31 / 56
chapter,3
シューベルトと夏の宝探し + 4 +
しおりを挟む夫の死から二ヶ月が経過した、六月の下旬。梅雨入りしてから連日のように降りつづく雨のなか、アキフミは東京の親会社から招集を受け、十日ほど前から屋敷を留守にしている。
わたしは応接間のピアノでショパンの「雨だれ」を弾いた。音楽が終わったところで、応接間のソファでコーヒーを飲んでいた紡が拍手をしながら懐かしそうに呟く。
「喜一さんは俺の親父とバンドを組んだことがあるんですよ。ピアノとベースとあとひとり、クラシックギターがいて。よく、この屋敷でクラシックをベースにしたジャズを奏でてました」
「紡さんも?」
「そのときの俺はまだ小学校にあがる前の子どもですよ。そういえば喜一さんの最初の奥さん……峰子さんにかわいがってもらいましたね」
「わたしと峰子さんって似てますか?」
「どうだろう? ピアノを弾いている姿が似ている、っていえば似ているかもしれないけれど、俺はそこまでそっくりだとも思わないな」
「夫はわたしをねね子って呼んで、亡き奥様の面影を求めていました」
「それは……悲しかったね」
自分よりも切なそうに眉をひそめて、紡がため息をつく。
アキフミが留守にしていると知って、後日出直しますよと言った彼を引き止めたのはわたしだ。
彼が知っている亡き夫のことや、バンドをしていた頃のアキフミの話をききたかったから。
「仕方がないですよ。そうでもしないときっと、わたしは孤独死していたと思うんです」
「それは……君が鏑木音鳴って名前でピアニストをしていたことと関係があるのかな」
紡のぶれない視線に、わたしは素直に頷く。
彼はわたしが元ピアニスト鏑木音鳴だってことを知っていながら、この一ヶ月、何もきいてこなかった。傍にアキフミがいたから、核心に迫れなかっただけかもしれないけれど。
「はい。わたしは父の形見のピアノを守るために、夫がいた軽井沢に隠居することにしました」
「隠居って、君まだ二十六歳だよね? 何人生悟っちゃってるの」
「悟っているわけじゃないです。いまの暮らしに満足していただけです」
夫と暮らした三年間を思い出して、わたしは微笑う。
穏やかに四季を過ごし、気ままにピアノを弾いて、心の傷を癒やした日々。
ただひたすらやさしかったぬるま湯のような日々。
「満足していた、ね。いまは違うんだ」
「……そりゃあ、アキフミや紡さんが乗り込んできましたから」
「レイヴンくんが鏑木音鳴の熱狂的なファンだったってのは俺も知ってるよ。異国のパトロンに拾われたって噂にショックを受けて一時期かなり荒れていたんだよ」
「そうなのですか」
アキフミが、わたしの熱狂的なファンだった? そんなこと、ぜんぜん態度にも出さなかったくせに。
驚くわたしに、紡が悪戯っぽくつづける。
「俺はシューベルトになるんだ、ってのが学生時代の彼の口癖でね。なにがシューベルトなのかは教えてくれなかったけれど……もしかして君は知っているのかな?」
「シューベルト……」
紡はわたしとアキフミが高校時代に恋人同士だったことを知らない。
だけどシューベルトの妻になると口にしたわたしを信じて、彼はシューベルトになると周りの人間にはなしていたのかもしれない。
黙り込むわたしを見て、紡はするりと話題を変える。このひとはやさしい。言いたくないことを無理に言わせることはけしてしない、とても柔らかいひとだ。
