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第二部 初恋輪舞 大正十二年文月~長月《夏》

悪魔の愛玩人形と初恋の喪失 04

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 悪魔のちからで顕現していた空間がぐんにゃりと歪み、黄桜屋の裏手の土間へと風景が同化する。魔薬の甘ったるい匂いではなく、埃くさい日常の香りに、資もハッと我に却り、音寧を侵している魔を払おうとする尾久とともに白手袋を装着する。パンパン! と柏手を打てばそれが合図になったかのように清らかな風が入り込み、闇色の花々が散らされて消える。そして黄桜屋の店舗からの扉が開き、応援を呼びに行っていた檜沢が仲間を連れて雪崩込んで来たことで、音寧を囚えていた幻影は薄れていく。
 さきほどまでの非日常が嘘のように騒がしくなっていくのを横目に、綾音に動きを封じられた悪魔が悔しそうに呟く。

「軍の人間を連れてきたか……まったく無粋な」
「……あたしの妹にずいぶんな真似をしてくれたわね」
「破魔の姫君こそ。これから堪能しようというところで邪魔をしてくれる」
「今日こそここで仕留めさせてもらうわ」
「そうはさせるか」
「っ!」

 いくら破魔のちからを持っているとはいえ、小柄な綾音ひとりで悪魔を仕留めるのは至難の技だ。それを見越して悪魔は彼女が首にぴたりとつけていた短刀を気にすることなく起き上がり、首筋からだらだらと鮮血を迸らせながら土間の棚に並んでいたガラス瓶を叩き割る。
 ガシャン、という音と同時に悪魔が瓶のなかにあった赤黒い塊を取り出し、勝ち誇った表情を見せる。

「真夜子の心臓だ。これを喰らえば小生は龍に変化へんげする。次に現れるときには生贄の乙女をいただいていく。悪魔の刻印がある限り、彼女は小生から逃げられぬぞ!」

 その瞬間、悪魔が手にしている死んでいるはずの真夜子の心臓が脈動をはじめる。周囲にへばりついていた肉片が腐臭を放ちながら床に落ち、空間を穢していく。悪魔を威嚇していた檜沢たちもその腐臭に翻弄され、武器を落としてしまう。綾音だけが射殺すように心臓を喰らって赤き龍へと変化した悪魔を睨みつけていた。

 巨大化した悪魔の両手は鋭い爪を持った翼となり、振るうだけで強風を生み出す。爬虫類にも似た本性を見せた悪魔はもはや言葉を操らず、本能で周りの人間を傷つけ、その場を阿鼻叫喚の地獄にしようと暴れだした。建物の家具が飛び散り、隣家から悲鳴が届く。屋根も吹き飛び、夏の雨が綾音たちを濡らしていく。

「……資くんは姫を迎賓館に。これ以上、瘴気にふれさせたら死んでしまう。向こうに着いたら禊をして」
「綾音嬢」
「彼方にしか、頼めないのよ! あたしと軍の人間で、今日こそ赤き龍を倒す……そうすれば、悪魔の刻印も消せる。だから」
「……わかった」
「傑のところに野島が待機してるから、お願い……」
「ああ」

 一部始終を見ていた尾久が資へ気を失った音寧を差し出せば、彼は大切に抱き上げて足早にその場を去る。
 綾音はその姿を見送ることなく、黄桜屋の建物を破壊した赤き龍を見据えていた。
 驟雨は未だ続いているが、綾音の表情はどこか明るい。

「――いくわよ!」

 鋭い爪を振りかざす赤き龍に対峙した綾音は、後ろに控えている尾久や檜沢たちに聞こえるよう、あらんかぎりの声で叫ぶ。
 音寧に刻印を刻まれるとは思わなかった。けれどこっちにはまだ切り札が、勝機がある。
 だから綾音は晴れやかな顔で祝詞を唱える。かの国の神々へ気持ちを込めて。これ以上、異国から渡ってきたこの悪しきモノが帝都で悪さをしないように。
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