Springs -ハルタチ-

ささゆき細雪

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chapter,8 (2)

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 東の空に朱色が走る。薄くなってきた藍色の緞帳を塗りつぶすように、黄金色の太陽が一日のはじまりを合図する。
 朝五時。眠っていた平井を起こさせたのはバタン、という開閉音。

「ん?」

 寝ぼけた顔で、起き上がった平井は、隣で肩に寄りかかったままむにゃむにゃ言っている上城を押しのけ、空になっている運転席を見つめる。

「小松?」
「あ、先輩おはようございます!」

 一晩中運転をしていたというのに小松は疲れた様子も見せず、笑顔だ。

「どうした? 外に何かあったか?」
「車です」

 小松が指さした場所は、廃車場のようだ。そこに、真新しい白い車が場違いのように置かれている……鈴代賢季が盗んでいった小松の車だ。どうやら賢季が乗り捨てていったらしい。

「ここからは山道か」
「車で行くのは無理でしょう」

 深い緑色の木々が坂道に沿うように植えられている。アスファルトで舗装された道はここで途切れている。突然途切れたアスファルトの道を見て、平井は苦吟する。

「……人が行き来した跡はあるな」

 柔らかい泥の上に、スニーカーの跡がくっきり残っている。賢季の靴にしては小さいようにも思えるが、まだ新しい足跡が山道に残っていることが、平井たちを安心させる。

「賢季が乗り捨てた車がそこにあるんだ。ここから先は歩いて行ったと考えていいだろう。とりあえず、上城くんを起こそう。この先は車で行けないからな」

 そう言いながら、平井が上城の身体を揺する。だが、上城はむにゃむにゃ意味不明な言語を呟くだけで、起きる気配がない。

「おい、起きろ」

 平井のドスのきいた声が車内に響く。だが上城はすぅすう寝息を立てつづけている。小松が呆れたように口を出す。

「よく寝てますね。置いていきますか?」
「いや、そういうわけにもいかないだろ……彼がいないと本当にこの道でいいのかわからないわけだし」
「ですが、一本道ですよ。目が覚めたら追いかけてくるんじゃないですか?」
「まぁ、それもそうなんだよな」

 いくら揺すっても声を荒げても目を覚まそうとしない上城に辟易した平井は、仕方なく手帳を破り、『先に行く』とだけボールペンで書いて、上城の横に置く。

「先にゆっくり行くか」
「そうですね」

 平井はぐっすり眠りつづける上城を車に残し、小松と山道へ足を踏み込む。


   * * *


「どうして今になって、そのようなことを?」

 日の出の見える場所を教えに眠っている雪片を抱っこして雪奈が外へ出る。それを追いかけていく豊。彼女たちを見送る賢季と翠子。
 弓弦を鳴らす音もなくなり、しんと静まりかえった場所で、翠子が呟く。

「小堂さんと、緑子が殺されたという話を、はいそうですかと素直に受け入れることはできないわ。だから、改めて訊くわ」

 どうして十五年も経過した今になって。

「わかっているのでしょう?」

 びくり、翠子の身体が揺らぐ。年齢の離れた青年に両腕を絡めとめられていた。
 微笑を残したまま、翠子を見つめる灰色の瞳。

「さかきちゃん、やめなさい」

 弱々しい翠子の反論も、賢季には通用しない。「やめませんよ」と、彼女の身体を締め上げていく。

「本当のことを、おっしゃらない限りは」

 優しい口調で、翠子を諭す。秘密を隠したままここまで逃げた裏切り者を、もともと許すつもりはなかった。この手で陵辱してそのまま絞め殺したいくらいの激情が、自分に残っていることを知っているから、賢季は自分の顔を見られないよう、翠子に問う。

「貴女を聖母だと思っていた僕はもう、いないんです。貴女が近淡海の家を離縁された真意を理解していなかった幼き日の僕は、貴女を被害者だと思っていたんです……ですが、違いますよね」

 十五年前の記憶ほど曖昧なものはない。当時幼稚園に入ったばかりの賢季が、叔母の心中未遂を目撃したわけでもない。だからすべてそのときのことは人づてだった。
 人づてだから、本当のことを知らずにいた。

「貴女は、僕に嘘をついた」

 優しく残酷なことを教えてくれた翠子。彼女が事実を捏造していたことなど、賢季にはわからない。わからなかった。
 だから、突然彼女が屋敷からいなくなった時の衝撃も大きい。彼女は悪くないと思っていたから。
 それが翻されたのはいつだっただろう。泉観が、人殺しの魔女という名のレッテルを貼られた頃だろうか。それとも伯父の夕起久が殺されかけた時か? それとも小堂が、緑子が、殺された時?
 一つの可能性に、突き当たった賢季は、問い詰めるために翠子に会いに行った。

「これ以上、泉観を苦しめないでください」

 泉観、という名前が口から零れたのを耳にした翠子が、顔を歪ませる。

「いずみちゃんが、疑われているの?」
「いえ。僕ですよ」

 人殺しの魔女を凌ぐ冬将軍として、疑われている男は。目の前で翠子を絡め取っている自分だと、淋しげに囁く。

「さかきちゃんも、不器用ね」
「貴女ほどではないでしょう?」

 締め付けられていた身体が、緩む。緊張を解かれた翠子は、くたっと賢季の胸元へ崩れ落ちる。

「……私が生んだ忌まわしき血縁の子は、死んだのよ。神罰によって。それでいいじゃない」
「だから、貴女は神に仕えているのですか?」
「いえ。偽善者だからよ」

 そう言って、笑う。
 だけど。

「救われようなんて、今更考えてもいないの。ただ」

 賢季は黙って、翠子の心の奥底に潜んでいた真実を、読み取ろうと。

「あのとき、私がしたことは、きっと許されざることではないけど、生まれてしまったあの子に罪はないのだから」

 それが、何を示しているのか、賢季には理解できない……いや、理解したくないことだったから。

「貴女は、父と」
「さかきちゃんには、妹がいたの」

 想像した通りの答を、潔く発した翠子。想像したくなかった答が、真実だと知った賢季。
 自分の初恋の相手が、父と関係を持って、子どもを産んだ……異母兄妹……そして、錯乱した紗枝が、その、子どもを殺めた……自分の娘、泉観と間違えて?
 一人っ子だとずっと思っていた賢季。衝撃を受けて無言になった彼を、翠子は冷めた瞳で見つめる。彼女の人差し指の爪が、膝元を滑らせていることに気づかずに。
 彼は軽蔑するだろう。自分が今まで隠していたことを、彼は無心になって追いかけていたから。そうでないように願っていたのに、翠子の呆気ない肯定で、自分の考えていたことが事実であることを信じたくないのだろう。それを嘘だと否定する気力もないようだから。
 塗り重ねた嘘を、彼は破れないだろう。
 翠子の淋しそうな笑みを、賢季は気づかない。気づけないでいてと、願ったことすら。
 抜け殻のようになってしまった賢季には、何も感じられない。今はまだ。
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