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chapter,4

シューベルトと初恋花嫁の秘密 + 3 +

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 上機嫌で寝室のピアノを弾いているアキフミの流れるような指先を見つめながら、わたしはちょこんと寝台の上に座り込んだまま、今日の出来事を反芻していた。須磨寺音鳴だと思っていた自分が、鏑木音鳴のまま、この地で暮らしつづけていた現実は、事前に紡に言われていたこともあって、思っていたより戸惑うことはなかった。
 それよりも、夫がわたしの新しい本籍地に遺言書を隠した可能性を指摘されたときの方が、驚きは大きかった。

 ――夫の遺言書は、“星月夜のまほろば”三号棟のどこかに隠されている。

 すぐにでも確認したかったが、戸籍謄本に記された本籍地を実際に訪れるのは週明けに持ち越されることになった。折しも今日は金曜日。梅雨はまだ明けていないとはいえ、既にシーズン真っ只中の“星月夜のまほろば”は週末にかけて予約で埋まっている。
 利用者と顔を合わせてまで探す必要はない、遺言書探しを行うなら、週明けの月曜日にゆっくり行えば問題ないだろうというアキフミの判断で、今日は解散となったのだ。

「せっかくヒントが出揃ったのに、この週末に動けないのはもどかしいね……」
「そうか? 俺はなんだかワクワクしてきたぞ」

 ピアノを弾く手を止めることなく、彼は呟く。いま弾いているのはちゃんとしたクラシックではない、彼が独自にアレンジしてアドリブで演奏しているセクシーなオリジナルジャズだ。
 そういえば、今日のアキフミと紡は終始楽しそうにしていた。
 まるで、宝探しをしている子どものよう。

「紡さん残念がってたわよ。遺言書が見つかったら真っ先に内容を教えてあげないと」
「俺は嬉しいよ。ネメとふたりきりで“星月夜のまほろば”の人気スポットに行けるんだから」
「もう」

 アキフミの秘書である立花は軽井沢駅付近のビジネスホテルに一週間ほど滞在予定だという。遺言書の探索にも協力したいと言っていたが、アキフミはわたしとふたりきりで遺言書探しをしたいらしく、渋い顔をしている。
 紡とアキフミの双子の弟たちは、その日のうちに新幹線に乗って東京へ戻って行った。週末も自分たちの会社の仕事が山積みらしい。社長やそれに準ずる立場の人間からすると、忙しいのはいつものことだと言っていたが、そう考えると目の前のアキフミは社長なのに軽井沢で優雅にピアノを弾いていて仕事は大丈夫なのだろうかと不安になってしまう。

「どうした?」
「アキフミは、仕事は大丈夫なの?」
「俺が最優先にしないといけない仕事は、花嫁探しだからいいの」
「なにそれ」
「現に、紫葉グループ全体が俺の花嫁探しでざわついている。俺がこの騒ぎを落ち着かせるためにも花嫁を迎えて周りの人間を納得させる必要があるのはわかるだろ? ……だからこうして毎日ネメを口説いてる」
「……わたしはもう、堕ちてるよ」

 納得させると言っているけれど、アキフミはわたしを花嫁に迎えて周りの人間を黙らせるつもりだ。自分が社長夫人に相応しいのか、という不安はいまもあるけれど、わたしがバツイチではないことを知ったアキフミはこのままわたしとの結婚を本格的に加速させたいのだろう。
 法的な婚姻の場合、死別後の婚姻には基本的に百日の制限がある。夫が亡くなって、もう三ヶ月だ。若いのだからそろそろ新しいひとを探してもいいじゃないと、アキフミに無理矢理身体を求められているのではないかと心配してくれている家政婦さんにこっそり囁かれたこともある。それは誤解ですと、顔を真っ赤にしながら言い返したけど……

「まだだ。もっともっと俺に堕ちろ」
「アキフミ……?」

 ずん、とピアノペダルを踏みつけて、彼は演奏を中断する。
 椅子から立ち上がり、わたしが座っている寝台まで迫ると、両腕でわたしの身体を抱きしめる。

「なんだか俺ばっかりネメを求めてる気がする。手を伸ばせばすぐ傍にいるのに、いつか消えてしまうのではないかと不安になって、必要以上に抱いてしまう」
「消えたりなんか、しないよ。アキフミはわたしに愛してるって、たくさん、たくさん囁いてくれるもの……夫は死ぬまで一度も、わたしに愛してるって、言わなかったもの」
「愛してほしかったのか」
「わからない……あのとき空っぽのわたしを守ってくれた夫が、見返りに身体を求めていたら、たぶんわたしは」
「言わなくていい」
「ンっ」

 事実婚関係で、白い結婚状態にあったわたしは、アキフミに求められたことで、女になった。
 それでも彼は過去のわたしと夫に嫉妬心をめらめらと燃やす。
 わたしの言葉を奪う口づけをして、そのまま寝台へ押し倒したアキフミは、わたしのあたまを撫でながら、やさしく告げる。

「毎日でも愛してるって、言ってやる。お前を、ネメを愛してるって」
「……アキフミ」
「俺にはお前しかいないんだ。今に見てろ、誰からも祝福される花嫁にしてやるから」
「うん」
「両親にも会社の人間にも、俺が愛するネメを、見せびらかしてやるんだからな」
「うん」
「ネメ。愛してる」

 深い口づけに酔わされながら、わたしは彼の手で生まれたての姿になる。
 アキフミの言葉に、涙腺が決壊する。
 そのまま今夜も、彼に心と身体をまるごと愛されて、わたしはまた彼と恋に堕ちる。

「アキフミ。わたしも……!」

 遺言書を無事に見つけ出し、相続の手続きを終わらせたときこそ、わたしは彼が希う未来を叶えられるはず。
 だからそれまで、わたしをはなさないで、どうかこのまま、わたしを求めつづけて――……
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