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参 その四
しおりを挟む頼朝がつかわせた男の名は、土佐房昌俊。
八十三騎もの一族郎党を連れて熊野詣だと触れ回っているが、京の人間は誰も信じてはいない。
その噂を耳にした静は、六条堀川の邸で寛ぐ禅と「今夜かしら」と暢気に話している。
危険だから離れの邸にいろと義経に言われたにも関わらず、静も禅も邸に残り、興味深そうに周囲を観察している。
「あなたまで残らなくてもいいのに」
「同じ言葉をあなたに返すわ」
しん、と静まり返る夜の邸。灯りと呼べるものはすでになく、晩秋の儚い虫の声だけが外の気配を伝えている。
禅にも侍女はいるが、静が秀足を連れてきたため、安全な場所へ避難させている。好奇心旺盛な主の心境を理解してくれないのはすこし淋しいが、それが普通なのだろうと禅は横目で同じ名前の少女を見やってから、その隣へ視線を移す。
それを考えると、河越庄の頃から静に仕えている秀足は、案外、骨の太い人間なのかもしれない。
喋れない自分から語ることはせず、静が口にすることを筆で返す律儀な姿は、物事を完璧にこなし常に主を見張っていた浅葱と異なり、厭味がない。
静からしてみると空気のような存在で、呼吸をするのとおなじように、彼女が傍にいることを認めているのだろう。
見えない絆を、禅は眩しそうに見つめる。
「どうかした?」
じっと秀足を見つめていたからか、静が不思議そうに禅の顔をのぞきこむ。
「ううん、なんでもない……」
「!」
禅が顔をこわばらせる。
瞬時に秀足が状況を理解したのか、静を自分の背に隠し、几帳を引っ張り出す。
どこからともなく生じたむせ返る血の匂い。
雷のような怒声と剣戟の激しい音色。
混乱に陥った馬の嘶きそして人骨の砕ける音。
堰を切ったように溢れ出す非現実的な音の洪水が一斉に邸を包囲する。
義経の郎党どもが一気に潰そうと突っ切るように敵へぶつかっていく。
引き絞る弓弦は闇を裂くように響き矢の雨を天から注ぎ込む。
夜風から漂うのは誰だかわからない入り混じった濃い血の香り。
呻き声断末魔ぶつかりあう鎧の金属音。軋む床倒れる几帳迸る悲鳴。手前で隠れていた女が引きずり出され庭に投げ出され。
――秀足!?
自分を庇って飛び出した秀足の姿が闇に溶け、消える。
静がヒッと息をのむ。
駄目、声をあげたら居場所が知れる、禅に口許を押さえ込まれて侍女の名を呼べず、いまは繰り広げられる武士どもの狂宴がおさまるのを待つことしかできない。
もどかしくて涙がでてくる。
けれど声を漏らしたが最期、静も禅も、頼朝の刺客に邪魔者として消されてしまう。
血と汗と泥にまみれていく男たちに気づかれないよう息を殺す。そして。
祈るように、心の奥底でふたりは名を呼ぶ。
自分が愛する男の名を。
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