ハルゲルツ

ささゆき細雪

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05. 君とキスしたい

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 青ざめた顔は、最初に見たときよりも回復しているようだ。
 春継は血の気のない彰子の冷たい手をそっと握る。

「きてくれて、ありがと」

 彰子は春継の耳元で弱々しく囁く。

「どういたしまして」

 授業を終えた春継は、彰子の高校へ二日連続で向かうことになった。校門の前で、顔色の悪い彰子と利発そうなショートカットの少女……たぶん、春継に電話をしてきた由海だろう……が立っていた。

「オワダハルツグ」
「迎えにきたぞ」

 恋人同士の会話にしては淡白だなぁと由海は苦笑する。
 もしかしたら照れているのかもしれない、お互い。

「ユーミ、ごめんね」
「ううん。お大事に」

 由海と別れた彰子は、春継が差し出した手をそっと握る。冷たい手だった。

「……あの」

 地下鉄駅のホームで、彰子がそっと声をかける。

「なんだ?」

 ぎこちない笑顔が、春継の表情を飾る。
 俺はまだ、彼女を疑っていたのだろうか。
 疑心暗鬼に陥っている二人、何を話せばいいのか、わからなくなる。

「怒ってる?」
「何を」
「昨日の、こと」

 ――まもなく二番線に各駅停車が参ります黄色い線の内側まで下がってお待ちください。

 電車の到着を告げるアナウンスが、二人の会話を遮る。

「なんのことだよ?」

 思わず、怒鳴るように聞き返す春継。

「あ、た、し、が、ふ、た、ま、た、か、け、て、る、ん、じゃ、な、い、か、っ、て」

 春継の耳元で、彰子は声を出す。
 誤解を解きたいただそれだけのために。

「区切らなくていいから」
「あたしが二股かけてるんじゃないかって君が思い込んでいるとあたしは思ったのですよ」

 電車が滑り込んできた。
 彰子の手を離さずに乗り込む春継。空席に座らせ、彰子の言い分を聞く。

「でもねケースケとはなんもないのほんとだよそれなのに君は勝手にあたしが二股をかけていただのと解釈しちゃうから少々与謝野晶子状態なんです、ええ」

 与謝野晶子状態とは乱れていることを意味するらしい、春継はうんうんと頷く。

「それで?」
「その考えを改めなさい」
「誤解を解けと」
「そのとおり」

 つまり、桂輔に面と向かって謝れと言いたいのだろう。

「ケースケはあたしが友情を再確認している素晴らしき男友達なのだ」

 なぜ友情を再確認しているのか理解できないが、そうなのかと春継は素直に納得する。

「昨日はちょっとしたトラブルがあって彼に頼っていただけです。疚しいことは一つしかしていないのでご安心を」
「してるのかよ!」

 きょとん、とする彰子。自分で先ほどの発言を思い出し、慌てて訂正する。

「あ、さっきの失言。気にしていたら男じゃないよ」
「それジェンダー差別」

 ……疚しいことは一つしかしていないって、一体何をしたんだこいつは?

 そう、春継が思い悩んでいるとも知らずに、彰子は笑顔を見せる。

「よかった。君が来てくれて。なんとなく気持ちが上ずってきた」
「それはよかった」

 俺は逆に下り坂に転がっているような気がすると、春継は苦笑する。
 駅の改札を抜け、地上につながるエレベータに乗り込んだ時、ふらついた彰子の身体をそっと、春継が抱きかかえる。若干潤んだ彰子の瞳。扉が閉まった途端、彰子が口にしたのは。


「君とキスしたい」


 思いがけない言葉で。
 春継の目の前は、真っ白になる――……


   * * *


 黄色くなりはじめた公孫樹の前で、春継と別れた彰子は、右手の人差し指で、そっと自分の唇に、触れる。
 エレベータに乗って、思わず声にした甘えを、春継はどう思ったんだろう。
 君とキスしたい、なんてあたしらしくもない言葉。

 春継の耳元がほんのちょっと、赤く染まっていた気がする。
 もしかしたら自分も頬を赤らめていたかもしれないけれど。
 お互い、そういえばしたことなかったな、って顔見合わせて、それからいざ、しようとしたら。

 エレベータが地上に到着して。
 タイミングがずれた。
 エレベータを待ってたおばあさんの前で、思わずするところだった。危なかった……

 結局、するチャンスを逃して。今日はできないのかなって諦めていた時に。

「俺も、キス、したいな」

 春継が、恥ずかしそうに呟いて。彰子の顎に、手を添えてくれた。
 閑静な住宅街に挟まれた川のほとりで、眩しい夕陽に見せびらかすように。

 最初は、触れるか触れないかわからないくらいの。南天のど飴の味がした。それから、春継の舌が、口腔に侵入してきて、彰子の歯の裏を優しく舐めた。予想もしなかった場所に触れられて、彰子は自分の顔が夕陽以上に火照っているんじゃないかと錯覚した。

 ほんの一瞬が、どうしてこんなにも長く感じられたのだろう。
 キスしている間は息を止めているのだろうか、なんて考えていた彰子だが、そうではないと本能的に気づき、甘い喘ぎ声を漏らした。

 くちびるが、離れて。
 ふらついた彰子の身体を、ぎゅっと抱きしめて、春継がこぼした。


「……駄目だ。俺、もうお前のことしか考えられねえ」


 誰にも渡したくないという春継の独占欲が垣間見えた。
 そして何度も何度も、キスをした。

 瞳を閉じた彰子は、目蓋の裏側でなぜか、桂輔のシニカルな微笑が浮かび上がっていることに、気づいてしまったけれど。

 ……俺はユイさんの味方だから。

 あたしが彼にキスをねだったって知ったら、ケースケはどんな表情を見せる? きっと、喜んでくれる、よね?

 春継と別れた公孫樹の下で、彰子は熱くて濃厚なくちづけを思い出す。
 自分の唇に触れながら。その温もりを、忘れないように。
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