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第二部 初恋輪舞 大正十二年文月~長月《夏》

黄昏時にはじまる魔薬の宴 01

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 葉月吉日、真夏の入道雲がもくもくと流れていく青空の下、翡翠色のワンピース姿の音寧は軍服姿の尾久とともに日本橋本町の町並みを歩いていた。蝉の鳴く声と、路面電車や車が大通りを通過していく音が交わる雑踏を抜け、ふたりは奥まった場所にある一軒の薬種問屋の前で、足を止める。

「綾音嬢!?」

 店の外で水を撒いていた青年がぎょっとした表情で音寧を見て、柄杓を土の上に落とす。ぱしゃん、という水音とともに、げんざい岩波山で結納の儀に挑んでいるであろう双子の姉の名を口走った黄桜屋の店主、秋庭征比呂は慌てて柄杓を拾い上げ、音寧の前で礼を取る。

「……失礼しました。貴女は」
「麹町の姫です。ご無沙汰しております、黄桜屋さん。先日は素晴らしい薬をありがとうございました」

 自分の名前を口にするのは憚られたため、迎賓館のときに媚薬を売ってもらった姫だ、と名乗って音寧は挨拶をする。胸元に紐で結んでおいたちいさな石が陽光に煌めいて白く輝く。これは払魔の手袋同様に魔の気配を感じたら黒くなり、石が割れない限りは身を守ってくれるという呪具だという。綾音が音寧のために事前に渡してくれたお守りだ。
 魔薬を扱っているということは、彼も赤き龍――悪魔の契約者である可能性がある。けれど、音寧は征比呂から魔の気配を感じることはできないし、彼女の傍にいる尾久も黙ったままだ。

「ああ、お薬をご所望ですか。おや、そちらの方は?」

 好色そうな瞳で音寧を見ていた征比呂が尾久に声をかければ、彼女は無言で会釈を返す。

「本日の護衛です」
「そういえば本日は岩波山で結納の儀がありましたね。貴女もそちらへ?」
「ええ、まあ」

 言葉を濁しつつ、音寧が応じれば、征比呂は安堵したように「これで傑も一安心でしょうね」と微笑む。
 幼い頃から岩波山のことを知っているという征比呂の思いがけないヒトコトに驚けば、彼は当然のように口をひらく。

「もともと傑の花嫁候補は別にいたんです。そもそも綾音嬢は異母弟の資と結婚のはなしがでていたんです」

 それは知っている。綾音が異能持ちゆえ時宮邸で護衛という名の監視をされており、その役割を資が担っていたのだから。
 けれども傑に別に花嫁候補がいたことは、知らなかった。

「傑は綾音嬢を奪った優雅な花盗人です。四代目有弦は思い通りにならない息子に憤ってましたが、三代目の尽力もあってふたりの婚約が認められました。そうだ、いまお茶を用意するよう伝えますので店のなかへどうぞ」

 西陽が差し込む店の内部は薬種問屋という薄暗い印象とは裏腹に明るかった。細長い卓で客と店員の空間を隔てているらしく、音寧と尾久は卓に並ぶ背もたれのない丸椅子に座らされる。

「あの、征比呂さま?」
「結納の儀式を終えられてすぐにこちらにいらしたんですよね。緊張がほぐれる薬茶です。護衛さんの分もありますよ、喉、渇いていらっしゃるのでは?」
「あ、ああ」

 中性的な声の尾久が警戒するように薬茶を見つめるが、そこに魔の気配はないらしく、ふむ、と頷いてからごくごくと飲みはじめる。彼女が勢いよく飲みはじめたのを見て、音寧もちびりちびりと喉を潤しはじめる。

「……おいしい」
「栄養分が豊富な蓬を下地に、鎮静作用のある茶の木、血行改善に効果のある紅花を合わせた当店自慢の薬茶です」
「ほう、意外とうまかったぞ」
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