Springs -ハルタチ-

ささゆき細雪

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「そうだ。殺された近淡海緑子の一回り年上の姉で、現在三十八歳。どうやら羽村翠子と名乗っているらしい」
「結婚なさっていたんですか?」
「いや、結婚はしていない。今も昔も」

 上城は両親に友人の家に泊まるとでも言ったらしく、賢季の後を追うことにした平井たちについていくとちゃっかり小松の運転するパトカーの後部座席に居座っている。その隣でつい先ほど調べ上げた翠子に関する情報を伝える平井。

「でも、スズシロの乳母だったんですよね」
「シングルマザーさ」

 だから近淡海姓のまま、鈴代邸にいたのか。上城は頷き、平井の言葉の続きを待つ。

「で、近淡海家から離縁された彼女は今、羽村家で世話になっているらしい」
「もしかして、小堂さんと関係があるんですか?」
「いや。そこまでの繋がりはなさそうだ。大利根雪奈って大学時代の同級生……要するに旧姓羽村雪奈だ……の元に身を寄せているだけみたいだからな」
「はぁ」

 興味なさそうに上城が首を振るのを見て、疲れているのか眠いんだろうなと平井は苦笑する。

「着くのは明け方だろう。今のうちに少し休んだ方がいいんじゃないか?」

 車はまだ、中央自動車道に入ったばかりだ。目的地は遠い。

「そうですね」

 平井からの提案を受け入れた上城は、目蓋を閉じて、やがて何も言わなくなる。

「……疲れていたんでしょうね」

 運転席で、二人のやりとりを聞いていた小松が、ぼそりと呟く。横目で眠り込んでしまった上城を見て、平井は苦笑する。

「だろうな」
「それにしても、面白い子ですね。一人で呪いを解くんだ、なんて」

 賢季に車を盗まれたことを責められ、渋々運転手役を仰せつかることになった小松だが、平井と上城の真剣なやりとりを聞いているうちに、自分も負けてはいられないと闘争心を煽られたようだ。

「何が言いたい」

 平井に問われ、あくまで推測ですけど、と小松は囁く。

「賢季よりも、翠子の方が怪しいと思いますよ」
「それは、どういうことだ」

 低い声で、念のため、上城に聞かれないよう声を抑えた平井に、小松が微笑を浮かべる。

「鈴代紗枝の心中未遂事件で我が子を失った被害者であるはずの彼女が、なぜ一族から離縁させられたのか……彼女が、離縁させられるだけの罪を犯しているんではないでしょうか?」
「離縁させられるだけの罪?」
「あ、でも警察沙汰になるほどのことではないと思うんですけど……殺された翠子の娘の父親が同族の人間だった、とか」
「滅多なことを言うな」
「例えばですよ例えばです」

 思いがけないことを言われて、平井は戸惑う。だが、閉ざされた財閥間の親族関係を揺るがす事情として、近親相姦は考えられる要因の一つではある。だが、だからといってその線だけで翠子を調べるのは抵抗がある。
 今、ここで起こっている殺人事件に、翠子は関係していないだろう。今更、過去、彼女に何があったのかを強制的に調べる必要はない。
 まさか自分が賢季と同じことを考えているとは思っていない平井は、賢季が今、どこで何をしているのか黙って考え込むうちに、ゆるやかな睡魔に襲われる。


   * * *


 稚児装束、とでも呼べばいいのだろうか。白い古風な衣服を纏った小柄な男の子が、豊を見てにこっと微笑む。

「妖精さん、ようこそ」

 障子の向こうにいたのは、小学生になるかならないかくらいの男の子と、その母親らしき女性と。

「……さかきちゃん?」

 甘い花の香りが漂う祭壇の前で、賢季を見つめる美しき男装の女性。長かった黒髪は、耳元まで切り揃えられ、麗しい洋装は純白の和装へ。聖母というよりも神官のような彼女の姿に、賢季は唖然とする。

「みどりこ……さん」

 そこだけ、時間が止まったかのような錯覚に、陥る。

「こら雪片ゆきひら、お姉さんを困らせるんじゃありません」
「でも妖精さんが」

 豊は賢季が翠子と見つめ合っていることも確かめられずに雪片と呼ばれた男の子に引き止められてしまう。
 ……妖精?

「妖精さんがどうしたの?」
「お姉ちゃん、背中に翼、隠してる」

 妖精になって空を駆けるの……なぜか、脳裡に鮮やかに再生される円の最期の言葉。自分が実際に耳にしたわけでもないのに、なぜこんなにも鮮やかに?
 突然掘り返された記憶の渦。何が本当で何が嘘か。何を忘れていて何が思い違いか。
 賢季の言葉。忘れているのは自分の方。人殺しの魔女。妖精になりたかった円。早春の沈丁花。甘い香り漂う葬儀……あ、この神殿に漂う香りと同じだ。今になって、走馬灯のようにぐるぐるめぐる、そのときの、記憶。

 ……返して! ―――を返して!
 違った。あたしが返して欲しかったのは妹の円じゃなかった。あたしが本当にあの葬儀の夜返してと訴えたのは……

 困惑の表情を浮かべ、黙り込む豊を見て、雪片の母親が申し訳なさそうに口を開く。

「ごめんなさいね、雪片は感受性が鋭いから、時々見えないモノを見てしまうのよ」

 彼女は大利根雪奈と名乗った。だけど、豊は彼女の名前を受け止める余裕すらなくなっていた。
 雪片が、罪のない声を添えて微笑む。

「お姉ちゃん。忘れ物、なぁい?」

 残酷な記憶の切片を、その手で掴めと、小さなてのひらを開く雪片。

「忘れ物……」

 忘却の彼方に置いていた、自分が知りたくなかった本当のこと。自分が知りたかった本当のこと。
 雪片のてのひらの上には何も乗っていないのに。雪片は何も知らない無邪気な子どもなのに。怖かった。彼にすべてを見透かされているようで。
 事実、豊は思い出していた。妹の円が死んで、葬式をした時に焚いた線香の香りと、今、ここで焚かれている香の、甘い花の香りが同じだったから。
 円の葬儀以来、嗅いでいなかった香りが、この場で焚かれていた偶然が引き起こした、それだけのこと。なのに、記憶が舞い戻った豊は、その真実に愕然とする。

 ……匂いって凄い。

 人殺しの魔女は、記憶の改ざんを知らないうちにしていたのだろう。だが、嗅覚だけはごまかせない。記憶を呼び戻すには、その時の状況を作って浄化すればいいのだから。
 生きていた頃の円の悪戯っぽい笑みや、鈴代泉観へ向けて叫んだ恨み言、それを受け入れてくれた鈴代泉観を犯人だと思い込んでいた自分……どうして彼女を疑ったのか。
 最初に彼女を人殺しの魔女だと嘲ったのは誰か。豊ではなかった。でも、とっても身近にいた人だった。

 ……嘘よ。

 鼻孔を震わせた甘い香りにむせそうになりながら、豊は首を横に振る。

「そん、な、こ……じ、ない」

 混濁する意識。朦朧とする記憶が曖昧だった過去の霞みを難なく拭い去っていく。

「さ」

 翠子だけを見つめている賢季に訴えたくて。声を荒げたはずなのに。
 嘘よ。円が、鈴代泉観を人殺しの魔女って苛めていたなんて……!
 豊はその場で、気が遠くなるのを感じる。
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