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Ⅱ 神なき街に悪魔が嗤う * 5 *
しおりを挟む「朝庭。お前は残れ」
結局眠れなくて、案の定遅刻して、現にホームルームの終わりに優夜に命じられ、由為は教卓の椅子に座って待っている。
不思議なことに放課後の教室には誰もいない。ふだんなら女子生徒数名が残ってお喋りに花を咲かせている横で優夜の説教を受けるのに。
黒板には六時限目の日本史の授業で書かれた藤原一族の系図がぼんやりと残っている。
いまから千年近く前、平安時代、京の都では華やかな歴史ドラマが繰り広げられていたと説明を受けても実感がわくものではない。だが、昨日の出来事も実感がわかない。
由為が椅子に乗りながらキャスターをがらがら動かしていると、皺くちゃの白衣を着たままの優夜が呆れたような顔をして入ってきた。
「遅いですよ先生」
「そうか? 探してた本がなかなか見つからなくてな……これだ」
優夜は古そうな薄っぺらい本を一冊、抱きかかえるようにして持っていた。それを無造作に教卓の上へ置くと、一言。
「読め」
「……はい?」
本には『椎斎史』の文字。椎斎市民ではない由為にとって今まで縁がなかったものだ。
「この街のことを知らないと、昨日のことは説明できない。たいした歴史もないからすぐ読める」
たしかに薄っぺらい。今では椎斎は地方都市としての地位を確立することができているがそれも最近のことで、戦前はめったに土地の名を呼ばれることもなかった場所だ。この島国の西に位置する京の都のように古くから雅やかな文化が花開くこともなく、東の都のような近代化を導いた功績もない。歴史的有名人を排出したわけでも重要な戦乱の舞台になったわけでもない細々と農耕と漁業を営んでいた北方の鄙びた土地の歴史など、著名な文献に書かれることもなく、たいした記録が残っていないのも仕方がないのだろう。
「はあ……」
渋々、由為は優夜が持ってきた本を手に取り、頁を捲りはじめる。本というより冊子と呼んだ方がいいくらい薄いが、装丁はきちんとしている。自分が生まれる前に編纂されたというまえがきを素通りし、黄ばんだ紙を一枚めくると、白黒の写真が中央に現れる。
椎斎市に唯一ある神社、亀梨神社の写真だ。
「――平安末期に建立されたとされる亀梨神社にある御神木、椎の木がこの街の名である椎斎の由来である」
白黒なので見づらいが、太くて立派な古木の写真が掲載されている。
「当時、椎斎周辺は領地をめぐる争いが頻繁に起きていた。その戦乱をものともせず、アイヌの原住民と交易しながらこの道南の地を治めていたのが、逆井氏である……ふーん、やっぱり逆井って多いんですね。うちのクラスにも二人いるし」
たしかに椎斎には逆井という苗字の人間が多い。由為は頷きながら説明を読み進めていく。
逆井氏は広大な領地を支配していたわけではないが、末永くこの土地を治めていたという記述がされている。本州全体を揺るがした戦国時代の最中も、国土としての認知が低かったこともあり逆井氏の土地だけは戦火を免れ、ひっそりと人民が暮らしていたという。
次の頁を捲る。色あせた見開きのカラー写真がでかでかと載っている。頭頂部の薄い老人が車椅子で赤い絨毯を渡っている写真だ。椎斎の初代市長、鎮目繁昭と記されている。
どうやら中世から戦国時代をあっさりと飛ばして近代史に入ってしまったようだ。
「戦後、逆井氏とともに勢力を伸ばしたのが鎮目氏である」
椎斎市の現市長も鎮目だったなあと由為は反芻し、優夜を見上げる。彼は無表情のまま、由為が本を読み終えるのを待っている。
「鎮目氏は地域を活性化する際に尽力し、街の原型を造り上げ、現在に至っている」
幼稚園から大学院まで経営している学園法人をはじめ、病院、図書館などの各私立施設を提供しているのも鎮目一族だ。さかのぼれば逆井氏の分家筋にあたるそうだ。
その後は鎮目一族が街のために行った功績が箇条書きで羅列されている。銀行を中心とした金融業の起業からじゃがいもを祖とした新たな農産物の開発まで……由為は読み上げるのを諦め、本を閉じる。
「……読んだか」
「読みましたよ?」
由為は優夜に本を返し、向き直る。
「ほんとうに、たいしたことないんですね」
歴史書と呼ぶにはあまりに幼稚で、簡略すぎる地域の歴史。でてきた人名は逆井と鎮目の二氏だけ。編纂者の名を見ると鎮目正嗣と書いてあることから、一族の活躍を記した覚書でしかないような気もする。
呆れた表情の由為を見て、頷く優夜。
「現在の椎斎を牛耳っているのは鎮目一族だってのがよくわかっただろ」
「痛いほどにわかりました。でもそれが昨日の何に関係があるんですか?」
「鎮目には表と裏の顔がある。この本は表の部分しか取りざたされていない」
いまから俺が話すことは、一般には知られていない鎮目の役割と、この街がいま直面している恐るべき事態だ。
優夜の声のトーンがいちだんと低くなる。
「……恐るべき、事態?」
「お前が考えている通りのことだ。この土地で最近起きている不審死……主に椎斎周辺で起こる鉄道事故や自殺の類……放っておけば、事態は更に悪化する」
思わず唾を飲み込む由為の前で、優夜は淡々と言葉を紡ぐ。
「昨日、お前を連れて行った鎮目医科学研究所。あそこも鎮目一族が裏で使っている施設だ。そこで研究という名のもと行われているのが」
ガラッ。
物音に気付いた優夜が慌てて言葉を切る。由為も開かれた教室の引き扉を見やる。
「――ったく職場で教え子連れ込んで何しているのかなぁ『夜』の騎士さんよ。念入りに結界まで張っちゃって」
……誰?
由為は思わず優夜を見上げる。優夜はいつもの無表情でいるものの、声の主の登場でかなり動揺しているようだ。両手がぷるぷると震えている。
「景臣――なんでお前がここにいる!」
「なんでってこの学園の生徒だからに決まってるでしょう? 放課後に生徒とふたりっきりで内緒話しているセンセイに言われたくはないなあ」
優夜が景臣と呼んだのは、朱金に近い赤茶色の髪をした少年だった。見覚えのある濃紺の学ランは由為が着ているセーラー服と対になるデザインで、袖口には見慣れない青緑のラインが引かれている。どうやら三年生のようだ。
「内緒話……」
由為がぼそっと呟くと、優夜は由為からふいと目をそらす。たしかに内緒話をしていたのは事実だ。いかがわしいことは何一つしてないけど。
そんなふたりの反応を面白がるように景臣が茶化す。
「ってことは彼女が次の主なのかな? 『夜』の騎士さん?」
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