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第二部 初恋輪舞 大正十二年文月~長月《夏》
結納に挑むひとたち 01
しおりを挟む「ずいぶんしょぼくれてしまったものだな、資」
「……なんとでもおっしゃってください、ご隠居」
西ヶ原の洋館を出て、野島が運転する車に乗った三代目岩波有弦と彼の孫で元帝国陸軍にいた資は日本橋本町の岩波山本店へ向かっていた。
葉月朔日に予定されていた結納が時宮家の事情で延期され、これ以上は待てないと言い張る傑の主張でその次の吉日となった本日、晴れて五代目岩波有弦を襲名予定の四代目長男、傑と旧華族の「時を味方につける」異能を持つ時宮家のひとり娘、綾音が結納を行うことになっているからだ。
時宮家からの出席者は母親が若くして亡くなっているため綾音の父親と大叔父夫婦が、岩波家からの出席者は傑と資の父親である四代目有弦とその父親である三代目有弦と彼の末娘の多嘉子、そして傑の異母弟である資。四代目から罪の子と忌み嫌われている自分が同席することになったのは、傑といまここにいる三代目ーーご隠居の熱い要望があったからだ。
結納の場に姫が参席するわけでもないのに、なぜ自分が、と毒づく資に傑は。
「気になるなら綾音にその後の姫のはなしを訊けばいいじゃないか」
と取りつく島もない。
資が迎賓館でわけありの姫君の護衛を担っていたことを知る三代目はすべてを失って戻ってきた資を見ても何も言わなかった。実は護衛をしていた彼女が幻の双子令嬢の片割れで、自分と想いを遂げ未来でふたたび巡り合うのだなどという虚言をぶちまけたところで、老齢のご隠居は「時宮の家には娘がひとりしかおらぬだろうに」と軽くいなして孫を憐れむ始末。あのとき資にだけ語ってくれたお伽噺は真実ではなかったのかと問い詰めたところで彼は「はて?」としか言わない。
資が拗ねてしょぼくれてしまうのも無理はないのだが、ご隠居は気にかけてもいない。
「そのお姫さまのことが忘れられないのなら、連れ去って駆け落ちでもなんでもすりゃあよかったのに」
「……軍を敵に回したら、岩波山はあっさり潰されますよ」
「それもそうだな……耄碌している年寄りの戯言など忘れてくれ。資の軍服姿が拝めるのも今日が最後かもしれないのだな」
「異母兄上の祝言でも着ますよ、これしか服がないんですから」
「退役したことだし、銀座に行って紳士服を仕立ててこい。高嶺の花との恋が叶わなかったからと勝手に感傷に浸っているのは構わないが、秋になったら岩波山の営業として全国の茶農園に飛ばすから覚悟しとけよ」
「はいはい」
帝都にある岩波山の店舗と工場を切り盛りするのは四代目有弦と傑だが、三代目は軍務を終えた資を全国の茶農園に派遣するつもりでいる。近くでは埼玉の狭山の岩波直営農園や有名どころである静岡の桂木農園、遠くは九州鹿児島に至るまで、良い国産茶葉を手に入れるため……
傑と綾音が結婚した後も自分は陸軍に所属したまま、国に仕えていくものだと思っていた資にとっていまの状況は青天の霹靂ともいえる。三代目いわく、軍で鍛えた身体を活かして営業をしろ、ということなのだろう。
「軍服を着て茶農園に行ったら、驚かれちまうぞ」
「それもそうですね」
ずっと帝国軍にいた資は傑と違い着道楽ではない。軍服があればそれで充分とふだんから同じものを三つ用意して着回している。陸軍学校の寄宿舎時代から何年も着ている軍服には愛着がある。自分で辞めると退役届を出したにも関わらず……いまも名残惜しそうに資は白いブラウスに濃紺のジャケットとズボンという夏の軍装をしていた。
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