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閑話 * 恋愛麻酔 ~if~
Love Anesthesia ~ i f ~ (5)
しおりを挟む「小手毬ちゃん?」
ナラシノではない女性の声が、あたしを呼ぶ。ナラシノが知り合い? とあたしに目配せをする。あたしは何も言わずに彼女を凝視する。
鈴の音のような、澄んだ女性の声。
「無事に退院したって早咲あのひとが言ってたからどうしているのかなって思ったけど……元気そうで、よかった」
元気? 何を言っているのこの人は。あたしから元気を奪ったのは、あなたでしょ?
懐かしいと思うと同時に、隠していた憎しみが顔をのぞかせる。
二年前の交通事故で、あたしをはねた加害者。そのことに関しては充分な損害賠償を払ってくれたからもういいと親は言っていたし、あたしも彼女に誠意を持って償われたことは理解している。
けれど、ひとつだけ、裏切られたと、感じてしまったことがあって。
あのときは、見ないでいたから、耐えられた。知らなかったから、三人で笑えた。
小さな舞台から退場して、世界を俯瞰したら、あたしがいた場所は、花に覆われてしまっていた。
三人でいた場所は、二人の愛を育む空間へ。
あたしは発芽した二人の関係を、祝福せざるおえない立場にいた。気持ちを、伝えることすらできずに、手放さなくては、いけなくて。
途方に暮れたあたしは、その恋をなかったことにしたくて、失った痛みをなかったことにしたくて、薬を求めていたのに。
彼女は、心底幸せそうに笑う。ハヤザキのこどもを身篭った、オソザキは。
見つめ合うあたしとオソザキを見て、ナラシノがぽんと両手を叩く。
「早咲先生の……そっか、コデマリってここの入院患者だったのか! じゃあ、早咲先生がこの春若い奥さんもらったことも知ってて当然だよね」
場違いな明るい声が、あたしを現実に却るよう促している。だけど。
あたしは、認めたくなくて。
コデマリの咲き乱れる庭園から、逃げ出す。
* * *
ミチノクはあたしがこれ以上傷つかないように、近づくなって言っていたんだ。
痛みがぶり返す。涙、零れる。
幸せそうなオソザキ。ハヤザキと結ばれたオソザキ。ハヤザキのこどもを胎内に宿したオソザキ。
気持ちを伝えることもできずに、指を咥えて二人の未来を羨むことしかできないあたし。痛い。胸が、痛いよ。
ひりひり腫れ上がった心が軋んで悲鳴をあげる。絶叫しそう。オソザキに対して、悔しいとか憎いとか許せないという負の感情よりも、選ばれて幸せな花を咲かせて想いを結実させた羨望があたしの中で渦巻いている。それが鋭利な刃物となって、突き刺す。痛みに苛まれて、思考が麻痺していく。
ドウシテアタシジャナイノ?
幼いから。そんなの理由になる? ハヤザキに対する好きって気持ち、誰よりも強いって自信があったのに。それじゃ、ダメなんだ。
増幅する幻痛。痛みを麻痺させたい。苦しいよ。一方通行の想いが遮られて、零れてしまった涙のような恋。終わらせたい。これ以上引きずる自分が惨めで、情けなくて。
だからあたしは薬を欲していたんじゃなかったっけ? 忘れたいと希ったから。二人の幸せを祈るために、邪険な自分の恋心を消し去りたくて。麻酔科医なら持っているなんて初恋の人の嘘を信じたくて。
* * *
手術中のランプは、消えていた。
「ミ、チ、ノ、ク……ぅ」
あたしの涙声を聞いて、手術着を脱いだミチノクが小走りで現れる。
「……近寄るな、って言ったのに」
困り果てたミチノクの顔をはじめて見た。これからあたしは、もっと彼を困らせる。
「先生、あたしに麻酔をかけて」
決意が鈍らないうちに。
「もう二度と、恋なんかできないように」
――そんなものはない、あってもかけるつもりはない、と怒鳴られた。
「だいいち、もしそんなものがあるとしても、お前に投与したらその時点で違法診療と薬事法違反で俺は苦労して手に入れた医師免許を剥奪されるんだ。失恋した? それがどうした? なんでお前のために俺が医師免許剥奪の危機に瀕してまで助けてやらなきゃいけない? 世の中失恋して落ち込んでる人間はお前だけじゃない。だけど彼らはそんな薬に頼ろうなんてしてないだろ? お前、努力って花言葉どおりに少しは努力しろ。他人任せじゃいつまでたっても抜け出せねぇぞ。それに、失恋してもう二度と恋なんかしないと誓ったって、そのとおりになるとは限らないだろ?」
彼は捲し立てるようにあたしを叱る。今までの鬱憤が溜まっていたかのように。
なのに、彼はあたしをそっと抱きしめて、背中を静かにさするんだ……
「どうせ時間が経過すればそうもいかなくなるんだから……忘れるなんて言うほど、お前の恋は恥ずかしいものだったか? 忘れる必要なんかどこにもないだろ? 痛みを怖れるな。麻酔は全能じゃない」
ハッとした。
麻酔だって、いつかは切れてしまう。そしたら和らいだとはいえ、痛みと向き合うのは必然なんだ。
だとしたら。あたしは、もう、麻酔をかけられていたのかもしれない。知らず知らずの間に、ミチノクに痛みを和らげてもらっていたのかもしれない。
だって。今も。
消えてしまいたいくらい辛かった痛みが、彼のぬくもりでとかされて。そのかわりに、心臓が、柔らかな真綿のようなもので、締め付けられている。このままじゃ、破裂する?
「ミチノク、どうしよう」
「何が?」
「もう、麻痺してる」
痛みが、感じられない。
麻酔をかけられてしまったかのように。
それなのに、心拍数はあがるばかり。
麻酔の効果が切れるとき、悔しいな。
あたしはきっと、彼を意識する。
Love Anethesia ~ i f ~ / Fin.
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