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第1回【生え抜きと外様】

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 また、この時間がやってきた。
 愛川監督は、ただ戦況を眺めている。何も言わない。全てはこの俺に委ねられている。
 どうする? 田川はよく投げた。七回を投げ切り九十八球、被安打三の無失点。あと二回なら、完封させてやりたい気持ちも出てくる。軟投派の田川なら、百二十球は許容範囲だろう。相手打線も合っていない。
 だが、それはここまでの話だ。
 これから先は、八回と九回。点差は二点。プロのバッター達が最も集中力を高め、本気で向き合ってくる時間帯に突入する。
 打順も三巡して、さっきの一番と二番バッターは、明らかに対応を変えてきている。田川のスライダーにタイミングを合わせている。今日、最も自信を持って放れているスライダー。それに合わせられてしまうと苦しい。さらに、肉体及び精神の疲労から、段々とスライダーの曲がりが早くなって、バッターからすると見極めやすくなっている。
 それでも、無失点だ。見栄えはいい。
 だが--それはここまでの話だ。
 決めた。

「監督、八回から寺澤にしましょう」

 俺は、どっしりとベンチに腰掛けている監督に、ハッキリと言った。

「分かった」

 監督は、一瞬俺の目を見ながらそう言って、また打席の方に目線を戻した。
 ウチのチーム--尾張フェニックスには、盤石のセットアッパーとクローザーがいる。平均球速百四十キロ台後半、マックス百五十六キロを誇る、鉄腕セットアッパー寺澤。そして、【悪魔の鎌】と称される究極の横スライダーで、淡々と仕事を積み重ねる球界ナンバーワンクローザー、川村均。この二人で、フェニックスは幾度となく接戦のゲームをモノにしてきた。
 俺が愛川監督から請われて名古屋にやってきて、もう四年が経つ。その間、この二人のおかげで随分ラクをさせてもらってきたと思う。特に川村の存在は、チームにとってはもちろん、俺にとっても大きかった。すでに円熟の域に達しているそのマウンド捌きは、「川村で負けたらしょうがねぇよ」と監督が公言するほどの揺るがぬ信頼を得ていた。
 それにしても--川村がストッパーという勝敗を決する重い立場を担うようになって、もう七年目か。他球団を見渡しても、七年もストッパーを継続している選手は一人もいない。皆、二、三年のうちに肩や肘、あるいは精神を壊して消えていった。そんな中で、川村は淡々と九回のマウンドに上がり、日々の仕事を積み重ね続けてきたのだ。
 寺澤が問題なく八回表を乗り切ってくれれば、そして、そのあと味方が大量得点を取ることがなければ、川村がいつもどおり九回のマウンドに立ち、安定の仕事を見せてくれるはずだ。





 とんでもないことになった。
 自軍ベンチ内に不穏な空気が漂い始めている。八回表、マウンドに上がった寺澤は、いつもどおりキャッチャー山森のミットに向かって剛速球を投げ込んでいた。首尾よく先頭とその次の打者を打ち取ったところまでは良かった。ところが、である。
 ツーアウトを取ったところで、分かりやすく制球が乱れ始めた。突然球が暴れ出し、制御不能に。ストレートが高め--というか空中--にぶっ飛び、次は地面に叩きつけ……。
 寺澤には、元々こういうところがあった。突発的に制球が悪化するという悪癖。それでも、ここ二シーズンくらいは安定感が出てきていたのだが。
 …やはり、勤続疲労か?
 寺澤が一軍の中継ぎに定着したのは三年前からだ。三年前は二十五試合登板だったが、八回を任されるようになった二年前は五十八試合、そして去年は終盤まで安芸島アイロンズと激しい優勝争いを繰り広げていたこともあり、七十三試合まで登板数が増えてしまっていた。これは、両リーグトップの登板数だ。
 もちろん、優れた投手はなるべく温存したい。それは誰もが思うものだ。だが、プロの世界では、勝敗が極めて重要視される。チームが低迷しているならまだしも、常に上位争いをしている尾張フェニックスでは、力の落ちる投手をあえて勝負所で起用する余裕など、どこにもないのだ。
 そのツケが、今まさに目の前で起こっている出来事として現れた、のか?
 俺は、すかさずブルペンへの連絡電話を取った。

