水の都で月下美人は

ささゆき細雪

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Ⅹ センサにて

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 栖暦1428年、初夏のヴェネツィアで起きた大高潮は、市民たちの想定を超える死者、行方不明者を出していた。
 あれから三年。
 遺体があがらない行方不明者の多くが死者として少しずつ受け入れられようとしている。海の藻屑と化した彼らもまた、天国へ召され楽園からいまを生きる人間を滑稽に見守っているのかもしれない。

「……デーヴィットお兄様」

 声変わりをしたばかりの少年は、淋しそうに名を紡ぎ、溜め息をつく。
 本来ならば彼がバーヴェッジ商会の家督を継ぎ、精力的に活動をしていたであろう。けれどその未来は、アックア・アルタと呼ばれる自然災害によって、あっけなく覆された。

 当時十歳だったアダムにとって、それは悪夢のような光景だった。
 突然の土砂降りが水路を満たし、満潮を迎えた海の勢いで市街へと放出される姿は、いま思い出してもおぞましい。

 けれど高台に避難さえすれば、やり過ごすことは可能なのだ。それでも、アックア・アルタの規模は天候によって左右されるため、知っていると油断した結果、逆に命を失った市民も多数存在している。

 そのなかには前元首の末孫姫、ディアーナ・モチェニーゴが幼い頃から実の姉よりも懇意にしていた銀の瞳の侍女も含まれているという。そして、自分の兄、デーヴィットは当時の婚約者の願いで彼女を救けるために離れ、そのまま――……

 ふたりの遺体はあがっていない。ディアーナは生きていると信じているようだが、アダムからすれば、現実逃避をしているようにしか見えないでいる。


 ―――愛する婚約者と侍女をいっぺんに失った悲劇の姫君。


 ヴェネツィア市民はそう言って末孫姫の身に降りかかった悲劇を嘆いたし、アダムも彼女に同情したのは事実である。
 だが、その二ヶ月後……折しもディアーナとデーヴィットが本来なら結婚式を挙げようと予定していたその日に、彼女はバーヴェッジ商会に単身で乗り込み、アダムに求婚してきたのだ。

 当時十歳のアダムに、十五歳の少女が。

 兄と結婚するはずだった少女は弟と結婚することに決めたのだと言い放ち、周囲の人間を圧倒させた。そしてそのまま、両家の都合も気にせず、前元首の末孫姫はちゃっかり自分との婚姻を約束させてしまったのである。

 もともと市民権欲しさに家柄の良いモチェニーゴ家の娘との結婚を望んでいた両親だ、兄がいなくなったので弟でも構わないという彼女の申し出にありがたく飛びついたのだろう。そしてモチェニーゴ家の方も、バーヴェッジ家が貿易で築き上げた財産を望んでいた。互いの家の利害はデーヴィットがいなくなっても変わらなかったのだ。

 結婚はあくまで手続き的なもの。兄に代わって家督を継ぎ、名家の姫君と結婚する事態に陥ったアダムは、混乱しながらも現実を受け入れていく。
 なぜなら五つ年上の少女はアダムの初恋の相手だったから。
 けれどその気持ちを伝えたことはない。伝えたところでどうせ迷惑に思われるだけだろう。義務感で婚約した五つ年下の伴侶のことなど、兄と結婚するつもりになっていた彼女からしてみれば、恋愛対象にもならないはずだ。
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