「レイヴンくんも面白い子だよね。喜一さんが亡くなってから一緒に暮らしているネメちゃんも、そう思うだろう?」
「あ、はい」
彼は紫葉リゾートのやり方にはいい顔をしていないが、アキフミ自体には悪意を持っていないのだな、ということがこの一ヶ月でなんとなく理解できるようになった。彼がわたしを強く求めていることに疑問を感じているところもあるみたいだけど……
「実はね。マスコミから見捨てられた悲劇のピアニストが喜一さんの後妻になったっていうから、どんな性悪女かと思ったんだ。アキフミまで彼の死の翌日からこの屋敷に住みついているし」
「……性悪女って」
「ごめんごめん。訂正するよ。実際の君はとても慎ましやかで素敵な女性だ」
「褒めても結婚しませんよ」
「レイヴンくんがこの場にいたら喜びそうなことを言うね」
「そうですか?」
別にアキフミと結婚すると言ったわけでもないのに、なぜ紡は嬉しそうな顔をしているのだろう。わたしが首を傾げると、彼はふいに表情を曇らせて、淋しそうに呟く。
「レイヴンくんが君にご執心なのは痛いほどわかったんだけど、ネメちゃんは何を恐れているの? この先結婚しないで亡き夫の土地とピアノを守るのに余生を過ごすの? たったひとりで?」
「……それは」
「別荘管理の仕事を添田たちと喜一さんがいた頃のように行うことは可能だろうよ。だけどそんなの淋しすぎるよ。俺、もっとネメちゃんのピアノ聴きたいもの。きっとレイヴンくんも」
「言わないで」
「心の整理がついてない? それでも遺言書を探し出さないと、君は喜一さんの隠している真相に気づけないままだよ」
「真相って……紡さんは、遺言書に何が書かれているのか、ご存知なのですか?」
「知らないよ。だけど想像はつく……むしろ君とふたりではなしができて良かったと思う」
「どういうこと?」
「レイヴンくんには、しばらく隠しておいた方がいい。いまの時点では可能性にすぎないから。けれど、この仮説が事実なら、君が悲観する必要はないんだよ」
「え」
紡はきょとんとするわたしに、心配しないで、と笑いかける。
「まずは被相続人の戸籍だけでなく相続人の戸籍も調べたほうがいい」
「戸籍?」
「君の本名はほんとうに須磨寺音鳴なのかな?」
「――それって……!?」
すべてを失ったわたしを軽井沢に匿い、自分が死ぬまで傍に置いていてくれたひと。
やさしくはしてくれたけれど、最後まで愛しているとは言ってくれなかったひと。
教会でウェディングドレス姿の写真を撮影したけれど、式は執り行わなかったこと。
婚姻届にサインを求められて署名したのに、死の直前に「どうして拒まなかった」と呆れられたこと。
祖父と孫ほどの年齢差がある白い結婚をしたわたしたちの関係は、一部の人間を除いて最後まで秘密にされていたこと。
……紡はわたしのはなしを総括して、ひとつの可能性を口にした。
「たぶん君は、バツイチじゃない」
0
お気に入りに追加
51
あなたにおすすめの小説
【R18】音のない夜に
春宮ともみ
恋愛
ショッピングモール内のベーカリーで働く杏香はある日、モールに設置してあるストリートピアノの演奏の場に遭遇する。突発性難聴により音楽の道を諦めた杏香の心を一瞬にして掴んだ演者は、どうやら動画投稿サイトに演奏の様子をアップロードしているらしい。不定期にアップロードされる彼の演奏を密かに心の癒しとしている杏香だったが、ハロウィーンの日の催事中、ひょんな事で彼に助けられ――?
