Springs -ハルタチ-

ささゆき細雪

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chapter,3 (5)

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 赤と白の絞りのカーネーションを片手に、紗枝は恍惚とした表情で、鏡に向けて声をかける。

「夕起久さんはお気に召してくださるかしら? このカーネーション」

 ふふ、と妖艶な笑みを浮かべ、カーネーションを握りつぶす。
 赤と白の絞りのカーネーション。
 花言葉は、「愛の拒絶」。
 緋色の絨毯に散らばった、数え切れないほどの花弁。それは、腐ったりかさかさに乾いていたりで、死に絶えているものばかり。
 うきうきしながら鏡と会話していた紗枝だが、コツン、という足音に気づき、身体を凍らせる。

「紗枝様、お掃除しますよー」
「みつる? みつるなのね!」
「そうです、美弦です」

 ハウスメイドとして雇われた美弦は、三人の女中の中では一番年下だ。確か、娘の泉観と同い年だったはずだ。諸事情で高校を中退して、義弟が引き取ってきた少女……だが、自分のことすら完全に把握できない紗枝にとって、美弦は単なるメイドではない。入院している夕起久を除く、唯一の、話し相手だ。

「よかった、みつる。遊びましょう?」

 少女のようにあどけない表情を見せる紗枝と向き合い、美弦はにっこり微笑む。

「今日はご機嫌ですね」
「えへへ」

 三十代後半の紗枝だが、遠目から見ればまだ二十代とも言えそうな美貌を持つ。同い年の娘がいるなんて信じられない、と、美弦はいつも思う。
 だが、自分は同い年のお嬢様とは環境が違う。美弦は手にしていたモップの先で、肌が露になっている紗枝の背を小突く。こんなところ、房江に見られたらすぐに首が飛ぶだろう。だが、紗枝は美弦にされたことに怒ることもなく、むしろ、楽しそうに笑っている。それを見て、美弦は苛立ち、同じ行為を繰り返す。少しずつ、力を加えて。

「紗枝様、痛いとおっしゃらないと、ずぅっと続けちゃいますよ? 青い薔薇のような痣が背中に残っちゃいますよ? それなのに、どうして笑っていられるのです?」

 それは、彼女が狂っているからにほかならないと、美弦は知りつつ訴える。

「素敵じゃない、青い薔薇」

 ふふふ、と微笑む紗枝は、モップを美弦から奪い取り、美弦の額を突く。

「だから、あなたには赤い薔薇をさしあげる」

 美弦はされるがままになる。仕掛けたのは自分だ。自分は彼女に殺されたいのかもしれない、妖精のようなあどけなさを持つ、狂った王妃にいたぶられ、やがて絨毯に散らばる花弁のように気まぐれに捨てられる……額が、ぱかり、割れる。
 流れ出した血を見て、きゃははと喜ぶ紗枝。

「綺麗なお花、咲いた、咲いた!」

 鏡の向こうに映る、真っ赤な血を額から垂れ流す姿を、美弦は呆然と見つめる。
 子どものような紗枝を、美弦は抱きしめる。そして、耳元で囁く。

「もっと、花を咲かせたいですか?」

 当然よと、紗枝は頷く。

「夕起久さんにも見せてあげるの。きっと悦んでくれるわ」

 紗枝は美弦をぎゅっと抱きしめ返す。
 まるで、本当の母子のように。
 美弦は困ったような表情を浮かべ、やがて縦に首を振る。

 鈴代紗枝。
 鈴代夕起久の妻であり、狂人。

 そんな彼女に仕える自分は、果たして狂っているのだろうか……
 紗枝が好んでつけている香水の香りが、美弦の周囲を静かに漂う。薫り高き桂花の、懐かしさを呼ぶような香りは、やがて美弦の思考を優しく遮る。

「……冬は嫌い」

 紗枝が拗ねるように、呟く。

「みつる。春を呼んできて」

 紗枝は美弦をぎゅっと抱きしめたまま、命令する。彼女ならきっと、叶えてくれるとそう信じて。

「冬将軍が来ないうちに」
「冬将軍?」
「そうよ。奴らは突然やってきて、世界を灰色に染め上げるの。生きていたものが死に絶え眠りにつく季節……」

 美弦は、真顔で説明する紗枝の顔を、見上げる。

「殺人者みたい、でしょ?」

 あどけない表情で、紗枝は笑う。少しだけ歪んだ笑顔を、美弦に向けて。

 ……冬将軍は殺人者?

「紗枝様、何を」
「人殺しの魔女が魔法を使うの。聡明すぎる血の繋がっただけの憎たらしい人形が、冬将軍を呼び込むの。だから、妖精さんが春を呼ぶの。呼んでよ、みつる、あたくしのかわいい……」

 途中まで、言おうとした単語を、紗枝は飲み込む。そして、泣き出す。涙を零す。
 何を言っても無駄だと美弦は知っている。紗枝の被害妄想、それだっていつものこと。
 だけど、冬将軍という聞きなれない言葉が、美弦の脳裡にこびりつく。

 ……夕起久様が殺されかけたことを、紗枝様はご存知ないはずなのに。ただ、身体の具合が悪いから入院したって伝えただけなのに。

 子どものようにしゃくりあげて泣き出す紗枝。背中から咲いた、美弦がつけたばかりの青い薔薇の傷跡を、撫でながら、美弦は、疑問に思う。

 ……どうして、殺人者が現れたことを知っているの? それに。

 はらはらと涙を流しつづける紗枝を横目に、美弦はひとりごちる。

「美弦には、春を呼ぶ力なんか、ありませんもの……」


 そして、ひととき、目蓋を下ろす。
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