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chapter,6 (5)

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 夜九時。

「春咲、電話。女の子」
「あはいいますぐいきますいますぐ!」

 ばたばたと階段を駆け下りる音が受話器越しに聞こえた。鈴代はそんなに慌てなくても逃げないのにと思いつつ、母親から受話器をひったくったのであろう上城に声をかける。

「カミジョ?」
「……誰か死んだのか?」

 母親がキッチンに戻ったのを確認して、上城は鈴代に尋ねる。彼女が自分に連絡してきた意図を知るために。

「残念ながら正解。緑子さんよ」
「だ、誰?」

 聞きなれない名前だと、上城が聞き返す。

「近淡海さん。カミジョも小堂が殺されたときに見たでしょ?」
「あぁ……近淡海、ね」

 その独特の苗字は、忘れていなかったらしい。鈴代から緑子の死体が発見された経緯と、それにまつわる出来事を聞いた上城は、うんうんと頷いて、やがて一つの結論を出す。

「賢季さんが疑われるのは仕方ないよ。でも、彼なら自力でどうにかするんじゃないかな」
「でも……」

 頼りになる従兄が疑われているのにおとなしくしていらないと鈴代は上城に助けを求めるように、声を荒げる。

「重要参考人として素直に応じていたのに、突然姿を消して現場から逃亡しちゃったのよ! これじゃあ自分が怪しい人間ですって公言しているようなものじゃない! それでも放っておいていいの?」

 鈴代のぷりぷり怒った声に、上城は事実を確認するように、ゆっくりと言葉を発する。

「……え、逃げたの?」

 まさかあの賢季さんが? 刑事とも対等に会話していた彼が? どうして?
 沈黙を驚きと解釈したのか、鈴代が困ったように溜め息を吐き出す。

「それもあったから電話したの。お兄様が一体何を考えて警察を敵に回すようなことをしたのか、わたしにはまったくもってわからないから」
「確かに」

 警察から逃げ出すよりも、傍にいて情報を利用する方が彼らしいと、上城も頷く。
 それなのに賢季は、警察署から逃亡し、他人の車を盗んでどこかへ行ってしまったという。一体なぜ? どこへ向かった?
 上城が考え込んでいるのを電話越しに感じた鈴代は、少しでも彼に情報を与えようと、房江から聞いた過去の話を、語りだす。
 紗枝が包丁で胸を刺した一歳二ヶ月の娘の正体。それは。

「乳母の、娘?」
「わたし、すっかり忘れていたの。わたしは、事件が起こるまで、彼女に育てられていたってことに」

 彼女というのが、鈴代の乳母を指しているのだろう。上城は首を傾げる。

「じゃあ、その女の子は?」
「助からなかったみたい。事件の直後に彼女は解雇されたの。一族からも見放されて、今は天涯孤独でどこにいるのかもわからない。とても綺麗な人で、性格も聖母みたいにおやさしい方だったって、房江さんが言ってたけど」

 紗枝が自分のことを人殺しの魔女だと罵るのは、自分に前科があるからだったのかもしれない。

「そうなんだ……」

 深く考え込んでいるであろう上城に、鈴代は続ける。聖母と称された乳母の名前を。

「彼女の名前は……たぶん今は違う苗字を名乗っていると思うけど、近淡海翠子。殺された緑子さんの、一回り違うお姉さんで……どうやらお兄様の初恋のお相手なんだって」
「な、んだって」

 上城の脳内で計算式が動き出す。今から十五年前。それは鈴代がまだ一歳半になるかならないかで、五つ年齢の離れた賢季は六つの幼稚園児。緑子は賢季より四つか五つ年上だっていうから当時まだ小学生で……それに十二歳年上の姉ってことは。二十三、四か? 十五年経過した今でも、まだ四十に満たない若さだ。離縁されたとはいえ、どこかで今も暮らしているのだろう……もしかしたら、別の人と家庭を持っているかもしれない。
 ……それにしても、六歳で初恋か? いや、待てよもしかして。

「賢季さん、随分ませてたんだなぁ……じゃなくて!」

 突然叫びだした上城。びくん、と慄く鈴代を無視して、受話器の向こうで一人突っ走る上城。

「もしかして、賢季さん。緑子さんが殺されたことを、彼女に知らせに行ったんじゃないか?」
「え。でもそんなこと、できるわけないわ。彼女の所在を知っている人間は……ううん。今、この段階で彼女の今を知っている人間はいない。それだけは断言できる……彼女のことを人間なら、いたけど」

 その、勿体ぶった言い方を、上城はあっさり理解する。

「小堂さんだね」
「……そうよ。房江さんが、小堂が生きていればもっと詳しい話がわかったでしょうにね、って……きっと、こっそり彼女の面倒を見ていたのよ」
「だから、殺されたのか?」
「それは……まだ、わからない、けど」

 きっと、翠子が事件の鍵を握る人間であるのは事実。

「だからだよ」

 上城は、確信を込めて、頷く。

「だから、賢季さんはいてもたってもいられなくなったんだよ」

 初恋の人に、妹の死を知らせるためだけでなく、自分に着せられた濡れ衣を、自力で脱ぐための手段を探しに飛び出したのだ。彼女を探すという、途方もない方法を選んで。

「鈴代だったら、どうする?」

 突然、上城に聞かれる。

「初恋の人の大切な人が何者かに殺されて、その犯人に自分が疑われたら。俺だったら、きっと賢季さんと同じことをすると思う」

 たとえ、警察を敵に回してしまったとしても。初恋の相手に自分の無実を伝えるために。
 でも、きっと賢季なら、もっと先のことまで考えているだろうと、上城は告げる。

「過去のわだかまりが起こした事件だとしたら、その根元にある真実を、弁えなきゃいけないだろ?」

 沈黙を保っていた受話器の向こうから、くすり、という忍び笑いが聞こえる。

「カミジョ。探偵みたい」
「何を今更」
「ちょっと安心した。お兄様、大丈夫よね?」
「だって、君の従兄だろ? 信じてやれよ」

 上城の言葉が、鈴代を勇気付ける。暗い暗い夜の闇も、今は怖くないと、鈴代は頷く。

「うん。信じるね」

 わたしも、お兄様のようなことになってしまったら……カミジョの大切な人を傷つけた犯人だと疑われてしまったら……きっと、何があっても彼に会いに行くだろうから。
 上城の優しい声色は、電話が終わってからも、鈴代の内耳にほんのり、響いていた。
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