ハルゲルツ

ささゆき細雪

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08. 技術準備室、残されたふたり

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「で。素敵な話って何?」

 夏来が作った撫子の花を、自分の長い髪に絡ませて、彰子は上機嫌だ。
 ニスの匂いが充満している技術準備室で、二人は組み立てておいた家々にペインティングを各自施している。自分の作業に夢中になっていた彰子は、桂輔に話しかけられて鼻歌を止める。

「素敵なこと? あ、朝の話ね」

 ニスを塗る手を止めずに、彰子は話し始める。
 それは、桂輔が聞きたくなかったけど、結局気になって聞いてしまった話。

「君とキスしたい」

 どきっ、と桂輔の胸が高鳴る。が。

「って、あたしが彼に甘えたら、してくれたんだ。はじめてだったんだよ」

 彰子の言葉は続いていた。がっくりと身体を折り曲げる桂輔。

「ユイさん、そんなとこで言葉区切らないでください期待しちゃうから」
「なんでケースケが期待するの」
「いやいまの失言……ってそれよりはじめてだったの?」

 桂輔の失言を無視して、彰子はくすくす笑う。桂輔にとってみれば拷問にも等しい残酷なひととき。
 こくり。彰子が頷く。人差し指を唇に当てて。その仕草がどこか妖艶に見えるのは桂輔の気にしすぎなのだろうか。

「内緒だよ、ケースケ。あたし、この十六年間生存してて今の今までキスの一つも経験してなかった時代遅れの人間なの。実は」

 半年、春継と付き合っているというのに、今まで一度もしたことがなかった? 桂輔はそのことに驚きを隠せない。

「だからね。すごい興奮した。唇ってあったかいんだね、ふわふわのマシュマロみたいなの、ケースケ知ってた?」
「知らない」

 桂輔は無表情になる。気にすることなく彰子が続ける。

「てっきり、手馴れた行為であたしの額にキスしてきたから……経験者だと思ったんだけど」

 とうとうと語る彰子。精一杯耐えている桂輔。彰子が饒舌になるにつれて、死んだ貝のように口を閉ざしていく桂輔。

「俺にはお前しか考えられない、なんて彼が言うんだもの、驚いちゃった。これってノロケだよねー。ん? ケースケ何拗ねてるの?」

 黙りこんでいる桂輔は、春継に対して妬いているというよりも拗ねているように見える。彰子はまぁいいかと思いながら言葉を続ける。

「すれちがいって辛くて苦しいから、やっぱりいつもいつまでも一緒にいられればいいなってあたし思うの。なんで俺たちつきあってんだろ? なんて言われてももう怒らないよあたし、うん。彼のこと信じられるそんな気がするから」

 嬉々とした表情の彰子から、視線をはずす桂輔。
 夏来が以前桂輔に話していた言葉がなぜか脳裡に浮かぶ。

 ……好きだから止められない。

 いつものように「良かったな」って喜んであげればいいんだろう。
 でも、それができそうにない。彰子の言葉が氷柱のように桂輔の心の奥底へ突き刺さっていく。

 傷つけるかもしれない、壊してしまうかもしれない。
 それでも。
 手に入れたいと。奪いたいと。欲しいと。
 ずっと、そう思っていたくせに。
 綺麗事並べて逃げてきたくせに。

 今になって、こんなにもうろたえるなんておかしい。

 暴走しそうだ。怖い。これ以上彼女の前にいたら、自分が何をするのかわからない。
 彰子の言葉に、どう応えればいいんだ?

「ねぇ、ケースケ?」




 俺は。
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