水の都で月下美人は

Ⅸ 月下美人は商人の花嫁

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「ザイード、美しく育った孫娘はおれの手で淫らに達してしまったよ。おや？　お前も失禁して気をやってしまったのかい？　見苦しい奴だ。スルタンを傀儡にして帝国を支配しようなんて豪快なことを考えていた人間にはちっとも見えないねぇ……殺すのもつまらないよ。兄上の人質になるって言ったのはお前だったのに」

　失禁して意識を飛ばした初老の男の頭を蹴飛ばし、ムラトは嘆息する。

「とはいえ、ここまで騒いでも兄上が来ないってことはさ、やっぱりお前だけでなく、白銀の姫君や英国の商人をも見捨てて逃げ帰ったんじゃない？　いくじなしでひとの顔色を見るのだけは得意だったもんなぁ」

「そうだねムラト。あたしは怖かった。いつか追っ手に殺されるんじゃないかって。ザイードと一緒にメテオラに逃げてからも、不器用な弟のことは忘れられなかったよ。自分はおとなしく後宮の鳥かごのなかで歌を歌っていればよかったのかな？　だけどムラトが立派なスルタンになるためにはあたしは死んだことにされないといけなかった。あのときのムラトは優しかったからあたしを殺さないでザイードとともに逃がしてくれた。だけどあれから七年たった。ザイードはあたしを王位につけるため、白銀の姫君を捜しだし、娶らせようとした。それを知って、ムラトは後悔している？　あたしをあのとき殺さなかったこと。だからこんな風に見せつけるように、ザイードやリリを苦しめたの？　――だとしたら、許さない」

「兄上……」

　まさか本当に姿を現すとは思ってもいなかったのだろう。それも腹いせにザイードを虐めた直後に。
　紺色のドレスという相変わらず女性らしい格好をしているイデアは気を失っているリリに駆け寄り、ナイフで柱と縛られていた麻縄を断ち、自分が羽織っていた紗布で身体を包み込む。身じろぎするリリのあたまを優しく撫でたイデアは、呆気にとられた表情のムラトを前に、苦笑を浮かべる。

「兄上って呼ぶのやめてくれない？　あたしはイデア。アフメト皇子はあのとき死んだの。貴方が殺してくれたから」
「……だ、だが」

　慌てふためくムラトを前に、イデアは言い募る。

「あたしの亡霊にいまも悩まされているの？　オスマンの若きスルタンたる貴方が？　いろんな人間にあれこれ吹き込まれて疑心暗鬼に陥っているのはわかるけど、あたしは王様になんかなれないし、ならない。たしかに白銀の姫君を見つけてここまで連れてきたのは事実だけど、それは貴方に変わって帝国のスルタンになるためじゃなくて」
「じゃあなぜ、こそこそ動き回っていたのだ？　まるで暗殺者のようだったぞ。警戒するなという方がおかしい」
「そうね。ザイードがまだ権力に固執していたから、刺激しないようにしたかったのと、もうひとつは……」


「――わ、わたしが悪いんです！」


　亜麻色の髪の乙女の切迫した声が、広間に響く。
　じゃらじゃら音を奏でながら、金の鎖を巻き付けた白蛇がイデアとムラトの間に入り込み、いまにも襲いかかりそうな勢いでしゃー！　と一喝した。