「川村、もう出来てるよな? 出番が早まるかもしれない」

 出来れば避けたい事態だが、最悪川村を回跨ぎさせる必要が出てくるかもしれない。そうならなければいい。リリーフピッチャーにとっての回跨ぎは、はたから見ている以上に消耗が激しいものなのだ。現役時代リリーフ一筋だった俺には、それが痛いほどよく分かるのだ。
 祈るような気持ちで、マウンドの寺澤を見つめる。どうか、ここから立ち直って--あっやられた!
 制球を意識しすぎた『死んだまっすぐ』が、山森のミットに吸い込まれることなく、快音とともにライトスタンドに一直線に飛んで行った。
 ソロホームラン。一点差--。
 今度は、監督の視線が俺に飛んでくる。そこには一つの厳しさもない。いつもどおりの、穏やかな目つきだ。

『どうする?』

 俺は、投手起用に関して、監督から全権委任されている。

「川村で行きましょう、アイツなら抑えてくれるはずです」

 そうか、分かった。そう言って、監督は腰を上げて、主審に投手交代を告げた。俺は新しいボールを持ってマウンドへ向かって歩いて行く。

「お疲れさん。疲れたか?」

 憮然とした表情の寺澤にそう声を掛けると、いえ、とだけ言って、黙りこくってしまう。悔しいだろう。ホームランを打たれて一点差にされたことだけじゃない。八回という『自分の戦場』。それを全う出来なかったことが、何より悔いが残るのだ。リリーフとは、そういうものだ。特に寺澤のようなエース級のリリーフは、そうした意識が人一倍強いだろう。

「また明日以降、頼むぞ」

 寺澤のプライドを傷つけてはいけない。その一点を大事にして、俺は発言した。今日は『たまたま』悪かったが、それが続かないように--と。
 そう、たまたま。そうであってほしい。そうでなければ、また別の手を考えなくてはならないからだ。

【選手の交代をお知らせします。ピッチャー寺澤に代わりまして、川村。九番ピッチャー、川村】

 ウグイス嬢のコールが響くと、球場が歓声に包まれる。それには、安心のニュアンスが強く感じられた。
 川村が出てきたなら安心だ--お客さんもそう思ってる。俺は小さく頷く。現場も同じだよ。
 小走りでマウンドにやってくる川村の表情は、いつもと全く変わらなかった。降板する寺澤と軽くグローブタッチを交わしてから、内野陣と俺が集うマウンドの中心に入ってくる。

「回跨ぎになっちまうけど、頼む」

 川村は無言で頷く。山森の目を見ると、ヤツも『イケます』と言いたげに頷いた。それは、良い時の川村--つまりいつもの--表情だったからだ。
 川村の表情は、本当に唯一無二だ。こんな顔を出来るヤツはこの世に一人としていないだろう。もちろん、勝負の世界で長年勝ち続け、生き残ってきただけあって、気迫は溢れている。だが、その顔色は、蒼白。顔面蒼白。
 これで良いのだ。俺はそれだけ確認して、川村の背中をポンと叩いて、ベンチに駆け戻った。





 試合はそのまま終わった。
 川村は残りの打者四人を完璧に切って取り、今日も安定の川村劇場完遂だった。
 だが--このツケはまた明日に出る。回跨ぎさせた川村は、明日は休養日にしたい。寺澤も本来なら休ませてやりたいのだが……。

「薄氷を踏むような勝ちやったな」

 試合後のロッカーでそう声を掛けてきたのが、長谷部打撃コーチだ。長谷部さんは、現役時代【不死鳥の男】と呼ばれ、二千本安打、そして四百本塁打を達成している尾張フェニックスのレジェンド。生まれも育ちも名古屋で、一度も名古屋から出て暮らしたことがないという生粋の尾張の男。対して、俺は現役時代は中継ぎ一筋で、川村のように圧倒的な成績を残していたわけでもなく、そもそも外様だ。尾張フェニックスでのプレー経験はない。
 そんな背景もあり、俺はどうもこの人には頭が上がらない。選手としての実績は、コーチになれば関係ないと思う人もいるけど、そうじゃない。実績、プロ入りからの年数、年齢……人間はどこまでいっても、序列をつけずにはいられないし、意識することも止められないものなのだ。

