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第二部 初恋輪舞 大正十二年文月~長月《夏》
鏡越しの逢瀬 03
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あれから傑は日本橋本町の岩波山へ仕事に向かうため、名残惜しそうに綾音と音寧と別れ、迎賓館から姿を消した。傑は落ち着いたら資と一緒にお店にも遊びにおいで、と言ってくれた。震災ですべて消えてしまう未来を知っている音寧は複雑な気持ちになったが、笑顔で頷いた。
傑を見送ってから迎賓館の管理人夫婦に挨拶した後、朝食を食堂でいただいた音寧は自分が滞在する部屋を綾音に案内してもらった。
そこは螺旋階段をあがった先にある三階の角部屋。
ふだんは身分の高い賓客をもてなすための特別室として用意されている豪華な部屋だ。
おおきな観音開きの扉の向こうに見えたのは千夜一夜物語を彷彿させるような異国情緒ある天蓋つきの寝台だった。これまたひとが三人くらい眠れそうなおおきさの寝台で、音寧ひとりが眠るために使うにはもったいないほどの広さがある。
綾音に問答無用でここにしばらく宿泊しろと言われた音寧は目を丸くするしかなかった。どうやら傑が異能持ちの時宮の縁戚の姫君として第参陸軍に匿ってもらうよう金のちからで申請した結果らしい。軍の上層部を黙らせた上で、退役したばかりの異母弟を護衛役に座らせたのも傑だという。食事は住み込みの管理人夫妻が準備してくれるし、身体を清めるための浴室と備え付けの衣装部屋まで室内に付随している。その上、衣装部屋には綾音が用意させたという彼女と同じサイズの色とりどりの服が掛けられていた。どうやら着せ替え遊びに興じたい双子の姉が我が儘を言ったらしい。
「着物はもちろんだけど、せっかくだから流行りの洋装にも挑戦したいわね。音寧に銀座のテーラーで作ってもらったドレスを着せてみたいわ。資くんは清楚なワンピースの方がお好きかしら。あと、寝るときはこっちにある夜着か浴衣を着て……彼を誘うなら夜着の方がいいかもね」
「あやねえさまってば!」
きゃあきゃあ言いながら衣装部屋の服を吟味したり、迎賓館内部を双子の姉と探検したりしているうちに時間はあっという間に経過し、夕刻、綾音はトキワタリの鏡を音寧に預けて時宮邸へと戻っていった。
「――やっぱりあやねえさまは、すごいです」
傑と綾音、ふたりは双子の妹へ破魔のちからを返しやすくするための舞台を一日で整えてくれた。けれどそのことを未来の夫へ伝える必要はないと綾音はきっぱり言い切った。とはいえ、明日から資が音寧の傍につくことになるからいまのうちに未来の夫と連絡を取った方がいいだろうと鏡を手渡された。未来のトキワタリの鏡の持ち主である音寧なら、呼びかけひとつで向こうを映すことができるから、と。
呼びかければこたえてくれる、淫らな精気を糧にする不思議な鏡を自分に向ければ、青みがかった黒目が自信なさそうに揺らいでいる。ほんとうに、彼は鏡の向こうで応じてくれる?
「有弦さま……」
『――おとね、か?』
呼びかけとほぼ同時に、鏡の向こうから愛しい夫の声が届く。
けれども、榛色の瞳に見つめられた瞬間に、鏡は曇ってしまった。
声は届くのに、姿が見えない。
姿を彼に見せるためには、音寧の淫の気を鏡に吸わせなくてはいけない。
だから音寧は彼に求められるがまま、はじめての自慰をして――……
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