春暁に紅緋の華散る ~はるあかつきにくれなひのはなちる~

ささゆき細雪

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「いま、逃げたいと思いましたか?」
「いいえ。いいえ」

 慈雨のように沁み渡る彼の言葉に、唯子は自分に言い聞かせるように何度も首を振る。

「怖くはないのですか」

 いやいやをするように首を振る唯子は、彼の言葉に再び首を振って応える。

「怖いのは、わたしの方、じゃないですか?」
「なにを」
「わたしは鎌倉を滅ぼす神託を受けた払暁の娘。あなたにとって、許し難い存在、で……」

 意を決して口にしたのは、自分を受け入れるなとの拒絶。けれど唯子のか細い声は、彼のおおきな手のひらに塞がれてしまう。

「――言う必要は、ない」

 さきほどまでの穏やかな言動とは裏腹に、厳しい声音が唯子を律する。

「あれは、我が一族に捧げられし神の託宣。あなたが気に病む必要はどこにもないんだ」
「鎌倉どの……」
「実朝と呼べ」

 唯子の言葉を遮るように、実朝は命じる。それはいかにも命令することに慣れた、権力者だけが持つ威厳に満ちた声。

「実朝、さま」
「うん」

 言い直すと、満足そうに実朝は唯子の口を閉ざさせた手をはなし、その手で彼女の髪をそっと撫でる。

「たとえ周囲が騒ぎたてても」

 苦しむことはないのだと、優しく諭す。

 けれど、唯子が三浦一族の血縁に連なる姫だと信じているから、彼はそう口にしたのだろう。三浦唯子は鎌倉を滅ぼす娘ではない、と。
 女物の衣被きで雨を避けながら語る実朝の横顔を見て、唯子はいまにも泣きたくなる。

「でも」

 手を出せば触れられる距離から逃げるように、唯子は反論する。

 ――わたしはあなたを欺いている。

 たとえ傀儡と軽んじられているとはいえ、彼はこの鎌倉の頂点を極める三代将軍だ。

「不安なのはわかります。ぼくだって常に不安で怯えているんですから」
「実朝さまも?」
「ぼくはしょせん、お飾りの将軍でしかありません。とはいえ、すべてを北条氏に任せることもしたくないんです」

 秘密ですよ、と微笑んで実朝は告げる。
 悪戯をほのめかすような彼の仕草に、唯子も思わずくすりと笑い、首を振る。

「だけどそのせいで、いつも死と隣り合わせ。いつか自分も兄上のように惨く殺され、闇に葬られるんじゃないかって不安で怯えるわけです」

 口にしていることは物騒だが、実朝の口調は楽しそうだ。唯子は困ったような表情で実朝を見上げる。そんな唯子を更に困らせるように、実朝はおどけた声で、言葉を紡ぐ。
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