***
【(ナイトランタン様)AllNight HALLOWEEN 2021】参加作品です。
◇サブテーマ:魔女/マスク/ショッピングモール◇
***
◎全4話
◎作中に出てくる企業名、施設・地域名、登場人物が持つ知識等は創作上のフィクションです
※既存作品「【R18】窓辺に揺れる」のヒロインが一瞬登場しますが、こちら単体のみでもお楽しみいただけます
※作者が読みたいだけの性癖を詰め込んだ三人称一元視点習作です
※表紙はpixabay様よりお借りし、SS表紙メーカー様にて加工しております
お前を必ず落として見せる~俺様御曹司の執着愛
ラヴ KAZU
恋愛
まどかは同棲中の彼の浮気現場を目撃し、雨の中社長である龍斗にマンションへ誘われる。女の魅力を「試してみるか」そう言われて一夜を共にする。龍斗に頼らない妊娠したまどかに対して、契約結婚を申し出る。ある日龍斗に思いを寄せる義妹真凜は、まどかの存在を疎ましく思い、階段から突き落とす。流産と怪我で入院を余儀なくされたまどかは龍斗の側にはいられないと姿を消す。そこへ元彼の新が見違えた姿で現れる。果たして……
鬼上司の執着愛にとろけそうです
六楓(Clarice)
恋愛
旧題:純情ラブパニック
失恋した結衣が一晩過ごした相手は、怖い怖い直属の上司――そこから始まる、らぶえっちな4人のストーリー。
◆◇◆◇◆
営業部所属、三谷結衣(みたに ゆい)。
このたび25歳になりました。
入社時からずっと片思いしてた先輩の
今澤瑞樹(いまさわ みずき)27歳と
同期の秋本沙梨(あきもと さり)が
付き合い始めたことを知って、失恋…。
元気のない結衣を飲みにつれてってくれたのは、
見た目だけは素晴らしく素敵な、鬼のように怖い直属の上司。
湊蒼佑(みなと そうすけ)マネージャー、32歳。
目が覚めると、私も、上司も、ハダカ。
「マジかよ。記憶ねぇの?」
「私も、ここまで記憶を失ったのは初めてで……」
「ちょ、寒い。布団入れて」
「あ、ハイ……――――あっ、いやっ……」
布団を開けて迎えると、湊さんは私の胸に唇を近づけた――。
※予告なしのR18表現があります。ご了承下さい。
【R18・完結】蜜溺愛婚 ~冷徹御曹司は努力家妻を溺愛せずにはいられない〜
花室 芽苳
恋愛
契約結婚しませんか?貴方は確かにそう言ったのに。気付けば貴方の冷たい瞳に炎が宿ってー?ねえ、これは大人の恋なんですか?
どこにいても誰といても冷静沈着。
二階堂 柚瑠木《にかいどう ゆるぎ》は二階堂財閥の御曹司
そんな彼が契約結婚の相手として選んだのは
十条コーポレーションのお嬢様
十条 月菜《じゅうじょう つきな》
真面目で努力家の月菜は、そんな柚瑠木の申し出を受ける。
「契約結婚でも、私は柚瑠木さんの妻として頑張ります!」
「余計な事はしなくていい、貴女はお飾りの妻に過ぎないんですから」
しかし、挫けず頑張る月菜の姿に柚瑠木は徐々に心を動かされて――――?
冷徹御曹司 二階堂 柚瑠木 185㎝ 33歳
努力家妻 十条 月菜 150㎝ 24歳
新米社長の蕩けるような愛~もう貴方しか見えない~
一ノ瀬 彩音
恋愛
地方都市にある小さな印刷会社。
そこで働く入社三年目の谷垣咲良はある日、社長に呼び出される。
そこには、まだ二十代前半の若々しい社長の姿があって……。
※この物語はフィクションです。
R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。
【完結*R-18】あいたいひと。
瑛瑠
恋愛
あのひとの声がすると、ドキドキして、
あのひとの足音、わかるようになって
あのひとが来ると、嬉しかった。
すごく好きだった。
でも。なにもできなかった。
あの頃、好きで好きでたまらなかった、ひと。
突然届いた招待状。
10年ぶりの再会。
握りしめたぐしゃぐしゃのレシート。
青いネクタイ。
もう、あの時のような後悔はしたくない。
また会いたい。
それを望むことを許してもらえなくても。
ーーーーー
R-18に ※マークつけてますのでご注意ください。
一夜限りのお相手は
栗原さとみ
恋愛
私は大学3年の倉持ひより。サークルにも属さず、いたって地味にキャンパスライフを送っている。大学の図書館で一人読書をしたり、好きな写真のスタジオでバイトをして過ごす毎日だ。ある日、アニメサークルに入っている友達の亜美に頼みごとを懇願されて、私はそれを引き受けてしまう。その事がきっかけで思いがけない人と思わぬ展開に……。『その人』は、私が尊敬する写真家で憧れの人だった。R5.1月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる