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第二部 初恋輪舞 大正十二年文月~長月《夏》

赤き龍の策謀と張り巡らせる罠 01

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「ふぅん、やはり彼女は時宮にゆかりある姫君だったのか。ご苦労、黄桜屋」
「先生も物好きですね、綾音嬢の縁戚のご令嬢に目をつけるなんて」

 真夏の平日昼間の日本橋本町三丁目をのんびり歩き、朝顔の花が咲き乱れている夏季休暇中の門井小学校の横を通り過ぎた薬種商、黄桜屋の秋庭征比呂は、銀鼠色の着流し姿の顧客を前にへらへらとした笑みを浮かべている。どこにでもいるような地味な見た目の男性だが、征比呂にとって彼は手に入れられないものを与えてくれた神様のような存在だ。彼自身は「小生は神様ではなく悪魔である」と言っているが、征比呂からすれば自分の願いを叶えてくれる存在ならば神だろうが仏だろうが悪魔だろうが構わない、と考えているらしい。
 山縣真夜子の傍に書生として潜んでいたときは左田と名乗っていた悪魔は、ここでは先生と呼ばれている。悪魔と契約を結び、一晩のうちに賭場で多額の金と女を自分のものとした黄桜屋の倅は、自分に身の破滅が迫っていることに気づくことなく、今日も悪魔に媚を売っている。
 本性である赤き龍に変化できない活性化前の悪魔は、人間の姿を騙って多くの人間を堕落させたり、標的の女を欲望のまま抱くことで日々を怠惰に過ごしていた。契約者を使って帝都を混乱させることで、憂さ晴らしをしているともいえる。
 なかでもいま、悪魔が夢中になっているのが、浅草凌雲閣で見つけた「美味しそうな匂いのする」令嬢探しである。真夜子や綾音と違う、異能持ちでありながら清らかな気を持っていた彼女を、悪魔はどうしても自分の手で壊し、自分のものにしたかった。

「時宮の縁者ということは、やはり岩波山の結納の儀に招待された客人なのだろうか」
「さあ。傑のはなしでは異母弟がつきっきりで面倒をみているとか」
「ふうん」

 日本橋本町の大通りを抜けると、黄桜屋の看板が見えてくる。征比呂が裏口の扉を開けば埃っぽい空気に迎えられる。
 室内の汚さを気にすることなく、悪魔はずかずかと土間の奥へと進んでいく。

「……結納の日は、いつだったっけな」
「葉月朔日とのことでしたが、いまのところ動きがありませんね」

 日本橋本町大通りを通る際に岩波山の様子もみたが、店はふだんどおり営業しており、四代目と傑が忙しなく働いていた。岩波家と時宮家の親戚一同が会する結納前日だというのにそれらしき人物は見当たらず、周囲は閑散としていた。
 そのことをぽつりと征比呂がこぼせば、悪魔は鼻を鳴らし「延期したんだろ」と吐き捨てる。

「延期? どうしてですか」
「岩波山の、というより時宮の都合だろうなあ。破魔の異能を持つ綾音は帝都における魔物討伐を担っている。軍の管理下におかれている彼女が身動きできない状態ゆえ、結納の日程をずらしたと考えられる」
「はあ」

 征比呂にとって異能、というものはよくわからないが、綾音が悪魔に抗うちからを持っている厄介な娘であることは理解しているらしく、幼馴染の傑ともども気にかけている。岩波山有弦を名乗る男たちの呪いにも似た女運の悪さはこの界隈では暗黙の了解になっているからだ。

 傑が何を思って異能持ちの令嬢に近づき、婚約を勝ち取ったのか……その辺りの事情をよく知らない征比呂は、せいぜい幼馴染と彼に見初められた不幸な美少女が仲睦まじく過ごせるよう、とっておきの媚薬を言い値で販売していた。彼女のような美しい女性を自分も侍らせたいと願えば、悪魔は容易く叶えてくれる。その代償は「魔薬」を帝都に流通させること……
 悪魔の契約者となって以来、征比呂は彼が提供してくれる「魔薬」で多くの人間を堕落させ、破滅に導いていた。

「軍は綾音が組織を抜ける前に小生をどうにかしたいんでしょうなあ。そう簡単に尻尾は出せないが、あの美味しそうな姫君を見つけちまったからねぇ」

 土間の奥に辿り着いた悪魔は、棚に並ぶガラス容器を一瞥し、そのうちのひとつを手で持ち上げる。

「真夜子も可哀想な令嬢だったが、こうやって小生が今も愛でていると知ったら、喜んでくれるかなぁ?」

 悪魔が持つ透明なガラス容器のなかには、真っ赤な血を纏った臓器が液体に沈められている。

「軍の人間は喰べたと思っているだろうが、真夜子の心臓と子宮はまだ、大切に保管しているよ……」

 ふふ、と人間とは思えない妖しい笑みを浮かべた悪魔は、青褪めた表情で佇む征比呂に告げる。

「結納の日に、彼女を小生のもとへ連れていらっしゃい。たんまりと魔薬を飲ませて……ねぇ?」
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