るものもある。
グルシスタは美しい織物で有名であったし、量は多くを期待できないが特産品である上質の綿と絹を輸入出来るのである。
アスラン自身は興味がないが国民は喜ぶ者も多いだろう。
アスランは謁見の間で親書を受け取り、後はブロンソンとの会談で話を詰めるよう言い後のことは任せて終わった。
その会談内容は書面にされアスランの元へ来ていたが、他の雑事に追われアスランがそれを読んだのは一週間後のことだった。
*****
「あと十日しかないじゃないか!」
ブロンソンに戸惑いをぶつけた。
と言うのも、執務室でいつものように報告を受けながら書類の整理をしているとまるで付け加えるかのようにさらりと。
「ミシェル様には緑の離宮を使っていただくよう整えておきました」
と言うのだ。
「ミシェル様? 誰だ? なにかあるのか?」
アスランの知り合いの女性にミシェルという名前のものはいない。
離宮を使う用事で誰かと何かの約束をした覚えもない。
街が丸ごと入るほど広く多くの貴族も暮らすこの宮殿で、誰がどこで何をしていようが大抵のことは報告はいらない。
宮殿の敷地内にある四つの離宮も、どうなっているかすら忘れていた。
それをわざわざブロンソンが報告してくるので、なにか特別なことを忘れているのかと思ったアスランだったが。
忘れているのではない。
まだ知らなかったのだ。
「グルシスタのミシェル王女が。そうですね、十日後に我が国にいらっしゃいます」
「王女が何しに来る? なぜ離宮を使う? 宮殿の客室を使えばいいだろう」
「どれほどの期間のご滞在になるか現状では測りかねますので、賓客扱いとは言え、宮殿の客室より落ち着いて過ごしていただけるかと」
アスランはブロンソンの話の内容が掴めなかった。
いつもするように訝し気な目でブロンソンを見返すと、ブロンソンは落ち着いた手つきではあっても素早く執務机の上にある書類ケースの中の書類を捲った。
「陛下……。お忙しいのは承知しておりますが、書類は溜めずに古い順で処理してくださいますように……」
探し出した一枚をアスランの前に差し出す。
それはグルシスタとの同盟条約を記したものだった。
グルシスタへの支援を約束してあり、グルシスタ側もヒューブレインからの条件に同意する内容であった。
取り決めの最後に、お互いの信頼と強固な同盟のため約束が確信できるまでグルシスタから客人を預かると記してあった。
つまり、信頼できるまで人質を預かるということだ。
人質については、前にも同盟のなかった国を助けた際に預かったことはあった。
もちろん人道に基づいて出来うる限りの待遇で迎えた。
もともと裏切られれば力で対抗できるので、これはただの形だけの慣例のようなものだった。
なので多くの場合王族ではなく、国に選ばれた貴族が長期滞在旅行感覚で大国の宮殿の暮らしを満喫して適当な期間で国へ帰る。
しかし、今回は違う。
王族、王女が来るとなればそれ相応の支度をしなくてはならない。
一貴族と国王の娘では格が違う。
「あと十日しかないじゃないか! というか、なんで王女が来るのだ。他に適当な者でいいと伝えなかったのか?」
「伝えました。しかし、適当なものはいないので王女を寄越すと返事がきました」
王の娘に比べたら他の者のほとんどが適当な者にならないのか?
「緑の離宮は小さすぎるだろう。花の離宮も使ってないだろう? そっちにしたらどうだ?」
祖父王の代に王の愛人が使っていた造りの小さい緑の離宮より花の離宮は一昨年アスランの母が亡くなるまで使っていたので、広くて美しい。
「それが、グルシスタに必要な物を問い合わせましたら王女はあまり華やかなことは好まないようで、静かに生活が出来る場所と侍女を一人付けてくれたら十分だと言うのです。宮廷の中庭に面した花の離宮より木々で隠された緑の離宮の方が落ち着かれるかと」
ブロンソンの返答に思わず眉間にしわが寄った。
一国の王の娘が人質として、助けられたとしてもほとんど知らない国に来なくてはならず、いつ帰れるかもわからないのに。
「向こうから連れてくる者はいないのか?」
たった独りでくるなんてことは……。
「はい。王女単身で来られるそうです。国境までわたしがお迎えに上がり、そこで祖国の皆さまとお別れになり。おひとりで来て、おひとりでこちらで生活されます」
あるのか! そんなことがあるのか!
ひどい話だ……。いや、ひどいのはこちらか? 人質だからそうしなくてはならないと思い込んでいるのではないのか?
「王女だぞ? 何人でも側用人を連れてきてもかまわないと伝えなかったのか?」
「お伝えしましたが単身でいらっしゃるとのご返答でした。慣れない他国での生活にご負担の無いよう、侍女や執事もわたしが選抜しご用意を終えております」
グルシスタとは王女にそんな扱いをする国なのか?
王族が他国に行くのに侍女も着かないなど、そんな雑な扱いは初めて聞いたぞ?
「それは本当に王女なのか?」
「はい。グルシスタ王国オーギュスト国王の第二子で第一王女のミシェル・テレサ・ド=グルシスタ殿下でございます」
アスランは開いた口がふさがらなかった。
が、決まってしまっていることは仕方ない。
ブロンソンがおかしなことをするはずもない。
とにかく十日後に王女を迎え入れなくてはならない。
人質としてはこれ以上ない人選ではあるが、供もおらず単身他国に来る王女とは。
用意をする人材も金もないのか。
大国ヒューブレインでの厚遇を当てにして人質生活を満喫するつもりなのか。
最初は慎ましいふりをしてもワガママを言い出してくるかもしれない。
それを拒否すれば王女への無礼な冷遇を言いふらし、ヒューブレインの非人道を宣伝し貶めることもできる。
まったく面倒なことになった。
王女が来るのでは放置することは出来ない。
やれ茶会だ、舞踏会だとそんなことばかり要求されたのではたまったものじゃない。
アスランは面倒を思い深いため息をついた。
とにかく、決まってしまっているものは仕方がない。
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