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chapter,4 (2)
しおりを挟む鈴代邸は煉瓦造りの二階建て。大きなシャンデリアが天井から吊るされている玄関を入って右には螺旋状の階段があり、それを上っていくと長い廊下が現れる。
手前の部屋が応接室、その隣が当主の書斎、三つほど空き部屋があり、そこから少し歩いて、突き当たった場所に、一人娘である泉観の部屋が置かれている。
豊はモップがけをしながら、屋敷中を散策する。階段を下り、一階の玄関、トイレを経由、そこから叔父夫婦と兼用の食堂に入り、ウッドデッキで造られたテラスから中庭を覗く。和洋折衷な様式の庭は、当主のお気に入りの場所だという。
そういえば、主人の姿が見当たらない。豊が賢季に問うと……彼が殺人未遂事件の被害者であることを知らない豊に、あえて言う必要もないだろうと賢季は判断したのだろう、入院しているとの簡潔な応えが返ってきた。持病でも持っているのだろうか、と考えながら豊はモップがけを続ける。
食堂、キッチンを抜けると当主の寝室、妻の部屋、空き部屋、納戸と続く。大理石でできた浴室、トイレ、女中たちの準備室、他にもたくさんの部屋が並ぶ。
「あ」
メイド服の少女が、洗濯籠を持って歩いている。住み込みで働いている美弦だと、賢季が言ってたっけ……こんなに幼い子なんだ。
豊の視線に気づいたのか、美弦が顔をあげ、ぺこりとお辞儀する。豊も、礼をする。
「お疲れ様です」
美弦にとって、自分の方がこの屋敷では先輩だというのに、豊が初めて彼女を見た時から、常におどおどしていた。まるで豊を怖がっているみたいに。もしかしたら人見知りが激しい女の子なのかもしれない。豊がそんなことを考えているうちに、美弦の姿は、テラスに消えていた。
美弦を見送った豊は、モップがけを続ける。
やがて、庭を横断するような形で渡り廊下が現れる。
ここから先は賢季たち……夕起久の弟夫婦が暮らす空間だ。
こちらには二階部分が存在しないが、広々とした間取りは相変わらずだ。執務室、書斎、夫婦の寝室……そして、突き当たりにあるのが、賢季の部屋。
「ここなんだ……」
思わず、立ちすくんでしまう豊。
「いけません!」
……何?
扉の奥から聞こえた、悲痛な叫び声。どこかで聞いた女性の。そうだ、緑子って言う女中の。
いけないことだと理解しつつも、耳を扉にくっつけて、会話を探る豊。
「賢季様、そんな危険なことを」
「あれはそうでもしないと引っかからないからな。なぁに、追い出したりはしないよ」
……誰を?
「もうすぐ伯父が退院なさる。奥方は小康状態だが、彼と顔を合わせてまた、あのようなことをしでかしたら困るだろ?」
「……ですが」
ぞくり。背筋に鳥肌が刻み込まれていく。
なんの、話をしているの?
「賢季様が、自ら火に油を注ぐような真似をなさるなんて」
「だからいいんだよ」
二人の息遣いが、親密なものであると、豊は瞬時に理解する。言葉に出来ない緑子の喘ぎ声が、豊の内耳を刺激する。
……嘘、何、この二人ってデキてたの?
「人殺しの魔女が本当に人を殺したのは、まだ一度だけだ」
「泉観様を疑っていらっしゃるのですか?」
「そう解釈するのは君の自由だ」
扉の向こうでパニックに陥っている豊に気づくことなく、二人は会話を続ける。
人殺しの魔女。
賢季は、泉観が人を殺したなんて信じられないと豊に言っていた。が、緑子には何と言った?
……本当に殺したのは、「まだ」一度だけ。
その「一度」の犠牲者になっているのが、誰なのか……豊は、自分の妹を、脳裡に思い描き、硬直する。
鈴代泉観が、殺したのか? マドカを。
賢季はしばらく考え込んでいたのか、言葉を選び、やがて手放す。
その一連の仕草を行う合間に、緑子の身体に触れ、弄んでいたのだろう、快楽に溺れた緑子の痛い、という甘い声が混じった。
「……呪われた人殺しの魔女。この言葉のカラクリを理解するのは、泉観でも難しいと思う。けど」
賢季の堅苦しい言葉を、必死になって聞き込む豊。
「スザクなら、簡単に解いちゃうかもしれないな」
スザク? 誰だろう?
突然出てきた見知らぬ名前に、豊は興味を持つ。自分が、その少年を既に「愚者」だと呼んでいたことも忘れて。
コツン。
手にしていたモップが、地面に転がり落ちた。大きな音ではないが、気づかれた可能性も否定できない。
「ひとまず退散した方がいいわね」
豊はモップを持ち、早足で、賢季の部屋の前から姿を消す。
* * *
「行ったか」
「ええ」
賢季は緑子が頷くのを見て、寝転がっていたソファから身体を起こす。
扉の前で、豊が聞き耳を立てていたことに、賢季は最初から気づいていた。むしろ、彼女に聞かせてやりたいと、こんな芝居を緑子と打ったのだから。
「緑子、彼女は嫉妬したと思うか?」
「さぁどうでしょう?」
緑子は短大の家政科を出て、父親の紹介でこの屋敷の家事手伝いの一端を担うことになった女性だ。賢季より四つほど年上の彼女は愛人というより姉のような存在でもある。
身体を許しあう仲ではある、が、二人はその行為ですら事務的なものだと理解している。緑子も、賢季のため、というより自分自身のために、彼の傍にいることを選んでいる。だが、豊はそんな事情を知らない。
「僕らは共犯関係なのかな?」
「さぁどうでしょう?」
妖艶な笑みを浮かべる緑子の頭を、くしゃりと撫でて、賢季は呟く。
「どっちにしろ、彼女は知らなくてはいけない人間だからね。人殺しの魔女が、実在するのか、ってことを」
「そうでないかもしれませんよ?」
「意地悪だなぁ君は」
まぁ、僕もまだわかっていないんだけどさ、と緑子に聞こえるか聞こえないかの声で、賢季はそっと吐き出す。
「僕は泉観を疑いたくないだけなのかもしれないなぁ」
緑子は、そんな賢季を無表情で見つめるだけ。手助けをするわけでも、邪魔をするわけでもなく、ただ、傍で控えている。
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