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序
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しおりを挟むずっとこのままでいられればいいと思っていた。けれど、彼が鎌倉に帰ってきてしまった。
夏の暮れ、揺らめく陽炎を背に立つ乳兄の姿は近江へ発った十二歳の時と比べてずいぶんとおおきく見える。
積もる話もあるだろうと気を利かせてくれた父を恨めしく思いながら、唯子は彼とふたりきりで砂浜を歩いている。煩わしい潮風に長い髪や赤らむ頬をなぶられながら、黙って彼の言葉を聞き逃すまいと耳を傾ける。けれど互いに緊張しているからか、彼は屋敷を出てからヒトコトも口にしない。
ふだんなら足元を濡らしそうなまでに迫っている白い波も、満潮を過ぎたからか奥へと引っ込んでしまった。やかましい蝉の声と潮騒だけが、さっきから唯子の内耳をくすぐっている。
――このまま、何も語られないのなら、それでも構わない。
むしろ、その方が唯子にとっては都合がいい。けれど、それは神を欺きつづけることに繋がる。彼だって、わかっているから父に促されて唯子とふたりきりになることを選んだはずだ。
悶々と悩む唯子に気づいたのか、浜木綿の白い花が咲く一角に差し掛かったとき、おもむろに彼が口をひらいた。
「ただいま」
その声に胸が疼くのはなぜだろう。自分と同じくらい甲高いと思っていた声も、いつのまにか低くなっていて、まるで知らないひとのように思えてしまう。
けれど、愛嬌あるまるい瞳や女子のように白い肌は五年前と変わっていない。それに。
「唯子……いや」
その名を呼ぶのは、彼だけだ。
「暁姫」
小声で囁かれ、唯子は首を横に振る。
「だめよ、善哉」
「唯子こそ。その幼名に意味はない。おれだってあれから元服してちゃんとした名を授かったんだ……いまはその名を公にすることができないが」
ぽつり、と淋しそうに付け加えられ、唯子はいたたまれない気持ちになる。
「ごめんなさい」
「おまえのせいじゃない……でも」
気まずそうな表情を浮かべる彼に唯子は戸惑いを隠せない。
「これから先、おれとふたりでいられるあいだは、真実の名を呼び合いたい……駄目か?」
唯子は瞳を見開き、背が伸びた彼を見上げる。この、嘘で塗り固められた世界を、彼は自分で壊そうとしている。驚いて、唯子は首を振ることすら叶わない。
「……そうか」
それを拒絶ととったのか、彼は唯子から視線をそらし、俯いてしまう。
「ちがう……わたしは」
「――そうだよな。おれが源公暁でおまえが三浦唯子。それですべてはまるくおさまるんだ。いまさらほんとうの名前を呼ぶことの方が、恐ろしいよな」
どこか諦めたような口調で、公暁は嗤う。傷つけてしまったと感じた唯子は、慌てて言葉を紡ごうとして、砂浜に足を取られてしまう。
「わ……きゃ」
無様に転んで砂だらけになった唯子の身体をひょいと抱き上げ、公暁は泣きそうな表情の唯子にやさしく囁く。
いつの間に、彼はこんなにもおおきくなったのだろう。むかしは唯子の方が背が高かったはずなのに。自分の方が力持ちで、こんな風に、抱きかかえられることなんか、なかったのに。
「なんてな……冗談だよ、暁」
茶化したような声が、唯子の沈んでいた気持ちをふわりと浮き上がらせる。その名はもう、葬ったというのに、耳元で呼ばれると、つい身体が震えてしまう。
観念した唯子は、彼に抱かれたまま、渋々、彼のほんとうの名を唇に乗せる。
「おかえりなさい――義唯」
ねっとりとした海風が、唯子と公暁の身体にまとわりつく。まるで、ふたりだけの秘密を包み込むように……
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