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Ⅸ 月下美人は商人の花嫁
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しおりを挟む「いいぜ――商談成立だ」
ダヴィデの低い声音とともに、カチャリと鍵の開く音が響く。キィ、と軋むような音を立てた鳥かごの扉は、何事もなかったかのようにダヴィデを吐き出し、しずかに閉じた。
オスマン兵の身体に乗り移っていたザイードは金髪碧眼の青年が不適な笑みを浮かべながら走り出すのを見やり、ふぅと息を吐き、その場でがくりと膝をつく。
そろそろ術の効果が切れそうだ。次に意識を取り戻したときにはあの黒ずくめの脱け殻のような自分の身体に戻っていることだろう。
「リリアンナ……月下美人の花と称賛されたユリアーナにそっくりだったな」
ムラトはザイードが不貞を働いたと糾弾したが、それは半分真実で、半分は偽りだ。
当時ルクリエンテからオスマンに嫁いできた白銀の姫君――エヴァンジェリン妃の妹、ユリアーナは、バヤズィトを心の底から愛していた。だから彼は彼女に砂漠の薔薇という名の不思議な指輪を術者に作らせ、贈ったのだ。白蛇の精霊が好む美しい色の金剛石を並べ、白銀の姫君を守護させるため。
美しく賢いユリアーナは祖国を嫌っていた。東ローマ帝国に属していた頃から周辺諸国の機嫌ばかりとる父親とは衝突してばかりで、姉との仲も良好とは言いがたかった。ルクリエンテ公家を継ぐことになった姉は婿養子を貰い、妹は政略結婚のために外に出されることが決まっていた。
そんな折、ルクリエンテはオスマン帝国に寝返った。東ローマの衰退を嘆いていた祖父の一存で、ユリアーナは急遽、当時のスルタンだったバヤズィトのもとへ嫁ぐことになる。姉には反対されたが、祖父の直感を信じたユリアーナはひとり後宮へ向かい、勇敢な女としてスルタンに気に入られたのだ。
その場にいたザイードは覚えている。天の川が流れているような白銀の髪に鋭い月白の瞳が印象的だった。
バヤズィトは完璧なスルタンだった。ただひとつ、子種を持たないという欠点をのぞいて。
師匠アイザッハが亡くなり、ザイードが後任の大賢者として彼に召喚されたのは、禁術を使って互いの意識を交換し、後宮の后妃たちと子作りに励むためだった。
ザイードの身体を借りたバヤズィトは、こうして後継者の胤を女たちの腹に仕込んだのである。
このことを知るのは大賢者アイザッハとその弟子ザイード、バヤズィト、当時の後宮の后妃たちと次期スルタン争いで生き残った息子メフメトだけである。
いまさらムラトに説明したところで、不貞に違いはないのだ。彼のほんとうの祖父は大賢者アイザッハの身体を借りて祖母に父を孕ませていた、そして自分も祖父に身体を差し出しユリアーナとの子作りを手伝っていたなど、けして知られるわけにはいかない……
自分の肉体は覚えているのだ。かつての美しい后妃の潤った蜜洞へ己の楔を貫いて、青臭い名残雪のような白濁を思うがままに吐き出したことを。
そして識っている。ユリアーナに似た銀の髪の皇子と皇女が生まれたのは肉体を持つ父親も銀の髪をしていたからで、偶然ではないことを。
それゆえ死罪にされても仕方がないと、秘密を知る人間たちに先立たれたザイードは諦観している。
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