不完全防水

ささゆき細雪

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第四話

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「先生嫉妬した?」
「してません」

 放課後。生物準備室に押しかけてきて自分の席を陣取る柚木。しょうがないので冷蔵庫の横に置かれていた木製の椅子に腰掛け、楢原は柚木の話を呆れ半分に聞く。

「淡白な反応でつまらないです」

 白衣を着た楢原は、楽しそうに他校の少年について語る柚木に対して、どのようなリアクションをすればいいのか正直わからないでいる。柚木は自分に対して嫉妬してほしいようだが、妻子ある自分がなぜ今になって彼に嫉妬心をめらめら燃やさねばならないのかその必要性を感じないので、自然と淡白な反応に陥ってしまう。

「ゆのき……楽しそうだな」
「そう、ですか?」

 嫉妬しろと言いつつ、実際に憮然とした表情で楢原に言われるとは思ってなかった柚木は、つい、聞き返してしまう。

「自転車で二人乗りしながら、一体何を話したんだ?」
「なんだと思います?」
「不毛な話」

 面倒くさそうに言う楢原を見て、ぷぅと頬を膨らませる柚木。

「そんなんじゃ……まぁ、そうかもしれませんけど」
「認めてるじゃないか」
「でも先生のことじゃありませんからね!」

 不毛な話、を自分の片恋のことだと思ったのだろう、楢原は柚木の強気な発言に驚き、思わず声を荒げる。

「じゃあなんだよ」
「教えない」

 強張った顔で、柚木が拒む。その表情を見て、楢原は彼の言うもう一つの不毛な話が何であるか、見当をつける。

「台風の話、か?」

 何も言わずに俯いた彼を見て、自分の言った言葉がはずれていないことを、悟る。


   * * *


 潮の香りは嫌い。波音も塩水も海水浴も嫌い。当然、海は嫌い。
 真っ黒に染まった雲は嫌い。今にも泣きそうな表情を見せる空もそれに便乗して降りだす涙のような雨も地面に流れた汚らしい雨粒も嫌い。
 黒い傘は父親の。だぼだぼのレインコートは母親の。遺品。
 漁師だった父親。父親についていった母親。四年前、突然水に溶けるようにいなくなってしまった二人。早朝に起きた冷夏の悪夢。台風が接近していたのに、大嵐が来るってわかっていたのに、柚木を置いて二人は消えてしまった。
 親戚が引き取りたいと言ってくれても、彼は「おにいちゃん」がいるからこの地を離れたくないとわがままを言った。だから彼は一人で暮らしている。一人で今夜の献立を考えながら……

 ぶん。
 頭を左右に振って、橋上は我に却る。

「危ないから余所見しちゃ駄目だよ」
「……すまん」

 柚木の自転車を運転している橋上は、背中に乗せた少年のことを考えて、危うくガードレールを突き破って彼の大嫌いな海に転落するところだった。が、柚木は自分のことについて深く彼が悩んでいるとは気づいていないようだ。

「海に落ちたらお前、溶けちゃうもんな」

 橋上は笑っているのだろう。両肩に乗せた柚木の手が、振動で震える。

「まだ信じてるの? 人間水に触れたからって溶けるわけないのに。硫酸ならわかるけど」
「俺の心の問題だからいいの」

 柚木はどうして彼が自分の言ったたわいもないヒトコトを信じているのだろうと不思議に思う。自分はただ、嫌なことがあったからそれ以来水を避けているだけなのに。
 たぶんそれが、楢原とは違う、橋上の優しさなのだろう。
 柚木は自分の自転車を運転している少年を見つめ、彼はどうしてぼくの傍にいてくれるんだろうと漠然と考える。考えているうちに、ドキドキと自分の鼓動が脈打っていることに気づく。どうしてだろう。ただ、雨の日にバスで会ったそれだけの関係なのに。
 それだけの関係……だよね?

「どうした? ケツ痛いか?」
「そっちこそ、運転代わろうか?」
「いいって。お前の家まで送ってやるから」
「わーいありがとう」

 甘えた声。彼に媚を売っているみたい。なのに、それを演技じゃないのかと疑うことなく一生懸命ペダルを漕ぐ橋上。
 柚木は彼の両肩をしっかり抱きながら嘲笑を浮かべる。
 なんて自分は嫌な人間だろうと。他人の好意をほしいだけもらって、何も返さないで、そこにいるだけで満足してしまう自分を、少しだけ厭いながら。
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