「ロースコアゲームですから、難しかったですね……」

「んなことあるかい。八回、寺澤に代えんかったらええだけの話やったわ! 田川がスイスイ行ってたんやから、あと一回引っ張ってたら九回川村で完封リレーでいけとったわ!」

 長谷部さんはこういう人なのだ。愛川監督が俺に投手交代の全権を委任していることが、内心気に食わないのだろう。だから、今日のように継投失敗した日は、言いたい放題だ。
 そもそも、なぜ監督が俺に任せてくれているか? それは、監督は野手出身で投手のことが分からない、という理由からだ。極めてシンプルだろう。『餅は餅屋』が監督の基本理念。社会人野球出身でプロ入りが遅かったにも関わらず、三千本安打まであと一歩まで迫るという歴史上有数の天才バットマンだった愛川監督は、決して揺らがぬ確固たる信念を持つ人なのだった。
 それなのに、長谷部さんは……でも、仕方ないのだ。プロ野球チームとは、即ち異能の集合体。それぞれの性格も、思想も全く違う。同じわけがない。愛川監督のような人もいれば、長谷部さんのような人もいる。それだけのこと。
 そんな世界で、俺も事故を貫き通して、選手として十二年、コーチとして十四年も生き残ってきたのだ。
 言うべきことは言わなければならない。

「お言葉ですが、長谷部さん……田川は球数だけ見ればあと一イニングはいけたと思われるでしょうけど、やはり変化球の曲がりも早くなっていましたから……確かに寺澤の出来は誤算でしたが、交代の判断自体は正しかったと確信してますよ」

「判断の話はしとらん! セオリーの話や! 野球には流れっちゅうモンがあるやろが? せっかく上手くいってるモンをわざわざ変えるから、相手にみすみすチャンスを明け渡すことになるんや!」

 …古いセオリーだ。
『試合の流れ』という目には見えないものを重視する声は多い。年嵩の野球解説者やコーチは特にそういうことを言いがちだ。だが、俺はもっと合理的に野球を捉えている。田川の球は間違いなく悪くなってきていた。だから、実績を重ねてきたセットアッパーの寺澤を投入した。それだけのことだ。
 長谷部さんは色々言っているが、要は古い価値観が捨てられない人なのだ。

『中継ぎは先発失格のヤツがやる仕事』--本音としては、そういう風に思っているんだろう。未だに。正直、笑いを禁じ得ない。
 あなたは、二〇一九年に野球をやっているんだぞ? あなたの過去の実績は、なんの文句もつけようもない、素晴らしいものですよ。でも、今の野球にフィットしているか、一度胸に手を当てて考えてみてもらいたい。そんなこと、言えないけれど。
 一呼吸置いてから、俺は、言い返した。

「…ロースコアの試合が続いて、ブルペンも疲弊してきています。明日は、打線がハデに花火を打ち上げてくれて、ブルペンを休ませてくれるよう祈っていますよ」

 長谷部さんは、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ここのところ、フェニックス打線は低調が続いている。接戦をモノにし続けている、その功績は投手陣にある。よくマスコミが使う褒め言葉として『接戦に強いフェニックス』というのがあるが、それは投手陣への賞賛だろう。大して点の取らない打撃陣には、責任を感じて欲しい。俺は、常々そう思っていた。
 投手起用に文句があるのだったら、俺からもそのくらいは言わせてもらってもバチは当たらんだろう?

「…とりあえず勝てたからいいけどな。川村もようやっとる。明日も勝とうや」

 俺の言葉には何も返さず、長谷部さんはそう言って会話を終わらせて去っていった。
 これが、プロ野球チームだ。多くの歯車の中で、俺もまた回り続けている。

「中山」

 愛川監督が、そう言って俺に分厚い茶封筒を渡してきた。

「明日バッテリー会やれ。これるヤツだけでいいから。なんかうまいもんでも食わせろ」

「はい、ありがとうございます!」

 監督のポケットマネーだ。おそらく、五十万は入っている。
 監督は多くを語らない。だけど、ちゃんと見てくれている。必要なタイミングで、キチンと手を打つ。こういう人だから、皆がついてくるのだ。
 尾張フェニックス。名古屋のプロ野球チーム。外様には厳しいこの『国』で、俺は明日も生きていく。
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