横浜メリーポピンズ

ささゆき細雪

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マリンタワー午後四時半の天候:雨

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「Chim Chimney, Chim Chimney, Chim Chim Cheree, A Sweep is as lucky, as lucky as can be……」

 映画メリー・ポピンズにはいくつも有名な曲がある。そのうちのひとつが「チム・チム・チェリー」、弘瀬の横で直井が口ずさんでいるのがその、煙突チムニー掃除の歌だ。

 そういえば彼女は合唱部だったなぁといまさらのように気づく。

 直井所縁が弘瀬のクラスから姿を消したのはいつだっただろうか。一年半くらい前だった気がする。そのまま休学届をだしたのが、たしか新学期に入ってからで。

 地味な女の子だった。海外小説が好きな賢い子だった。おとなしかったが、クラスに溶け込まない異分子でも、問題児でもなかった。不登校になったわけでもない。

 彼女の身体に問題が生じていただけで。

「直井」

 ひとり、うたっていた直井は呼ばれて向き直り、不安そうな弘瀬を安心させるように呟く。

「先生に会えて、よかった」

 ああそうだ。彼女はそう言って、退学届を自分に出そうとしていたんだ。

 それを、強引にも休学届にさせた。

 たとえ留年しようが、最後まで面倒を見てやると言い切って。俺のクラスに帰っていと命令口調で。そしたら彼女は渋々頷いて。

 そのまま、学校のある島根の辺鄙な町から大阪にある病院へ、長期入院したと聞く。

 お見舞いに行きたくても時間が取れず、結局弘瀬はその後の彼女のことを知らないでいた。そのかわり、罪滅ぼしのように、彼女の病が完治するよう、彼は手術のためのお金を集めることにした。学校だけでなく、近所の住民をも巻き込んで、直井の難病を救おうと、奔走した。それしか自分にできることはないと思ったから。

 結局、寄付によるお金だけでは手術費用に到達しなかったが、直井の両親はありがたくそれを受け取ってくれた。闘病生活を送る娘が、いつかまた戻ってくることを諦めないでいてくれてありがとうと感謝してくれた。

 もし、彼女の担任になっていなかったら、そこまでしただろうか? 今思うと、ひいきどころの話じゃないわなと苦笑を浮かべる。慈善、偽善、どっちつかずな善意は、もしかしたら弘瀬の本心を欺いていたのかもしれない。

 この少女が自分を慕っていると同時に。

 自分もまた、認めてはいけないというのに、ひとまわりも年齢が離れた彼女に、同じ想いを、抱いていたのだから。

 だから。

 彼女が自分の前にいる奇跡を、弘瀬は夢なんかじゃないと、拒もうとしている。

 密かに想いつづけた少女が、二度と消えてしまわぬように。

 それなのに。

「もう一度、会えてよかった」

 幽霊じゃないよと言いながら、もう二度と会えないことを示唆する直井。

 そしてまた、うたいだす。

「Chim Chimney, Chim Chimney, Chim Chim Cheroo……」

「Good luck will rub off when I shakes hands with you」

 弘瀬もその、懐かしいメロディを、一緒になって口ずさむ。メリーポピンズ、彼女は魔法を使う素晴らしき乳母。

 もし本当に魔法使いがいるのなら、このまま時間をとめておくれ。なんて、俺も直井に毒されておるな……

 楽しいのか哀しいのか、よくわからない。

 まもなく閉店です、とアナウンスが流れるまで、ふたりはうたう。うたいつづける。


   * * *


 追い出されるように展望室のカフェを出て、弘瀬は時計を見る。時刻は午後五時十分。そろそろ生徒たちが集まってくる。

 隣でうたいつづける直井の右手をつなぎ、弘瀬は集合場所へ足を向ける。直井の手は想像以上に冷たく、弘瀬を戸惑わせる。

べたいな。なん?」

 嬉しそうに、直井は弘瀬の手を握り返す。

「先生って、英語は流暢なのに、相変わらず訛りがあるんだなぁって改めて思ったの」

「失礼な。お前こそ大阪行っとったくせに。なんか洗練されたんじゃなか?」

 言い返すと、思いがけない応えが返ってきた。

「あたし、手術受けるために転院したの」

「……え?」

 それ以上のことは言わずに、直井はハミングをはじめる。このメロディは……

「どういう、こと?」

 魔法の呪文を唱えて、少女は儚げに。

ありがとうだんだん……」





 ――白昼夢は、唐突に破られた。





「弘瀬先生、やっと見つけましたよ! どこ行ってたんですか」

 ガラス越しに、海を眺め、立ち尽くしていた弘瀬の身体を、体育教師の高崎が軽く揺する。

「……高崎先生」

 集合時間十分前。マリンタワー前に見知った生徒たちがぞくぞくと姿を現している。

 雨はやんでいた。

 生徒たちも弘瀬の姿を見つけて笑いかけてくる。我に却った弘瀬は、教師の顔に戻り、観光船から手を振ってくれた少女に尋ねる。

「近藤、楽しかったか?」

「うん!」

 異国情緒たっぷりの中華街と赤レンガ倉庫を探索したのだろう、両手にぶらさがっているみやげ物のカラフルな袋が眩しい。

 雨降る中まわっていたみなとみらいの観覧車から見下ろした世界はまるでおもちゃ箱を引っくり返してしまったかのようですごかったと近藤は熱弁を振るう。何がどうすごいのかは弘瀬には理解できない。

「でね……あれ? 先生、なんで女物の傘なんか持ってはるの?」

 近藤に指摘されて、はじめて自分がピンクの傘を握りっぱなしだったことに気づく。直井の傘だ。

「……ほんとだなあ」

「先生さっきからぼぉっとしっぱなし! 集合場所にいなかったから時間間違えたのかと思ったっ!」

「あー、悪い悪い。近藤、そういやお前合唱部だよな?」

「ん? そだけど?」

 きょとん、とした表情の近藤に、弘瀬はたたみかけるように尋ねる。

「直井所縁、覚えてるか?」

 切羽詰った表情の弘瀬にたじろぐように、近藤は応える。

「なおいちゃんがどうしたん? たしかぁ、横浜の病院で手術して無事成功したってのは聞いたんやけど……って、先生どしたの! どこ行くのっ!」

 近藤の話を最後まで聞かず、弘瀬は背を向けていた。

「悪ぃ近藤! 高崎先生にあとは頼んだって言っといてくれや!」

「え? ちょっと弘瀬先生っ……!」

 生徒たちがざわめく中を、弘瀬は走り出す。がむしゃらに、ただ、がむしゃらに。
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