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第二部 初恋輪舞 大正十二年文月~長月《夏》

初恋の自覚と口づけの練習 03

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   * * *


「昼過ぎまで眠っていたのだからお腹が空いているのはわかっていたでしょうに。昨日は夕飯しか食べていないって……どういう状況だったの?」
「……えっと、その」

 翌日の朝、様子を見に来た綾音と部屋でふたりきりになれた音寧は扉の向こうで無表情で仁王立ちしているであろう資の方向を見つめてため息をつく。

「資くんがこの鏡をあたしに返してきたってことは……露見しバレちゃった?」
「あっ――鏡!」

 綾音が差し出してきたトキワタリの鏡を見て、思わず受け取ろうとした音寧だが、「だめよ」と手で制されて動きを止める。

「あやねえさま?」
「訊きたいのはこっちの方よ。貴女が愛する有弦さまと鏡越しに顔を合わせたのは初日の夜だけよね? どうしてこんなに淫の気が減っているの?」
「……それは」

 今日の綾音は象牙色の涼しげな前ボタン式のワンピースを着ている。似たようなデザインのワンピースをどこかで見た記憶があると思った音寧は姉の「未来から貴女が来たときに着ていたワンピースに似てるでしょ」と言われて思わず赤面してしまう。西ヶ原の洋館の庭園を夫と散策したときに着ていたワンピースで冬薔薇が咲く西洋風の四阿で彼にボタンを外されて、そのまま淫らな行為に溺れた記憶まで思い出してしまったから。

「一昨日の夜にも、有弦さまと顔を合わせたからです」
「でしょうね。それで、自慰に励んでいるところを資くんに目撃された、と」
「……おっしゃるとおりです」

 項垂れる音寧を見て、綾音は苦笑する。こそこそ隠れて行動することがいかにも苦手そうな音寧である。元軍人の資に昼夜問わず護衛されているということは監視されていると言っても過言ではないのだ。かつて自分もそうして傑との情事を目撃されていたことを黙って綾音は呟く。

「淫魔に憑かれているとでも勘違いされた?」
「魅入られている、と。それで、禊を……」
「ふうん。だけど音寧は別に魔に犯されているわけではない、でしょう?」

 禊と口にしただけで頬を赤らめる音寧に対して、綾音は特に気にするそぶりも見せずにつづきを促す。魔を払うことが自分でできる綾音にとって禊は不要なものだからだろう。もしかしたら禊がどういうものなのかよくわかっていないのかもしれないが。
 綾音がそれ以上何も言ってこないのをいいことに音寧は素直に頷き、口をひらく。

「だから資さまは未だにわたしのなかに淫魔がいる、って」
「ほかには? 鏡を渡されたときに『こんな厄介なものを彼女に持たせるな』ってひどい形相で怒られたんだけど」
「……資さまと、契約を結びました」
「え。もう身体を繋げたってこと? やるじゃない」
「違う、んです……まだ」
「どういうこと?」

 破魔のちからを綾音から返してもらうためには自分の精力を高めるため資と身体を繋げ魔法の媒介となる精液を体内に摂取する必要がある。けれど彼は童貞で、ましてや音寧は未来の有弦の妻。たとえ護衛とその対象という関係で接近する機会はあれど、すぐに身体を許し合う仲になるのは至難の業だ。
 おまけに資は音寧が自慰の際に口走った「有弦さま」をこの世界にいる四代目有弦だと勘違いしてしまった。呪いを体現している父親に嫉妬し、淫魔に身体を貪られている異能持ちの姫君を自分が救いたいと、彼はこの秘密を軍に漏らさないという条件をつけて音寧に契約を提案した。彼女からすれば脅しに近いものだけど、それでも自分の目的を遂行する為には理にかなったものだからと、半ば絆される形で頷いたのだ。
 姫と愛おしそうに名を呼んで音寧の身と心を欲する資は、音寧のなかに巣食う狂おしい官能が五代目岩波有弦に抱かれつづけたことで生じたことを知る由もなく、淫魔の仕業だと断罪し、それを救済すべく自分がさらなる快感の上書きで魔を退治しようとしている。そのために身体を繋げるのも時間の問題だ。
 けれど。
 音寧は複雑な心境を綾音に伝えるべきか否か、逡巡する。
 漆黒の瞳で自分を見つめる綾音は、穏やかな表情を浮かべている。きっと、音寧が何を考えているかなど、丸わかりなのだろう。

「まだ、口づけの練習をはじめたばかり、なんです……」
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