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わたしとねずみ 6

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「無事で、よかった」


 ふだんとは異なるねずみの、絞り出したような声に目をまるくする。病床に顔を出したときだってそんなこと言われたことがない。階段から落下した際に打ちどころが悪くて記憶を失ってしまったのだろうかと夢の中でくるみ割り人形に化けていたねずみのことを思い出す。そして目覚める寸前に聞こえた初めて逢った時の彼の声を反芻させながら、淡く笑む。
 どうして彼は婚約者であるあたしに自分のことをねずみと呼ばせたのか。きっとたいした理由なんかなかったはずだ。たぶん、はじめて逢うおとなの男のひとに対して怖い気持ちを持たせないよう、思いつきで自分をねずみだと口にしていたに違いない。けれどわたしはそれを冗談だと思わないで、二年近く彼のことをねずみと呼び続けていた。一方的な口約束である「成長した暁」がいつまでも来ないことを心の奥底で秘かに夢見ていたから。

 病弱な少女のままなら、彼はずっと働き者のねずみでいてくれる。お金持ちのねずみの王様のお妃様になるよりもその方が、自分は楽だと思っていたから。
 そんな成長することを厭うわたしを見て、ねずみも焦ったのかもしれない。父とお金のことが絡んでいたのも事実だろうけど、たぶんきっと、それだけではなかったのだ。
 久しぶりに会った日。気を引こうとしていつも以上に饒舌になっていたねずみは、薔薇の花束片手にわたしに初めて逢ったころの話や仕事で赴いた外国の話をしてくれた。
 そしてわたしがいつか見たいと希っている雪の話も。
 けれどそのあと、あのときと同じ、跡継ぎの話が出て。雲行きが突然怪しくなって……

「僕の方こそ、君の気を引きたいがために酷いことを口にした」
「ねずみ」
「ほんとうは君を追い詰めるような言葉を口にするつもりではなかった。それに、お金のことも女には関係のないことだからと黙っていた。借金は返した。断じて君の持参金が目当ての結婚ではない。それに、君の父上に言われたから結婚を急いだわけでもない。つまりだな……」

 顔を真っ赤にしながら細々と語りだすねずみをわたしはじっと見つめる。わたしの視線が彼の瞳に交わると、やがて決意したのかねずみは言葉を切って、深呼吸。

「僕が君を妻に望む。世間や君はそれを持参金目当ての政略結婚と呼ぶかもしれない。僕自身、世間に好き勝手言われるのは痛くも痒くもないが、君だけには誤解されたくない」

 だからこうして口に出すんだと恥ずかしそうにねずみはつづける。

「初めて逢った時、君が僕の妻になると知って素直に嬉しかった。浮かれた挙句、自分をねずみだなんて自嘲してしまった。君はそれを真に受けて今も呼んでいるみたいだが、いつまで僕をねずみのままにしておくつもりかい?」

 婚約者をねずみ呼ばわりする少女を振り向かせたくて、彼はどんどん卑屈になってしまったのだ。だから、わたしを怒らせたり悲しませたりする言葉も口にして、どうにかしてわたしからねずみではない、彼への言葉を引き出そうとして、ねずみを退治したという逸話を持つくるみ割り人形を侍医に渡したのだと。

「くるみ割り人形!」

 てっきり侍医の知り合いの医師が土産に持って来たのだとばかり思っていた。ねずみがわたしに気づかせるために侍医に渡していたなんて……

「君は僕をねずみの王様だと思っているようだが、僕は君にとってのねずみからくるみ割り人形になりたいんだ!」

 彼がぜんぶ吐きだそうとしている間に、わたしはゆっくりと身体を起こす。彼はわたしとの距離が近づいたことにも気づかないままぶつぶつと言葉を紡ぎつづけている。

「悪いねずみたちはいままでの僕の素直になれない心だったり、君に対してつい意地悪なことを口にしてしまうから、ぜんぶやっつけることはできないだろうが……」
「別に構わないわ」

 つっけんどんに遮るわたしに、ハッと我に却る彼。

「あなたがねずみだろうがくるみ割り人形だろうが、わたしは気にしないもの。だってあなたはわたしの夫となるひと、わたしだけの騎士……なんでしょう?」

 ねずみの顔色がうつってしまったかのようにわたしの顔も熱を持つ。お互い顔を赤らめたまま、はじめてふたりは素直に向かい合う。まるで夢のなかで戯れあった後に交わした接吻の後のように。

 生まれた頃から父親に決められた政略結婚。互いに仕方ないと思いながらもどこか納得しきれないでいたから顔を合わせても憎まれ口を叩くしかなかったねずみと、それに反発していたわたし。
 だというのに、これも異国のくるみ割り人形がもたらした魔法、なのだろうか。

 クリスマスの祝祭を前に、ふだんとは異なる黒い燕尾服の彼は、もはや働き者のねずみと呼べなくなっている。そして朱赤のドレスを着たわたしもまた、もはや子どものままではいられない。
 彼に差し出された手をそっと取る。はじめて触れ合った互いの手は、ぎこちなく互いの指先を確認し合っていたが、春が来て雪がとけていくかのように、握り合い、それはやがて、ひとつになる――……
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